8章(2)

 フィレンツェ市庁舎の会議場で、外交と戦争に関する委員会が開かれた。

 『自由と平和の十人ディエチ・ディ・リベルタ・エ・パーチェ』が正式名称だが、古い呼び名の『十人委員会ディエチ・ディ・バリーア』で済ませる人が多いようだ。僕も特別委員として出席した。


 議題は、弓鳴が提出した二つの作戦、『ピサ攻略作戦』と『教皇軍に対する防御策』について。後者は、靴のデザイナーである匠司のアイディアが盛り込まれた野心的な内容になっている。しかし――


「この作戦の目的は、ピサではなく、フランス軍に打撃を与えることです」


 弓鳴が作戦の説明を始めて早々に議場が騒然となり、進行が止まってしまった。

 委員たちから否定的な発言が相次ぎ、臨席した政治家や官僚からは野次が飛ぶ。


「バカバカしい!」


「なぜ壁から出る必要がある?」


「フランスに勝てるわけがない!」


 気持ちは分かる。昨晩、僕もほとんど同じ反応をした。

 フィレンツェ共和国は、少なくとも表面上は文民統制シビリアンコントロールを徹底している。軍事作戦はこの十人委員会で検討され、承認を得たのちに大評議会コンシーリオ グランデに上程される。作戦実行の指揮監督は、大評議会、十人委員会、特別委員、総司令官という順になる。

 ここで作戦が却下されてしまうと、そもそも軍を動かせない。


「まずは、総司令官の説明を聴きましょう」


 マキャベリが傍聴席から呼びかけて雑音を封じた。

 弓鳴が凛とした声で説明を再開する。


「一番避けなければならないのは、このまま壁の内側にこもって敵を待ち、フランス軍と教皇軍に包囲されることです。その場合、戦力差は四倍近くになり、勝ち目がなくなってしまう。その前に個別に叩く必要があります。幸い、教皇軍はフェラーラと交戦中です。ですから、いまが好機なのです」


 四月に入る直前、教皇軍は北イタリアで勢力を伸ばしていたフェラーラ公国に攻め込んだ。教皇軍が苦戦を強いられているのは、フェラーラにとっては天敵であるはずのヴェネツィア共和国がフェラーラを援助したからだ。フェラーラが陥落すれば、教皇軍の手がヴェネツィアまで届く。両国は積年の恨みを一時的に凍結し、手を結んだのだった。


「フランスはピサに肩入れし、属領のように扱っている。ミラノにいるルイ十二世が、目の前でピサが侵略されるのを黙って見ているとは思えません。そもそも、『教皇の』は一枚岩ではない。フランスと教皇領は、どちらも最終的には自軍がフィレンツェを押さえたいと考えている。ルイ十二世は、エサに飛びつくはずです」


 中年の委員が、悲鳴のような声を上げた。


「いや、しかし――?」


博打ばくちではあります。ここで負ければ、兵士だけでなく市民の支持を失い、共和国軍は崩壊するでしょう。ですから、万全の準備をします。その細かい内容を説明させていただきたいのですが――」


 委員たちの反応は、かんばしくない。

 貴族の老人が、臨席しているマキャベリに向けて皮肉たっぷりに言った。


「ニコロ、彼女を司令官を推挙したのは君だったな。しかし、ここまで重大な作戦をこんな異国の小娘に任せていいのか。君は傭兵に我が国の運命を委ねる愚を、二度ので学んだはずだがな」


 マキャベリは表情を変えず、淡々と答えた。


「彼女はフィレンツェ市民です。そして指揮能力は、私が実際にこの目で見ました」


 壮年の男が話に加わり、吐き捨てるように言った。


「しかし、元をたどれば得体の知れない移民集団のひとりではないか! それとも君は、彼女がミラノ公国から我が国を守ったレ・アクートの再来とでも言うつもりかね」


 ――

 僕は内心焦っていた。

 昨晩、弓鳴たちから説明を受けたあとで、酒を手土産に委員のひとりに会いに行った。今日の会議で弓鳴を後押しするはずが、旗色が悪いと感じたのか、僕から目を逸らして沈黙を保っている。わが身がかわいいという気持ちがよく理解できるだけに、腹立たしい。


 思いがけないところから、助けの手が入った。


「おれは信じるぞ」


 初めて見る顔だった。

 白い髭を立派に蓄えた老人。

 目の周辺に、たくさんのシミが散っている。

 恰幅かっぷくがよく、椅子が窮屈そうだ。


「マルコ爺さん、昼から飲み過ぎだぞ。何を根拠に信じるってんだよ」


 委員の中で比較的若い男が、そう言って老人をからかった。

 老人は履いている革靴を取ると、それを頭の上に掲げた。


「彼女たちは職人アルティジャーノだ。作ったものは嘘をつかん。見ろ、いい靴だ。使うほどに馴染む。長い時間歩いても、底がしっかりしていて疲れにくい」


「爺さん、靴と戦争はいくらなんでも――」


 別の委員が、なだめるように言った。

 そのとき、老人の目が鋭い光を放った。


「この中に、ボッテガ・シャチクのアスマという男を知っている者はいるか?」


 誰も答えなかった。


「彼らの仲間だ。靴屋の店頭にいて、行くたびに相手をしてくれた。親切で、丁寧で、ムリを言っても、できる限り応えてくれた」


 もしかして、この老人は……

 正月に遊馬が愚痴っていた、モンスタークレーマーか?


「彼は先日、ヴァレンティーノ公の罠にかかって死んだらしいな。この中に、家族を敵国と戦って失った者がいるか?」


 誰も手を挙げなかった。


「アスマは、この国の代表として死んだ! それでも君らは、彼女たちに市民の資格がないと言うのか。ここで話をしているだけの我々よりも?」


 沈黙が満ちた。

 ひとりの委員が、渋々それを承諾した。


「分かったよ、爺さん。とにかく、話だけは聞こう」


 こうしてようやく、弓鳴に作戦を提案する時間が与えられた。

 結果、凄まじい否定の嵐が吹き荒れた。


「すべて机上の空論ではないか」


「市民を短期間に訓練しても、本物の軍隊に勝てるはずがない!」


 大きな笑い声が、それらの反論を押しつぶした。

 声の主は、例のマルコ老人だった。


「気に入った。おれは気に入ったぞ。この街は、職人の街だ。だから、それに合った戦い方をする。――こういうことだな?」


 弓鳴が嬉しそうな顔でうなずいた。


「ええ、その通りです!」


 老人は周囲を見渡した。


「作戦が上手くいくとは限らん。が、和平交渉をするにしても、牙を見せんことには始まらんだろうさ」


 この一言が、会議の流れを変えた。


 × × × ×


 作戦の承認が降り、二週間かけて戦いの準備をしたあとで、マキャベリは商人を使ってミラノに噂を流した。


『フィレンツェがピサに攻撃を仕掛ける』


 共和国軍が整然と街から出ていく。

 それを見送る市民の顔は不安げだ。

 

 誰もがそう思っただろう。

 鎧や軍服を身につけず、普段着で、農具を持つ兵士までいる。

 これはフランスを油断させるための偽装だった。

 噂は、僕たちがピサに着くよりも早くミラノまで届くだろう。

 

 僕たちはピサ郊外のなだらかな丘に布陣した。

 南にアルノ川、北には深い森林が広がっている。

 周辺の地形を調査する弓鳴に付き合って、しばらくあたりを歩いていたら、あっという間に夜になった。

 弓鳴が丘の中腹で足を止めて、空を見上げた。

 一面の星。

 海鳴りだろうか、低い音が響いて空全体が震えている。

 数キロ先にあるという海はここから見えず、風にも塩の匂いがしない。


「……この時代に来た最初の夜のこと、思い出しません?」


 あれから約三年半――もっと長い時間が経ったように感じる。

 あのときは本当に不安だった。

 右も左も分からないところに放り出され、言葉は話せず、住むところもなかった。


「君にすごく嫌われてたなぁ」


「嫌いというか……、死ねと思ってましたから」


「あっ、はい……」


 弓鳴が小さな声を立てて笑った。


「いまの茶山さんは――す、好きですよ」


 一瞬、脳の働きが停止して、間が空いた。


「ありがとう」


「……お礼が遅い! なんか変な空気になっちゃったじゃないですか!」


「いや、その前に君がのが――」


「もうやめましょう、この話! 明日は決戦ですよ、食事してさっさと寝ないと」


 

 明日、彼女が立てた作戦で、彼女が発する命令で、何百、何千という人が死ぬだろう。彼女は泣かない。戦いが終わって、現実に追いつかれるまでは。

 

「弓鳴、いつもありがとう」


「な――なんですか、急に……」


「頼りにしてるよ。明日は、歴史に残る戦いになるだろうね」


 弓鳴がすらすらと架空の歴史を読み上げる。


「……一四九九年四月、フィレンツェ共和国軍とフランス軍がピサ郊外で軍事衝突。戦力はフィレンツェ共和国軍七千に対し、フランス軍一万五千……」


 年代。経緯。参加兵数。

 記録は優しい。その瞬間、善悪は入らない。


「弓鳴真記に率いられたフィレンツェ共和国軍は、ピサ攻略の途上、メッツァーナの丘でピサ救援のため到着したフランス軍と戦端を開き……」


 弓鳴が明るい声で話し続ける。

 自分を励ますように。行いを歴史の中に溶かすように。

 一瞬で崩れそうなもろい笑顔を、目に焼き付けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る