第4話 夢と現実と

「ま、待って」

 さっきまでの疲れも忘れて叶夢は後を追った。


 チィのはずがない。

 だって、生きていればとうに三十を越えていることになる。

 あんなに速く走れるものか。

 だけど、その白猫はまぎれもなく叶夢のよく知っている猫で、彼女も叶夢を知っていた。


 白い背中を追う叶夢は、ここへ来るまでも全速力で走ったと思ったが、今はそれ以上のスピードで走らなければならなかった。

 手足がちぎれそうという言葉の意味を、今初めて知った。

 山の夜の冷たい風が、手を、足を、頬を、切るようで痛い。

 息が追いつかなくて肺から変な音がするようだ。

 足場を選ばない道で、足の裏の切り傷が悲鳴を上げている。

 何度か転んだが、チィはふり返りもしない。

 すぐに起き上がってかけ出さないと、暗い山の中で見失いそうだった。

 追っている猫が実はチィではなく、追いかけるという行為が的外れかもしれないと、走りながら思わなかったわけではない。

 それでも、今はチィと思われる猫を追うしかなかった。

 チィは一応は叶夢のことを考えてくれているのか、人間のこどもでも通れそうな所ばかりを案内はしてくれた。

 それでも、叶夢の身体能力まで考慮してくれているわけではない。

 急な坂かゆるやかな崖かといった所まで登るようになっていた。

 叶夢は何度も滑り落ちながら、行く先に星が落ちていくのを見た。

 いくつもの星が、そこに帰っていくようだった。

 土粘土を固めたような大岩の数々を、白猫ははずむように軽々と越えていく。

 しかし人間の叶夢はそうはいかない。

 陽菜や卓也のように探検ごっこなどという遊びを普段からよくやっている者ならばともかく、整えられていない足場ではどこに足を置いていいかもわからず、度々足を滑らせてはもがいていた。

 またしてもズルリと落ちそうになった叶夢は、そばにあったものをとっさにつかんで悲鳴を上げた。

 松の木だ。

 右のてのひらに針の葉がささって血が出ている。

 血が出ているからもう指に力が入らない。バイ菌が入るといけないからもう汚れるようなことは出来ない――普段ならば、簡単に言えた台詞なのに。

 叶夢は傷口をなめるとまた岩に手を伸ばして登り続けた。


 小さな崖を登り切るとそこには、造られたように平らな地面が広がっていた。

 奥には黒い森が見える。

 乱れたパジャマを整えようと胸元に手をやると、取れかかっていたボタンが落ちて転がった。

 崖の上の草の上に落ちたところを拾いに行こうとすると、

「シャーッ!」

と怒ったチィの声に止められた。

 もっと先へ進んでしまっているかと思っていたのに、まだ待っていてくれたのか。

 先ほどまでとは違って走りだすことはなかったが、再び歩きはじめたチィを追うことにして、ボタンはあきらめた。

 それでもなんとなくふり返ってボタンの転がった先を見ると、暗くてはっきりとはわからないが、足場が悪くて崖から落ちてもおかしくはなさそうな所だったので、行かなくてよかったと、チィに少し感謝した。

 気のせいか、そこは水の流れるような音がしていた。


 チィはあの黒い森に向かって歩いている。

 星も、あの森へと向かって流れていく。

 あの森こそが目的の地なのだと叶夢はさとり、中に足を踏み入れた。

 森は大きく、真っ黒な木々に包まれている。

 そして静かだった。

 それなのに生命を感じる。

 温かさを感じる。

 初めて訪れた場所なのになつかしく、安心して体から余計な力が抜けていったが、同時に体中から力があふれてくる。

 真っ暗で何も見えなくても怖いとは思わない。

 優しいものに守られているような気がして、それでいてどうしてだか切なくて思い切り泣きたくなった。

 チィの姿はいつの間にか消えていて、暗い森の中で木々に傷付けられることなく、血を流す足をいたわるような柔らかい土と苔の絨毯を踏みしめて、叶夢は神様の御許みもとへと歩んでいった。

「――神様」

 神様、神様。

 居ますか? ここに。

 どうか助けてください。

 僕の大切な人たちを。

 つらくて苦しい状況から、悲しくてたまらないこの気持ちから、どうか救い出してください。

 神様。あなたが本当にいるのなら――…







 …ドオオオォォォン


 ドオオオォォォン


 音が聞こえる。

 なんの音だ。

 すげぇうるせえ。


「卓也、起きて。早く起きないと学校に遅れるわ」

「げぇっ。もうこんな時間かよ。なんでもっと早く起こさねえんだよ。母ちゃんのバカ!」

「乱暴な口の利き方はやめて。まるでお父さんみたいよ」

「あんな酒のみと一緒にすんなよ。昨夜も暴れてコップとか投げてたし。なんであんなのと結婚したんだよ。もっといい男いただろ。――そういやこないだ、叶夢ん家の近くにいなかった? 一緒にいた男の人、イケメンだったよな」


