8章(3)
緊張で神経が高ぶり、感覚がひどく鋭敏になっている。
何もかもが不快に思えた。
空の深い青色、野原を渡る
偵察部隊が南下するフランス軍を補足してから、一時間。
フィレンツェ共和国軍は、白地に赤い百合が描かれた国旗を掲げながら、野営地を引き払ってゆっくりと東に移動を始めた。
ピサとフランスからすれば、大軍の接近に気づいて慌てて撤退しているように見えるはずだ。一部のテントが張られたままだったり、朝食の器が打ち捨てられているなど、演出にも抜かりがない。
実際には、一キロも移動せず、メッツァーナの丘の
マキャベリが満足そうに五千人の
白い
靴下は、片方が赤で片方が白だ。色が左右で違うのは、マキャベリが特にこだわった部分だったが、このあたりの美意識は、ちょっと理解できない。
ともかく、これが偽装を解いたフィレンツェ市民軍の姿だった。
『社畜騎士団』の社員は、指揮官として市民軍の各隊に散っている。
ビジネススーツに似せた制服を着ているので、よく目立つ。
傭兵部隊は、思い思いの装備をして、弓鳴の要請で全員が馬に乗っている。
数は二千。
計七千が、フィレンツェ共和国軍の全戦力だ。
ミラノを出たフランス軍は、約一万五千。
単純計算で、二倍以上の差がある。
「フランス軍の先鋒隊、来ます!」
誰かが叫んだ。
連なる丘の向こうに、点々と動く影と
フランス軍が誇る騎兵部隊だ。
数騎ずつの小隊を作り、速さを競うように駆けてくる。
それは、フランス兵たちの目にどう映っただろう。
丘の麓に、二百台の戦車が一列に並んでいる。
戦車といっても、造りは簡単だ。
四つの車輪がついた木の箱で、
弓鳴が考案し、匠司が設計した。
側面に大きな窓が開いており、そこから火縄銃を突き出して撃つ。敵に対して側面を向けて並べられ、鎖で連結し、隙間は鉄の盾で覆っていた。
残りの市民軍は、丘の斜面に段を作って整列し、銃口を敵陣に向ける。
フランス騎兵たちはまったく速度を緩めない。
きっと、撤退する敵を追撃しろと命じられているからだ。
加えて、
僕は弓鳴とマキャベリと一緒に、中央に配置した戦車の屋根の上に立っていた。
「総員点火、射撃用意! 私に続いて撃て!」
弓鳴の声が響き渡る。
各自が首から下げた火壺を使って縄に火を点け、戦車の窓から銃を突きだしていく。『アヴァンツァーレ』の有効射程距離は二百メートル。性能を発揮するには、敵を引きつける必要がある。
フランス兵が顔を判別できるところまで近づく。
槍や鎧や馬具に陽が反射して、光の群れが押し寄せてくるようだ。
馬の足音と騎士たちの雄叫びが混じり合い、地鳴りとなって響き渡る。
実際に、大地が揺れている。
この光景に恐怖を抱かない者がいるだろうか?
腰が引きかけた、そのとき――
弓鳴が先頭の騎兵を狙って撃った。
見事に胸に命中し、騎手が転げ落ちて、後続の騎馬の脚元に消える。
それが合図だった。
大気を震わせる、共和国軍の一斉射。
それは先行していた騎兵部隊を文字通りなぎ倒した。
僕は委員会での弓鳴の説明を思い出した。
「市民軍は銃兵で編成し、撃つことだけを徹底的に教えます。皆さんは、ヤン・ジシュカをご存じですか」
ほとんどの委員が、僕と同様に、その名前を知らなかった。
「ボヘミアの貴族です。いまから九十年ほど前に、農民を指揮して神聖ローマ皇帝の軍と戦い、勝ち続けました。なぜ、戦いの素人が、戦闘のプロである騎士や傭兵に勝てたのか? ヤン・ジシュカは、二つの道具を巧みに使う斬新な戦い方を発明したのです」
いつしか、場の全員が弓鳴の話に引き込まれていた。
「その道具とは、銃と戦車です。まず、銃。筋力を用いずに安全圏から敵を殺傷できます。次に、木の戦車。動く防壁となり、他の車両と連動することで、敵の進路を妨げる。この二つを組み合わせて運用し、敵軍に一方的な攻撃を加えたのです。今回の作戦では、それを再現します」
ルイ十二世は、弓鳴の策略にまんまとはまった。
遮るものがない野原を駆けてきた騎兵たちが被弾し、次々に崩れ落ちていく。
フィレンツェ市民軍は、どの銃兵も二人組になっており、交替で撃つことで二十秒に一度の射撃を可能にしている。戦車だけでなく、丘からも容赦なく銃弾の雨が降ってくる。
その弾幕を突破し、戦車に槍を食らわせても、車内にいる兵までは届かない。
戦車の中から銃剣で突き返され、遠ざかれば、その背中を撃たれる。
フィレンツェ側の被害が皆無だったわけではない。
果敢に突撃してきた騎兵に窓から槍を突き込まれたり、弓兵による火矢で炎上した戦車もある。
しかし、それは全体のごく一部だった。
いまや、戦場の至るところにフランス兵が倒れている。
騎兵より遅れて戦場に入ったスイス傭兵団が置かれた状況は、より悲惨だった。歩兵である彼らは、戦車に近づくことすらできずに、少しずつ仲間を失っていった。『アヴァンツァーレ』から放たれる弾丸は、傭兵たちが身に着ける鉄兜と板金の鎧をたやすく貫いた。
戦場を縦断する騎兵の一団がある。
どうやらフランス兵たちも気づいたようだ。
戦車の防衛線を突破し、丘に布陣する銃兵を排除しなければ、この状況は
であれば、別動隊を作り、戦車の列を
それができる機動力こそが、騎兵の強みだ。
南にアルノ川、北に森があって狭い戦場だが、戦車の列には、それを完全に蓋するだけの長さはない。端は空いている。
その動きは、弓鳴の想定の範囲内だった。
端の戦車が連結を解き、迂回を狙う敵部隊の正面に移動する。
壁が動いた?
