夢の寝覚め

西丘サキ

夢の寝覚め

強い光が真上からふりそそぐ

室内にも立ち上る夏の熱気

遠くに見えるTOKYO 2020の垂れ幕

固唾を呑む観客 散発的な応援の胴間声

居並ぶカメラ

世界中が俺とあいつの試合を見ている

高揚感に取り込まれないよう

畳を踏みしめた


俺はやれることをやるだけだ

目の前のあいつを ぶったおす

完膚なきまでに


礼をする

「始め」と声がかかる

間合いを

間をうかがう 勝てる間を

俺はあいつを

あいつは俺を


掴む 払う 掴む 引く

掴み合う

「待て」

「始め」

掴む 払う 掴む 引く

掴むいける


踏み込み腰を入れる 足をすくう

何度も投げられ 投げて染みついた動き

俺の掴んだあいつには重さが既になく


「一本」

終わった

俺の勝ちだ


わきあがる歓声 俺は呑み込まれなかった

歓声の圧と

勝ち残った達成感と喜びが均衡する

俺は天を仰ぐ


これは夢だ


**


 出来すぎた夢の寝覚めは良くない。都合が良すぎて自分で呆れてしまう。いくら今年がオリンピックイヤーだから、いや、だったからといって、もう2020年だぞ。柔道を続けていたとしても、30過ぎの年齢で金メダルなんて大選手じゃないか。戦歴を考えるまでもなく、俺は布団を抜け出した。過去を振り返っている暇があるなら、少しでも家事をすませとかないと。団体の興行が自粛で止まった今、大手の所属でもなくTVに呼ばれるような選手でもないプロレスラーの俺にはほとんど何もない。何かできることをしたいし、一緒に暮らしている美晴の負担を減らしたい。

 洗濯機を回し、今日の曜日のごみをまとめて捨てに行く。出勤しにいく様子の人間を何人も見かけた。美晴みたいに在宅勤務になった人もいるはずなのに、マスク以外に変わったところがないかのように日常が続いていた。いや、俺みたいなのもいるから、あくまで見た目だけか。

 部屋に戻ると美晴はもう起き出していた。「おはよー」と言いながら、美晴は予め冷凍していた米をレンジに突っ込む。返事をして俺も朝飯の準備に加わった。冷蔵庫から梅干しのパックを取り出し、小皿に移す。3個目を取り出そうとすると「1人1個」と目ざとくとがめられ、仕方なく俺は3個目をパックに戻す。ひもじい。

 朝飯が終わると洗濯機が止まった。俺は洗濯物を干しにかかり、美晴は会社支給のノートPCを立ち上げ始める。始業まで時間はあるが、仕事の準備が割と手間取るらしい。洗濯物を干し終わると、もうすぐ美晴の始業時間だった。俺は外に出よう。俺にはきっとできないことを毎日当たり前にこなす美晴には純粋に尊敬するが、今日はそんな姿を間近で平然と見ていられそうにない。俺のせいで部屋の中まで空気が悪くなる前に、「ランニングに行ってくる」と声をかける。「いってらっしゃーい」と振り返ることなく美晴が返事をした。気の抜けきっていない、上の空ではないことは伝わる絶妙なトーン。普段聞かないトーンだ。俺の知らない職場での美晴がもう始まっている。着信音と「お疲れ様ですー」という鈴を転がしたようなよそいきの声を聞きながら、俺は部屋を出た。


 特にコースを決めていた訳ではなかった。それでも、自然と足が向いていたのはやっぱり自分の存在を確かめたかったからだろうか。気づけば俺は団体の道場に来ていた。倉庫を改装してリングとマットを設置した、簡素だがそれなりに広い道場。今ここに来て俺が何かできる訳でもない。だけど、ここに来ると自分はまだレスラーで、そうあり続けるために自分がしておかないとならないことを鮮明にさせてくれる。

 俺自身が、リングに立てなくなった訳ではないんだ。

「おー、タブセぇ!どうしたぁ!」

 感慨にふけっていたら、道場からよく通る低い声が届いてきた。朝倉先輩だ。高校の柔道部の先輩であり、団体の先輩でもあり、大学卒業後の進路を決めかねていた俺をプロレスに誘った人でもある。つまり、頭がまったく上がらない。急いで俺は先輩のもとに行き、しっかりと挨拶をする。濃厚接触はカンベンだぞ~、と先輩は鷹揚に笑いながら、

「タブセも練習しに来たのか?」

「いえ、俺はランニングで通りかかって……先輩は朝から道場ですか?」

「ジムも何にも開いてねえからな。バイトのシフトも削られたし、道場開けてもらったわ」

 朝倉先輩はうちのエースだし、他団体からたまに引き合いもあるくらいの選手だ。そんな人が言い出せば鍵くらい貸してもらえるだろう。そう思うと同時に、道場を開けてくれと言い出さず、また堂々と言い出せる立場を築いてこなかった自分を恥じた。

 ちょうどいい、話がある、と先輩は言って道場を指した。一も二もなくついていく。俺何かしただろうか。中に入り手近な所に腰かけると、先輩は話し出した。

「お前、飯塚覚えてるか?」

「飯塚、ですか?」

「飯塚征也。高校の時いたろ?消えた天才児」

 思い出した。高校の時、柔道部に鳴り物入りで入ってきたヤツだ。飯塚は中学ですでに代表も夢じゃないと大真面目に騒がれていた。特待生で入った飯塚は本当に強く、俺は年内に抜かされてしまうことを予感した。だけどあいつは高校で初めての大会で膝を壊してしまい、あっさりと競技人生が終わってしまう。当時俺も別の試合に出ていたが、それを差し引いても印象に残っていないくらい、一瞬の出来事だった。

