ヒトノコ幻想奇譚
正木修二
待ち人
雀の声が遠くに聞こえる。名残惜しい気もしたが渋々布団から這い出、障子を開ければ、梅の新緑が朝陽に透いて鮮やかに輝いているのが見えた。庭に降り、古い井戸の淵に手をかけて中を覗き込んでみる。縄を引っ張れば、滑車はキュルキュルと音を立てて底の見えぬ暗闇から鶴瓶を引き上げた。水を口に含みゴクリと嚥下すれば、内側から身が引き締まるような感覚を覚えた。
鰹節を削るところから始め、飯を炊き、魚を焼いてく。手馴れたものだ。箱膳と食器は二人分用意する。但し飯をよそうのは、己の分だけである。
「戴きます。」
声は、朝のしじまに溶けるように消えた。
襖を開ければ庭を望めるこの部屋は、広い屋敷の中でも特に気に入っている場所である。苔生した庭には梅だけでなく紅葉も植わっており、時期になればその鮮やかな赤は縁側さえも美しく彩る。その為、毎年縁側を磨くことは欠かさない。黒光りしたその場所は、自分とこの屋敷の本来の主人の為の特等席である。また、井戸の手前を横切り左手に続く石畳の向こうには、紫陽花や躑躅やらが植わっており、暫く歩けば小さな池がある。これは、この妖世界で言う富士、鬼ヶ岳の伏流水が湧き出したものである。冷たく澄んだ水に靡く水草は見ているだけで心が落ち着くものがあり、いつまでも見飽きることが無い。池の右手には古びた灯篭があって、少し欠けているのがまた趣がある。
そんな自慢の庭を眺めていた時であった。風もないのに、梅の陰で何かが揺れた。
「……」
「お帰りなさいませ、外道丸様。」
薄暗い影の中、すうっと浮かんできたのは面妖な形をした生き物であった。雪のように白い肌に、右の額から伸びる黝い立派な角。艶やかな黒髪は首元で一つ雑な団子を作っているにも関わらず、地に着かんばかりである。
此方を向いて立ち尽くすその人外は、正にこの屋敷の本来の主人その人であった。
「ただいま。」
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