FILE12「雨、今日もあの日も」

 状況に理解が追いつかない。


 ボクの知らない、赤い髪のその男は、家綱同様全身から血を滴らせながらも立ち上がり、猿無を睨みつけている。


 猿無の方も少し困惑しているようだったけど、すぐに男が血だらけであることに気づいてニヤリと笑みを浮かべた。


「何がなんだかわからんが、そんな身体でどうするってンだよ、えぇ? 今度こそ俺をブン殴るってのか?」


 猿無の挑発に、男は答えない。血と雨を吸った上着を脱ぎ捨てて、ただギロリと男をにらみつけるとゆっくりと歩み寄り始めた。


 ボクは、正体不明のその男に声をかけることが出来ない。状況的に間違いなく家綱の人格の一人だとは思うんだけど、ボクは彼を全く知らない。なんて呼べば良いのかもわからないし、ましてや今何を考えているのかなんてわかるハズもない。


 緩慢な動きで近寄ってくる男に、猿無は一瞬躊躇していたが、やがてチャンスと判断したのか右手で手刀を繰り出した。


「や、やめろぉっ!」


 思わず叫んだボクの声には、誰も反応しない。猿無の手刀は容赦なく突き出され、男はそれを避けもしないでまともに受けてしまう。


「……ッ!?」


 結果的に、男の身体に猿無の手は刺さらなかった。それどころか、鈍い音がして猿無の手は弾かれている。


「え……?」


 ボクにもわけがわからなかったけど、もしかするとそれがあの男の能力なのかも知れない。家綱や葛葉さんに個々の能力があるように……。


 これなら猿無を倒せる。そう思ったけど……なんだろう、この不穏な感じは。


 あの男が持っているあの危険な雰囲気は一体……?


「なッ……!?」


 次の瞬間、猿無が男に右手首を掴まれると同時に驚愕の声を上げる。男はそれには構わずそのまま掴み上げると、容赦なく猿無の腹部に膝蹴りを喰らわせる。


 だけど猿無が呻き声を上げるよりも、男が左拳で顔面を殴りつける方が速い。男は殴りつけた後、猿無をまるでボロ雑巾か何かのように地面へ叩きつけると、そのまま馬乗りになり、左右の拳で交互に顔面を殴りつける。


「や、やめろよ……」


 淡々とやっているようには見えない。


 楽しんでいるようにも見えない。


「やめろって……ねえ、やめてよ……!」


 ただ顔中に激情を塗りたくり、男はひたすら猿無を殴りつける。塗りたくられた激情の中で、差し色みたいな悲壮感が見るに堪えない。


 彼は何を思っている?


 何をそんなに悲しんでいる?


 ボクには皆目見当がつかない。


「もういいだろ……もういいって! やりすぎだよ! やめてよ!」


 ただ見ていて、辛いだけだった。


 猿無はもう、ピクリとも動かない。それでも、まるで理性も知性もないみたいに殴り続ける男に駆け寄って、ボクは強引にその右腕を掴んだ。


「こ、これ以上は死んじゃうだろ! 何無茶苦茶してんだよ!」


 すると、やっと男はボクの方へ視線を向ける。言葉は何も言わなかったけど、雨と返り血で汚れた顔が、邪魔をするなと言っているように見える。


「誰だよ……お前……何でこんな滅茶苦茶するんだよ……!」


 ギロリと、男がボクをにらみつける。一瞬それですくみあがったけど、やがて男はゆっくりと目を閉じて、ボクの方へもたれかかるように倒れ込む。


「えっ……? あ……!」


 出血が酷い。あれだけ切られていたのに無理矢理動いた上に興奮していたせいなのか、出血は先程までより酷く見える。男は血を流しながら、ゆっくりと流動的に身体を変化させて家綱の姿に戻っていく。苦しそうに倒れている家綱を見て、気を失いそうになるのをなんとかこらえて、ボクは路地裏の外へ向かって声を張り上げた。


「だ、誰か……っ! 誰か来てください! きゅ、救急車をっ!」


 こんな時に、携帯がないのが悔やまれる。どうして無理してでも買っておかなかったんだろうって、今更しても仕方のない後悔をする。


 ああ、雨がやまない。


 どうしてこんな、追い打ちをかけるように降り続けるのだろう。


 叫び続けて数分後、雨の音に紛れて、やっとサイレンが聞こえた。


















 事件から数日、家綱は目を覚まさなかった。


 家綱も猿無も病院へ搬送され、ボクは何度も事情聴取をされた。


 どうやら嬉々開会は警察とも繋がりがあったようなのか、陸奥峠さん達の助力で家綱の……あの男の過剰過ぎる暴力は正当防衛扱いされたけど、一命を取り留めた猿無は陸奥峠さん達には引き渡されず、退院後逮捕されることになってしまった。当然依頼は失敗。陸奥峠さんから依頼料は振り込まれず、家綱は重傷を追って入院。ボクはしばらく、お見舞いのために通院することになった。


 家綱の傷は幸いどれも浅く、入院は一ヶ月程度ですんだものの当分は仕事も出来ないので七重探偵事務所は臨時休業となった。


 目を覚ました直後の家綱は、何も話してはくれなかった。ボクだって色々聞けるような精神状態じゃなかったし、とにかく家綱にとびついてわんわん泣いてしまったのが今となっては恥ずかしい。


 家綱が目を覚ました翌日、お昼前に病室へ向かうと家綱は身体を起こして窓の外を見つめていた。


「……身体起こして大丈夫なの?」


「……まあな」


 怪我のせいもあってか、お互いにいつもの軽口がうまく出て来ない。


「こんな状況だから、寝てるかと思ったよ」


「陸奥峠さんがさっきまで来ててな。起こされたよ」


「……そっか。何か言ってた?」


「怒鳴られたよ。それも滅茶苦茶にな」


 陸奥峠さんが怒るのも無理はない。本当は会長にも知られないまま外部の手を借りて、猿無を捕らえてなんとか事態を穏便に片付けようとしたのに、病院に警察が関わった挙げ句猿無の身柄は警察に引き渡すはめになったのだ。おまけに本来なら罪に問われるハズの家綱を救うために色々してくれたみたいだし、迷惑しかかかっていない。


「……そりゃ、怒られるよね……。依頼は失敗したんだし」


「いや……それよりも『自分の身体を顧みねえで無茶苦茶するんじゃねえ』ってよ。後、『嬢ちゃん泣かすんじゃねえよこのボケ』ってな」


「えっ……? じゃあ、陸奥峠さんは普通に家綱のこと心配してたの?」


「……ああ。後お前もな」


 ……そういえばボク不安過ぎて、最初に陸奥峠さんが病院に駆けつけた時に泣きついたんだっけ……。恥ずかしいなほんと……。


 陸奥峠さん、やっぱり普通に良い人なのかも知れない。ヤクザだけど。


「……由乃」


 不意に、家綱が真剣な面持ちでボクを見つめる。ある程度意図が理解出来たボクは、まっすぐに見つめ返した。


「お前に話さなきゃならねえことがある」


「うん、いっぱいある。教えてよ、話せる限り。でなきゃボク、助手やめちゃうからね」


「はは……そいつは困る。なんせうちの事務所はお前のおかげで成り立ってンだからな」


「……なんだよしおらしいな……ちゃんといつも通り悪態吐いてよ」


 この間みたいに俺が所長だぞ、だなんて言ってくれると思ってたのに、あっさり認められちゃうと張り合いがない。


「まずは……アイツの話からだな。猿無と戦ったあの赤髪の男は……俺の人格の一つだ。お前にとっちゃ七人目だな。名前はセドリック……アイツは、全てを憎んでいる」


「全てって……?」


「俺という一つの身体に七つの人格。よく考えりゃこんなに窮屈な話はねえよな。アイツは、一つの身体の中に押し込められ、自由を奪われていることに憤っている。何故自分が存在するのか、こんな閉じ込められたままの運命なら、いっそのこと存在しなければ良かった……自由を享受する全てが憎い、ってな」


 ボクは今まで、家綱の人格のことをそんな風に考えたことはなかった。言われてみれば家綱達は、全員がそれぞれ個性があって、一人ひとりが独立した人格……人間なんだ。それが七人も一つの身体に押し込められていれば、窮屈なのは当然だ。皆何でもない風にしているけど、本当は心の何処かで思っているのかも知れない……自由になりたいって。或いは、全員のそんな思いが吹き溜まった結果が、セドリックなのかも知れない。


「アイツは俺が押し込めていた……顔出せばああやって暴れるからな……。俺の力不足で、お前にまで怖ぇ思いさせちまった……すまねえ」


「……いいよ、それは。もう陸奥峠さんに怒られたんでしょ?」


「ああ……たっぷりとな」


 たっぷりと、の部分を冗談っぽく強調して、家綱は少しだけ笑みをこぼす。


「セドリックの話をした以上は、アニキの話も、俺の話もしねえとな……。長くなるが、このまま話して良いか?」


「いいよ、お願い」


 ボクが即答した後、少しだけ間があった。


 家綱は意を決したかのように息を吸い込んでから、やがてゆっくりと口を開く。


「アニキは……七重家光は……」


 ずっと知りたかった、ボクに出会う前の家綱の物語。


 でもそれはあまりにも物悲しくて……だけど、耳を塞ぐわけにはいかなかった。


「俺が、殺したようなモンだ」




 その日も、雨が降っていたみたいだ。




















 七重探偵事務所。それは罷波町に存在するそこそこ名の知れた探偵事務所で、ペット探しや浮気調査等、様々な依頼を相場よりも安く請け負ってくれることで有名だった。


 ある昼下がり、七重探偵事務所の探偵、七重家光ななえいえみつは事務所の姿見を使って丁寧に自分の身なりを確認していた。


 ピシッと着こなしたスーツにしわがないか確認し、いつもは緩めの表情を何とか引き締め、いつもより多目にワックスを使ってオールバックに固めた髪に乱れがないか右手で触りながら確かめる。