 ドオオオォォォン、ドオオオォォォン、ドオオオォォォ


 うるさいうるさいうるさいうるさい。


「うっせえ。マジ何だよ。この音」

 自宅で眠っていた卓也は、聞こえてくる騒音に耐えられず、母親が出ていった日の朝という悪夢から目を覚ました。

 朝方やっと眠りについたばかりだっただけにまだ眠くてたまらないが、この騒音では眠れやしない。

 父親の姿はそこにはなく、枕元のたたみの上にジャムパンとペットボトルのジュースが置いてあった。

 そしてその下に、何かの紙の裏に汚い字で書き置きがしてある。


----------------------------------------


 卓也へ


 ひなちゃんは目をさましたらしい

 お前は今日学校休みたかったら休め

 おれはどうしても今日の仕事ははずせないから行ってくる


     父ちゃんより


----------------------------------------


 窓の外から、地ひびきとともに何かをぶつけて壊し、けずり取るような大きな音がしてくる。

 卓也はジャムパンの袋を開けながら窓の外を見て、それが何の音かわかった。


「……ああ。星子ノ山の工事、始まったんだな」




「山の工事音ってこんなに反響するものなのね」

 陽菜の母親は、誰に言うともなしにそう口にすると、病室の窓を閉めた。

 ここは星子ノ山からずいぶん離れた場所にあると思ったが、それでも落ち着かない音だった。

 陽菜はというと、目を覚ましたと思ったのにまだ真っ暗な中にいた。

「ねえ、お母さん」

「なあに?」

「どうして神様はキセキを起こさないのかなあ」

 母親は、両眼を失って包帯を巻かれた娘に返す言葉を考えようとしたが、それよりも泣き声になりそうで、娘に聞こえてしまわないように息をこらえるので精一杯だった。

 代わりに父親が答えようと口を開いた時、まだ麻酔がきいている陽菜の舌っ足らずな声がした。

「自分の住んでいる所が壊されるの、嫌じゃないのかなあ。なんでやめさせないんだろ」

 まだ夢の中でしゃべっているような声だった。

「ねえ。あたし、目ケガしたの?」

 陽菜はなんとなく記憶をたどって口にした。

「――ああ。そうだよ」

「そっか、心配かけてごめんなさい」

 陽菜は自分のあやまちを素直に両親にあやまった。

 ケガをしたことをそれほど不安には思っていないような口調だった。

「それで、いつ治るの?」

 麻酔で痛みがおさえられているため、自分がどれほどの傷を負っているのか、まだ理解していないのだ。

「今度の日曜までに治るかなあ。卓也たちとプール行く約束して……」

 本当に目覚めたわけではなかったのだろう。

 寝言のように言うだけ言って、また眠りに落ちた。




 …ォォォオオオン


 ドオオオォォォン


 音が聞こえる。

 なんの音だろう。

 すげくうるさい。


「おはよう、叶夢」

 ママが叶夢の部屋のカーテンを開けながら、いつもの時間に息子を起こした。

「陽菜ちゃん、ちょっとの時間なら面会してもいいって。……会いに行く?」

 叶夢は重いまぶたをこすりながら体を起こした。

 ただでさえあまり睡眠時間がなかった上に、ずっと走っていたから体が疲れてだるい。

「行くよ。お見舞い渡したいし。卓也くんにも……」

 窓から差し込む朝日が、キラキラと叶夢を照らす。

「あら叶夢。パジャマ着替えたの?」

 ママが気が付き声をかけた。

 それ以外にも、昨夜眠る前とどこか様子が違う気がする。

 昨夜松の葉で傷のついた右手を、叶夢はぎゅっとにぎりしめられたままにしている。

「うん。汗かいて、汚れちゃったし、ボタンも失くしちゃって……」

 眠さのあまり、かなりぼんやりとしている。

 だけどキラキラと輝いて見えるのは、本当に朝日のせいだけだろうか。

「ママ……。ママ、あのね、僕ね、昨夜」

 まだ開ききらないまぶた。

 たどたどしい口調。

 まだ夢の続きにいるかのようだ。

 叶夢は夢うつつのままママに重大な秘密の話を打ち明け、ママは息子が昨夜見たと思われる夢の話を聞いた。

 叶夢は、右手のてのひらの中で確かにキラキラと光を放つ大切な物を、しっかりとにぎりしめる。




「僕ね、昨夜、神様に会ったんだよ。それでね、もらったんだ! ――なんでも願いが叶う、神様の星」

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