5章(2)

 食生活は、それなりに豊かだった。 

 

 肉は牛、羊、豚、ウサギ、鶏、鹿、猪などが手に入る。領主の許可を得て自分たちで狩猟することもあったが、村の肉屋から買うことが多かった。魚は、ときどきアルノ川で釣った。釣りには、別途料金がかかる。自然は基本的に領主の所有物なのだ。

 野菜はレタスなどの葉物、豆類、ニンジンやカブなどの根菜が主で、こちらはできるだけ自分たちの畑から穫れるもので賄った。フィレンツェの市場までいけば、選択肢はかなり広がる。卵やチーズは安く、ほぼ毎日食卓に並んだ。


 足りないものは、調味料だ。

 まず、塩胡椒が高い。醤油しょうゆと味噌は存在しない。

 グレイビーソースらしきもの作ったりして、あの手この手で食べていたが、やはり飽きがくる。

 そこで、生産局の米沢さんが立ち上がった。

 丸っこい顔をした三十代女子で、趣味は料理、しかも自然食材にこだわる本格派だ。

 この時代のイタリアには、大豆がない。

 そのため、手に入った魚と貴重な塩を使って魚醤ぎょしょう作りに着手した。


「私、秋田出身なんですよ」


 しょっつるを作ろうというのだ。

 この計画は、イタリア風にプロジェット米沢と呼ばれた。

 開始から一年、全社員がこの計画の成功を祈っていた。


 僕と晴川は小走りになった。

 教会の前で、弓鳴ゆみなが見慣れない馬を柵に繋いでいる。


「お帰り! 交渉、どうだった?」


 晴川が指でマルを作って応え、弓鳴とハイタッチをかわす。

 修道院の方から、歓声が聞こえてきた。

 これは、もう――

 「しょっつる!」と叫んで駆け出した晴川に続こうとしたが、弓鳴に袖をつかまれた。


「茶山さんは、だめ。お客さんが来てます」


「おれに? 客?」


 弓鳴がうなずき、目線でその人物を指し示した。


「ワインの買い付けに来たとかで」


 教会の入口の脇に置かれたベンチに、細面の男が座っていた。

 黒髪を短く刈り上げているせいで、より輪郭がほっそりとして見える。黒目がちな小さな瞳が、走り去る晴川の背中を追う。どこにでもいそうな、取り立てて特徴のない顔だ。顔がこちらを向き、目が合うと、人懐っこそうな笑みが浮かんだ。


 赤い長袖の上に、袖無しの紺色のチュニックを合わせ、腰に革のベルトを巻いている。ブレーというタイツに似たズボンをき、足元は革靴だった。ブーツのようにすねを覆っているが、革が柔らかくその部分が自立しないのだろう、紐を巻いて強引に留めていた。旅慣れた商人の装いに思えた。


「フィレンツェの商人で、ジョルジョと申します。葡萄酒商組合の一員です。前々から、あなた方『シャチク』のワインの評判を聞いていまして、今日はその買い付けに来ました」


「フィレンツェで売るのですか? 組合には、もう取扱いをしてもらっていますが」


「フィレンツェでなく、他の街に出荷したいと思っています。試飲をさせていただけませんか?」


 短い会話の中で、表情がよく変わった。

 年齢がつかみづらい。

 溌剌はつらつとした二十代の青年と話していたかと思うと、聡明で落ち着きのある初老の男が顔を覗かせる。


「ええ、もちろん。ぜひ、飲んでいってください。こちらです」


 修道院の裏手に向かう。

 途中、魚醤の匂いが漂ってきて、体がうずうずした。

 魚特有の生臭さが、むしろ食欲を刺激する。

 ジョルジョが不快そうに鼻を動かした。

 彼にとっては馴染なじみのない香りに違いない。


「いま、郷土料理を作っているんです。魚をベースにした調味料で、ちょっと癖があるかもしれませんね」


「なるほど。あなた方は、東方からの移民だそうですね」


「ええ――とても遠いところから来ました」


 二十一世紀の日本から来たと言ったら、どんな顔をするだろう。


「タタールの遊牧民は、皆あなたのように目が細いと聞きますが、そこではない?」


「……タタールには行ったことがないですが、もっと東ですね」


 タタール。世界史の授業で習ったかもしれない。記憶の奥に、うっすらと音の響きが残っている。ただ、ヨーロッパの東にいる遊牧民という情報から推測すると、モンゴルのあたりではないか。


「移動は船ですか?」


「これですよ、これ」


 僕は自分の腿のあたりを叩いた。

 ジョルジョが顔をしかめた。


「それはそれは――さぞ長旅だったことでしょう。シャチクでは、ワイン造りが盛んなのですか?」


「いえ、場所によってですかね。全国的に、消費量はそれなりにあると思いますが」


「ほうほう。ではやはり、ここの土と水が良いということなのかな」


 興味津々という顔つきだ。


「試飲が楽しみです。当世のフィレンツェでは贅沢を禁止する風潮がありますが、高級ワインの需要は上がる一方でしてね」


 贅沢は禁止。

 それをフィレンツェ市民に強いている男を、僕は昨年の夏に肉眼で見た。

 ジロラモ・サヴォナローラ。

 痩せた鷲鼻わしばなの僧侶。

 出身地から、フラ・ジローラモ・ダ・フェラーラとも呼ばれているらしい。


 俗世に塗れた教会組織に真っ向から対立しているサヴォナローラは、フィレンツェ市民にも質素で規律のある生活を送るべきだと説き、贅沢を禁じた。少年団を組織し、監視や密告を強化しているという。今年の二月に彼が行った暴挙が、この村にも伝わってきた。

 『虚栄きょえい償却しょうきゃく』。

 サヴォナローラは支持者たちを扇動し、彼の目に華美と映った芸術作品や品性に欠けると思われた書物、衣服、楽器などを広場に集めて山を築き、それらに火をつけたのだった。そのことが、これまでに彼が街にもたらした数々の福音ふくいんを帳消しにして、反文化的な蛮行の代表事例として後世に語り継がれることになるとは、夢にも思わなかっただろう。

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