「……よし、問題ねェな」


 三十歳を過ぎたくらいから若干顔のしわが気になり始めてはいるものの、今日もうまく決まったと、家光は思う。普段はもう少し適当にするのだが、今日の依頼人は女性で、少しでも格好をつけようと朝から気合を入れて身だしなみを整えていたのである。


 それから程なくして、事務所のドアがノックされる。すぐに中へ通すと、家光と同じくらいの年代に見える女性が入って来た。


中里清子なかざとせいこさんですね、お待ちしておりました。俺は……いや、私はこの町の頼れる探偵七重家光です……どうぞ、よろしく」


 うやうやしく家光が一礼して見せると、中里は少し困ったようにはにかんだ後、軽く挨拶をすませてから来客用のソファへ座る。


「それで、どのようなご依頼で?」


 コーヒーを淹れ、中里の正面に座りながら家光が問うと、中里はゆっくりと依頼内容を話し始めた。


 話によると、彼女は郊外の一軒家に祖母と一緒に住んでおり、最近近くの雑木林の向こうから奇妙な騒音が聞こえてくるので調べて欲しい、とのことだった。


「それでその、奇妙な騒音……というのは?」


「はい……聞き間違いかも知れないんですけど、何やら人の叫び声のようで……。私の家からその建物までそれなりに距離があるので、相当大きな声で叫んでいるようなんです。それも、何か苦しんでいるような……」


「……それは本当に気味の悪い……。建物に近づいたことはありますか?」


 コーヒーを一口飲みつつ家光が問うと、中里は小さくかぶりを振る。


「恐ろしくてとても……」


 となると、前情報は叫び声以外はほぼゼロということになる。しばし考え込む家光だったが、特に断る理由はない。建物に関する情報こそないものの、こういうのは被害者側の誤解である可能性も十分にある。


 家光は飲み干したコーヒーカップを丁寧に机の上に置くと、深く頷いて見せた。


「わかりました、受けましょう」


「……! ありがとうございます!」


「あなたの不安を一日でも早く取り除きたい……この七重家光にどうぞお任せを」


 少し冗談めかして一礼し、家光は穏やかに微笑んだ。






 中里の依頼を受けた当日、家光はひとまず町を歩いて例の建物について調べて回ったが、特に情報は得られなかった。やはり知っているのは近隣の住民だけのようで、中里の話以上のことを知っている者はいないようだった。


「……となると、もう直接行ってみるしかねーか」


 疲れて事務所へ戻る頃にはもう、時刻は午後八時を過ぎていた。淹れたばかりのコーヒーを飲みながら適当に窓の外を見やると、ぽつぽつと微かに雨が降っているのがわかる。よくよく思い返せば、新聞で見た予報だと今夜は雨だったことを家光は思い出した。


「……今日はもうやめとくか」


 中里によれば叫び声が聞こえるのは夜。今から行けば丁度現場に居合わせられるかも知れないが、わざわざ雨でずぶ濡れになることはない。きちんと調査するなら、昼間に訪問して中の住人と顔を合わせて直接話を聞くのが先だろう。


 そんなことを考えていると、事務所の電話が鳴り響く。番号を確認すると、電話の主はどうやら中里のようだった。


「はい、七重探偵事務所です――――わかりました、すぐに行きます」


 二言三言やり取りをした後、家光はすぐに事務所を飛び出した。












 例の建物から騒音が聞こえる。それもいつもの叫び声ではなく、何かが壊れるような音が聞こえる。中里から連絡を受けた家光は、すぐに現場へと向かう。そして一度中里と顔を合わせてから現場へ到着し、目の前に広がる光景に愕然とした。


「嘘……だろ……?」


 建物からはとめどなく煙が上がっていた。どうやら火事になっていたようだが、雨のおかげでほぼ鎮火しており、このまま燃え広がることは恐らくないだろう。


 一体何が起こっているのか皆目見当もつかない。そもそもこの建物についてわかっていることはほとんどなく、この事態に対してどうするべきなのかも判断しかねる状態だ。ひとまず警察や消防署に連絡するべきかとも思ったが、家光は携帯を持っていない。


 どうしたものかと考え込んでいると、建物の入り口から誰かが出てくるのが見える。慌てて木陰に身を隠して様子を伺っていると、出て来たのは男で、衣類を一切身につけていないことがわかった。


 その不自然な出で立ちを不審に思って見ていると、男はその場でうつ伏せに倒れる。それを見て家光は数瞬考え込んだが、やがて木陰から飛び出して倒れた男へ駆け寄った。


「……おい、しっかりしろ! 何があった!」


 倒れた男をしばらく揺さぶっていると、男は微かに目を開く。


「俺、は……誰だ……?」


 その答えを知る者は、ここにはいなかった。

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