相手は驚いたはずだ。
しかし好機と見たのか、
弓鳴の発想は恐ろしかった。
その隙間を突くルートこそが、戦車間の砲火が十字に混じり合う最も危険な殺傷地帯なのだ。見る間に騎兵が撃ち減らされ、運良く突破がかなった少数も、待ち構えていた傭兵隊に討たれた。
大砲があれば!――
何人ものフランス兵がそう思ったことだろう。
しかし、追撃の速度を優先した結果、重い大砲は置いてけぼりにされ、戦場に到着していなかった。
絶望的な状況にも関わらず、フランス兵は後から後からやってくる。
自殺行為にしか思えない。
僕は戦車の屋根の上から射撃しつつ、心の中で叫んだ。
もう十分だ――撤退しろ!
フランス軍はついに総崩れになった。
味方同士でぶつかりながら、ピサの方向へと敗走を始める。
「追撃! ひとりでも多く倒せ!」
弓鳴がすかさず指示を飛ばす。
撤退するフランス軍を、騎兵だけで固めたフィレンツェの傭兵団二千人が追撃する。スイス傭兵たちが気を吐き、フィレンツェ軍を押し戻す局面もあったが、戦場に留まることのできる勇気と戦闘力を持つ部隊は、戦果を求める傭兵にとって恰好の獲物になった。
もはや銃口を下ろし、戦車の屋根で仁王立ちになって戦況を見守っていた弓鳴が、満足そうにうなずいた。
「ウン――勝った」
二倍の数の敵に勝つ。
魔法を見ているようだった。
「これと同じことを相手がやってきたら、どうします?」
マキャベリの問いに、弓鳴が答える。
「少人数による局地戦ならともかく、大軍を相手に何度も使える手ではありません。相手に大砲があれば、それでおしまいです」
「……だからあなたは大砲を戦場に来させなかったのか。騎兵の機動力という彼らの長所が最大の弱点になるように戦場を設定した」
「ええ、その通りです、上級特別委員閣下」
弓鳴は微笑み、追撃の停止を命じた。
一時間足らずの戦闘で、フランス軍の死傷者は、少なく見積もっても四千人を超えた。ルイ十二世は、何とか戦場を脱出したようだ。一方、フィレンツェ軍の被害は二百人足らずで、そのほとんどが傭兵団による追撃戦で発生したものだった。
「四千人がいなくなっても、まだ一万を超える兵士がいるんだよな……」
しかも、まだ本国には予備兵が控えているはずだ。
弓鳴は結果に満足しているようだった。
「いや、十分です。これで、教皇軍を下回りましたから」
「……どういうことだ?」
「ルイ十二世は、心の底では教皇を同盟相手ではなく領土を取り合う敵とみなしているはず。教皇軍が約一万二千ですから、今日の被害で、フランス軍は同じかそれを下回ります。茶山さんがルイ十二世なら、どう考えます?」
「教皇軍とフィレンツェをぶつけてやれ――か」
弓鳴がうなずく。
「ですから、しばらくフランス軍はミラノにこもって様子見をするはずです」
弓鳴の言う通りになった。
ルイ十二世は、この敗戦にひどく動揺したらしい。
フランス軍はピサを見捨て、ミラノまで撤退した。
ピサは戦わずして降伏。
僕たちはリヴォルノに到着していたフランス軍の大砲を奪い、フィレンツェに帰還した。待っていたのは、歓喜に沸く市民だけではなかった。
社長、天道大樹。
教皇軍の総司令官が、単身、乗り込んできたのである。
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