 飯塚は間もなく退部となり、スポーツ特待のクラスから一般のクラスに移された。しばらくは校内で見かけることもあったが、学校全体から浮いているようだった。じきに姿を見なくなり、俺たちは人づてに飯塚が退学だか転学だかしたと聞いた。それきり会ってもいないし、連絡もとっていない。

「いましたね、そんなやつ。飯塚がどうかしたんですか?」

 俺が聞くと、先輩は自分のことのように嬉しそうに、

「あいつさあ、オリンピックに出るはずだったんだってよ!すごくねえか、結局俺たちの代1人も出てないのに、あいつがやったんだよ!」

 どうやって?と思い反応に困っていた俺に、先輩はスマホの画面を見せてきた。元は開幕に合わせた企画を差し替えたのだろう、「まだ出られなかったオリンピック」というタイトルのインタビュー記事だ。確かに飯塚の名前と、見覚えのあるような顔が載っていた。

「あいつ、理学療法士だかやってて、その関係でオリンピックのスタッフに決まってたんだってよ」

 絶えず嬉しそうに説明をする先輩に、俺は平静を装って相槌を打つのが精一杯だった。前に誰もいないと思っていたら、急に飛び出してきたやつに抜かされ、全部持っていかれたような感覚。飯塚のことを下に見ていた訳ではないが、飯塚がオリンピックに関わるはずだったという事実に、俺はひどく打ちのめされていた。

「おい、タブセ。大丈夫か?」

 先輩に話しかけられ、俺は我に返る。これ以上話していられないかもしれない。俺は慌ててその場を取り繕う。

「ええ、大丈夫です。飯塚やりましたね!もっとほめてやりたいですけど、俺そろそろ行かないと。美晴の飯作ることになってるんで」

「そうか、練習ぐらい付き合ってやるつもりだったけどな。主夫も大変だな」

 先輩に悪気はない。そう言い聞かせながら別れの挨拶を交わし、俺は道場を後にした。


 部屋に帰って家事をこなし、自重トレを追い込んでも、飯塚のことが頭から離れなかった。帰り道に改めて自分のスマホで読んだ記事を思い返してしまう。飯塚は高校で夢が断たれた後、自分で見つけた別の道を苦労して這い上がり、諦めた夢に手が届いた。それ自体素晴らしいことで、やっかむ気持ちはない。じゃあ、それに比べて俺は?という自分自身への問いかけが根っこにあった。自分の柔道に限界を感じ、その時に見えた可能性と面白さを信じて俺はプロレスという別の道を選んだ。自分で選んだことだし、間違っていないと思っている。だけど俺は、夢をまた手繰り寄せた飯塚と肩を並べられるだろうか。

 「人並みの幸せ」を得ることも難しく、それ自体で価値があると言う。美晴と出会えて、一緒に暮らしていること。どうにかして一人前の稼ぎを得て暮らしを守ること。家族や友人たちに囲まれて毎日が充実すること。そうすれば俺の人生は飯塚が築いてきたものに釣り合うだろうか。そもそも飯塚だって「人並みの幸せ」を得ているはずなのに。

 気づけば夕飯時だった。美晴も勤務時間が終わったようで、PCを片づけている。台所に立つと、「私が作るから座ってていいよ」と止められ、美晴がそのまま準備を始めた。俺は自分の居場所がなくなったような気分で美晴を待つ。手早く料理が出来上がり、大皿が置かれる。そして俺の目に着くように小皿。

 梅干しが3個乗っていた。

 美晴を見ると、美晴は嬉しそうに説明を始める。

「今日さあ、仕事がうまくいってね。なんとか今月は問題なくいけそうなんだー。だからね、1個おまけ。今日がんばってたしね」

 本当のところはわからない。だけど、今の俺に対しても心を向けてくれていることがありがたかった。これが「人並みの幸せ」なのかもしれないし、それがあれば充分なのかもしれない。だけど、俺はこういうちょっとした思いを積み重ねてくれる人に、人たちに思いを返していきたい。その大きな手段が、俺にとってはプロレスなのだろう。

 飯塚、待ってろ。


**


アリーナだか 大ホールだかの真ん中に

俺は立つ

これは夢だ

今もこの先も 俺が立てる舞台は

たかが知れてる


飛んだり跳ねたりして

人目を引くような派手な技を出すことも

俺にはできない


だけど

だからこそ

リングの上で地に足つけて

踏みしめる

立ち姿

出で立ちのひとつひとつで

勝負を魅せる


俺の一挙手一投足 俺の表情 俺の声に

歓声が 咆哮が 拳が 拍手が上がる

そうだ

俺は戦ってきた

俺は同じ道を歩いてきた

同じ舞台に立ってきた


俺はまだ俺ができることを通して

何を魅せる

居合わせた人に

向かい合う相手に

美晴に

そしてあいつに


相手を叩きのめした俺は

拳を突き上げる 叫ぶ

今俺を取り巻く人たちに

とっくの昔に道を分かちながら

姿を見せたあいつに


これは夢だ

だからこそ

寝覚めの良い夢にしてやる

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夢の寝覚め 西丘サキ @sakyn

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