あなたの精神、鍛えなおします。
床崎比些志
第1話
2020年の夏、その店は新宿の大ガードをくぐって西口にむかう路地にひっそりオープンした。
店の名前はなく、ただ『あなたの精神鍛えなおします』という看板だけがぶら下っている。
安藤マミは歌舞伎町での飲み会の帰りに偶然その店の前をとおりかかり、看板の前で足を止めた。
こどものころからずっと精神力が弱いと親や教師に言われ続けた安藤マミにとって、それは心をくすぐる売り文句だった。
考えてみれば、精神力の弱さが災いして、いつもここ一番というところで失敗していた。そのため上京して五年たつが、仕事や私生活もうまくいかない。さらに都会での一人暮らしの孤独と不安と、持病の偏頭痛のせいで安藤マミの心は文字どおり雑踏に踏みつぶされたボロ雑巾のようにボロボロになっていた。
ーーあやしげな店構えにためらいをおぼえつつも、安藤マミはいざなわれるように店先へ歩みを進めた。そして、気がつくとそのまま店の暖簾をくぐっていた。
すぐに初老の店主が現れ、鼻眼鏡のまま愛想よく近よってきた。
「いらっしゃいませ。精神を強くなさりたいのですね」
「いえ、いや、あの、っていうか、そうです」
安藤マミはしどろもどろにこたえる。
「今ならすぐに鍛えなおせますよ」
初老の男が、予想外にぐいぐいくるのでおもわず体をのけぞった。
「でも、どうやって、鍛えなおすんです?」
「それは企業秘密でお教えできませんが、まあわかりやすくいうと、鍛冶屋が刀を鍛えなおすのといっしょです。三日三晩、精神そのものに負荷をかけて丈夫にするんです。ここに来るまえは小樽で同じ店を出していましたが、いちどもクレームを受けたことがありません。みなさんに、ご満足いただいていますよ」
安藤マミはいかがわしいと思いながらいつしか店主の人のいい笑顔とじょうぜつな口上にのせられていた。
「あのお、いくらです?」
「料金ですか?一万円です」
一万円なら、効果がなくても後で笑い話のネタにすればいいやという気もしたが、もしそうならやっぱり一万円は惜しい気がしてならない。安藤マミは財布から一万円をつかんだまま、しばらく体をフリーズさせた。すると見かねた店主が、すかさず
「大丈夫ですよ、もし効果がなければ、お代はお返ししますよ」
と如才ない笑顔でさらに顔をよせてくる。安藤マミはもともとぐいぐいこられると断りきれない性格なので、つかみかけの一万円札をそのまま店主に渡した。店主は仰々しく代金をおしいただいて懐におさめると、目の前にある古びた床几を指さした。そのままそこに横たわれということらしい。安藤マミは、うながされるまま床几の上に仰向けになった。
すぐに掃除機の吸い取り口のようなものを口にあてられた。すると、内臓がのどからとびだしそうな気持ち悪さを感じて、あっというまに意識をうしなってしまった。
ほどなく目が覚めたが、それから店主とどのような会話をして、どうやって家に帰ったかもよくおぼえていない。別に物を盗まれた様子もなければわいせつなことをされた形跡もなかった。しかし、その後もずっと体の中からたましいを抜かれてしまったような虚脱感だけがいつまでも消えない。
それから二日間は、なにもやる気がせず、しかたなく会社も休んだ。とりあえず、なけなしの一万円を支払ったこともあり、約束どおりもう一度店に行くことにした。
三日後の夕方、安藤マミは意識朦朧としたまま鉛のように重い体をひきずって、新宿へたどりつき、名前のないその店の暖簾をくぐった。
すぐに奥から店主が出てきて、ニッコリほほえみかける。
「お待ちしてましたよ。準備万端です。いい具合に、がんじょうに仕上がりました。さあ、さっそく新品の精神を注入しましょう」
このまえとおなじように床几のうえに寝かされると、また掃除機の吸い取り口のようなものを口にあてられた。
すぐに目を閉じているにもかかわらず、まばゆい光がまぶたの裏までさしこんでくるのがわかる。そしてみるみるうちに全身に力がみなぎりはじめた。
「あなたの人生はこれからです。幸せをとりもどしてください」
という店主のやさしい言葉に安藤マミはおおきく子どものようにうなずくと、すくっと立ち上がった。まるで別人の体をまとったかのように全身が軽い。そのまま跳びはねるように店を出た。
外はすっかり夜の帳が下りていたにもかかわらず、ガード下のモノクロの世界も、まるで自分の再生を祝福するかのようにきらびやかに輝いて見えた。
翌日から安藤マミの生活は180度変わった。仕事も恋愛も友だちづきあいも、すべてがうまくまわり始めた。もちろん、基本的に外見も能力も変わっていないので、うまくいかないことやがっかりすることは今までとおなじようによくあるのだが、いやなことがあっても凹むことがないし、なにを言われてもこたえない。いつも他人の顔色や息づかいにさえも気をつかいながらビクビク生きてきた自分がウソのようにおもえた。
もうなにも怖くない。まさに鋼のような精神力なのだ。
そうなるといろんなことに前向きになれた。ただから会社に行くのも友人と食事やショッピングに出かけるのも、たのしくてしょうがない。
心の余裕ができると、表情が明るくなり、他人への気づかいも自然とできるようになる。当然、異性からも急にもてるようになった。そして恋人もできた。
もう、ありとあらゆることがうまく行き始めた。ご飯もおいしいし、夜もぐっすり眠れる。おかげで持病の偏頭痛もなくなった。
そのまま、安藤マミはこの先もずっと順風満帆な人生を送れると信じていた。
ところがいいことはあまり長く続かない。それから二ヶ月後ーーその店の店主が詐欺容疑で逮捕されたのだ。
そのニュースをインターネットで見たとたん、魔法はとけた。安藤マミはもとの無気力人間にもどり、運にも仕事にも恋人にも見はなされる。
一週間後、安藤マミは店主が勾留されている新宿署の留置場に足をはこんだ。店主はこころよく安藤マミとの面談におうじた。
ひとくさり文句をいってやろうとおもったが、店主ののん気そうな顔をみるとなにもいえなかった。ただ詐欺師の口車にのり、生まれ変わったと勝手にいい気になっていた自分が情けなくて、涙がこぼれた。
「効果はあったでしょう?」
いつまでたってもなにもいわないので、店主がそういうと、
「ええ。でも、なくなりました……」
と、安藤マミはこたえ、またなにもいわずに涙をこぼす。
しばらくして、安藤マミは軽く会釈をして面談室をあとにした。そのうつむき加減のちいさな背中を目で追いながら、店主はため息まじりにつぶやいた。
「我ながら、最高の出来ばえだったっしょ。したって、いちど折れちまったらあ……もとにもどすのは至難のわざだべさあ」(了)
あなたの精神、鍛えなおします。 床崎比些志 @ikazack
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます