【5章】遺言

5章(1)

 一四九七年、四月末。

 その男がやってきたとき、僕は修道院にいなかった。

 ヴァル・ディ・トッリの領主バスティアーノの館に出向き、収穫物の取り分の交渉をしていたのだ。


 僕のイタリア語はかなり上達していたが、バスティアーノは早口のうえに所々に強いトスカーナなまりが出て、聞き取りづらいことがある。たとえば、家を意味する『カーサ』は、『ハーサ』に聞こえた。だから、念のために晴川はれかわに同席してもらっていた。


「お借りしていたお金も、すべて返済が終わりました。どうか、取り分を五対五にしていただけませんでしょうか」


 現状では、六対四で領主に多く納めている。

 バスティアーノは鷹揚に笑ってうなずいた。


「メッセール・ユウスケ・サヤマ、君たちは労働者ラヴォラトーレとして実に素晴らしい。規律を守り、勤勉で、をしない。戦闘訓練でも成長が著しいと聞いている。いいだろう、取り分は五対五にしよう」


 メッセールというのは、男性につける敬称だ。

 バスティアーノは激しい手振りを交えて話を続けた。


「ひとつ、条件がある。ワインを追加でいくつかもらいたい。君らシャチクの作るワインは本当に美味いからな」


「ありがとうございます。ワインは近日中にお届けしましょう。それと……、もしできれば、製粉機と葡萄ぶどう搾取機さくしゅきの使用料を安くしてはもらえませんか? せめて、いまの三分の二に」


 バスティアーノの顔が曇り、禿げあがった額にしわの層ができる。

 値の張る日用品や農具は領主が独占し、有料で半強制的に村民に使わせている。

 それは、領主の安定した収入源のひとつなのだ。


「君らには、皮をなめす場所も提供しているだろう。私の友情にも限界が――」


旦那様シニョーレ!」


 ジョバンニが慌ただしく部屋に入ってくる。

 僕たちを無視してバスティアーノに駆け寄ると、何事か耳打ちした。

 バスティアーノの表情に緊張が走る。

 僕と目があった。


「すまない――使用料の話は、また次の機会にしてくれ。ローマに住む親戚が、フィレンツェに向かう途中で数日間ここに寄っていくことになってね。大所帯なので、急いで準備をしなくては」


「承知しました。それでは、今日はこれで失礼します」


 一礼すると、バスティアーノが笑った。


「君たちがよくやる、それ。シャチクの習慣なのかね? 村人たちが驚いていたよ。自分が皇帝か教皇になった気がすると」


「私の母国では、『お辞儀』と言って、簡単な挨拶にも使うんです」


「そうか、文化の違いというやつか」


 結局、ジョバンニに急かされて、バスティアーノの方が先に部屋を出ていった。


「なんやろ、血相抱えて」


 晴川が首をひねる。

 確かに不審だ。

 とりあえず、取り分の話を先にすることができて良かった。

 最初の会談とは違って、僕は決定権を持っている。

 肩書は、社長代理だ。

 社長にもなれたかもしれないが、もう一人の役員である朽木さんを差し置いて僕がその椅子に座ることはできなかった。農業に没頭し、組織運営にはまったく興味を示さないとはいえ、社歴からいっても、人望や能力を考慮しても、本来は朽木さんが社長にふさわしい。

 

 空には雲ひとつなく、初夏の柔らかな陽射しがあたり一面に降り注いでいた。

 領主の館を出て、坂を下っていく。

 サラサラと水の流れる音が聞こえてくる。

 祭門さんが設計し、村人たちと協力して整備した水路だ。それだけではない。丘の斜面に石造りの筒を設置し、農作業で得た炭と砂、さらに川から運んだ砂利を敷き詰めて濾過ろかフィルターにして、水飲み場を作った。これは、村人たちにかなり喜ばれた。僕たちに対する態度も、それから目に見えて好意的になった気がする。

 いまも、農婦が腕に赤子を抱えて水飲み場にやってきていて、僕たちに気づくと笑顔で挨拶をしてくれた。


 集落を抜け、畑を通って修道院に向かう。

 小麦の黄緑とライ麦の青緑、銀緑色のオリーヴ、黄緑のいちじく、紫色の葡萄の列。野原には雑草が厚く茂り、そのところどころを、赤いケシや細かな花々が彩っていた。

 平和だ。

 目標の期日、一四九九年の五月まで、あと約二年。

 農業は朽木さんの指導で良いサイクルに乗った。

 生きていくだけなら、このまま何とかなりそうだ。


 『本業』に関する動きも活発になってきた。

 村に来た頃に仕込んだ牛皮が、ようやく加工できる状態になったのだ。

 匠司しょうじが立ち上げたチームが、試作品の開発に取り組んだ。

 僕も作業を見せてもらったが、時間をかけて鞣した革はとても柔らかく、ナイフがするすると入って紙のように切れた。

 その革を、まずは社員用に成形した。穴を開け、革を上下から張り合わせただけの原始的な造りだが、思ったよりも快適に歩くことができる。何より、余計な装飾がなく、すっきりと絞られたデザインが美しい。充分に売り物になるはずだ。

 問題は販路だった。バスティアーノによると、何の許可もなくフィレンツェの街で靴を売った場合、靴職人組合にすぐに話がいって、になるらしい。加入しようにも、紹介が必要だという。手詰まりだ。


「茶山さん、あれ、なんやろ」


 警戒心に満ちた晴川の声で、現実に引き戻された。

 フィレンツェの方向から、丘を越えてやってくる集団がある。

 近づくにつれ、陽にキラキラと光って、剣や槍や鎧で武装していることが分かった。数は百人前後だろうか。一瞬身構えたが、敵意があるのなら、あんなに堂々とのんびり近づいてくるはずがない。


「バスティアーノが言っていた親戚かな」


「親戚、何人おんねん」


「いやだってさ、貴族とか領主とかだろう? ぞろぞろ護衛を連れているもんなんじゃないか」


「知らんけど――そもそも、ローマからの客や言うてませんでした? あっち、フィレンツェですやん」


 晴川は浮かない顔をしている。


「上手く言われへんけど、嫌ァな感じやな。警戒した方がいいんとちゃいます?」


「……そうしようか」


 僕たちは少し早足になって、修道院へと急いだ。

 たどり着く前に、懐かしい匂いが漂ってきた。

 それは眠っていた味覚を刺激し、一瞬で蘇らせた。

 晴川と顔を見合わせた。


「ついにやったんか! 米沢さん!」

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