3章(12)
男はジョバンニと名乗った。
領主本人ではなく使いの者で、普段は館の使用人の監督をし、有事の際には剣を手に戦闘を指揮するという。
なるほど、鼻筋から片頬にかけて大きな傷跡が走り、腰に大きな剣を提げ、執事というにはピリッとした空気をまとっている。
年齢は四十前後といったところか。同年代だ。
僕たちを館へと案内をしながら、すまなそうに言った。
「許してな。最近、
晴川が訳しているので、関西のオッチャンのイメージになってしまった。
道々、村を観察した。
銃を持った村人たちは何事もなかったように散って、いまは影も形もない。
教会だけが石材で作られていて、村人の住居は、粘土と
丘の上にある領主の館は二階建てで、さすがに堂々とした石造りだった。
領主のバスティアーノ・トッリが入り口で僕たちを出迎えた。
頭頂部は禿げていて、耳の周りと後頭部に白くなった毛が残っている。年齢は六十に手が届くあたりだろう。フェルトに似た生地の紺色のガウンをはおり、素朴な田舎人の
バスティアーノの柔らかな笑みを見て、不安が少し
ようやく、話の通じる人と出会えた気がする。
挨拶もそこそこに、二階の広間に通された。
天井がとても高い部屋だった。窓がすべて開けられ、室内に明るい陽射しが入ってきている。会談は、木のテーブルで対面して行われた。バスティアーノの背後には立ったままジョバンニが控え、僕たちに油断のない目を向けている。
領主が口を開けて話し始めた。
「ワシはバスティアーノ・トッリ。このヴァル・ディ・トッリの領主や。社畜騎士団の皆さん、遥か東方からご苦労さん。歓迎するで」
訳したのは晴川だが、内容が分からなくても、地声の調子から優しさが感じられた。
ひとつ、強い違和感が残るフレーズがあった。
「社畜騎士団だって……?」
晴川が、ああそれ、と笑って、
「さっきジョバンニに、
「妙な設定を足すな!」
「最初にハッタリかませたろ思て。で、侍ってなんやー言うから、まあ、騎士みたいなもんやねと。それで、シャチク騎士団で伝わったんやと思います」
「あのな、おれたちは、ただのサラリーマン……!」
言いかけて、はたと考え込んでしまった。
会社員と言ったところで通じるはずがない。
それに、一度伝えたことをすぐさま否定するのは、良い印象を与えないだろう。
バスティアーノが、無遠慮な視線で、僕たちをゆっくり見回した。
「ところで、自分ら、けったいな服を着とんのー。どこで買うたん、それ」
言葉だけを聞いていると、日常会話のように思えてくる。
訳してくれ、と晴川に声を掛けてから、話し始めた。
「私は茶山といいます。我々の国は、とても遠いところにありまして、独特な文化を持っています。服ひとつとっても、この国とはかなり様式が違います」
バスティアーノがうなずき、
「ほんで、自分ら、この国に何しに来たん?」
「百四十人の仲間を連れて、フィレンツェで働くために旅をしているところです」
バスティアーノが声を立てて笑った。
「そら惜しかったな。フィレンツェやったら、ここを朝に出れば、徒歩でも昼には着くで」
朝や昼が何時を指すのかはっきりしないが、歩いて四、五時間というところか?
距離でいうなら、おそらく十キロから十五キロ程度。
かなり近くまで来ている。
「
重要な情報を省いているが、嘘はついていない。
バスティアーノが椅子から勢いよく立ち上がり、ぐるりと机を回って僕に駆け寄ってきた。
両手を広げて、太い声で「アントニーオ!」と叫ぶ。
まるで本人に出会ったようなハイテンションだ。
「いや私はアントニーオでは……、違うでしょ、どう見ても」
「アントニーオ!」
顔が近い。
早口で喋っているが、人名しか聞き取れない。
「晴川、どうしたこの人?」
「教えてくれてありがとう。アントニーオのことは生まれた頃から知ってんねや。傭兵団に入る言うて村を出たきり、どこへ行ったんやら――この近くで会うたんか? ……と、言うてはります。茶山さんを誤認したわけやなくて、オッサン、テンションが爆上げになってもーてるだけです」
「傭兵では、上手くいっていなかったようです。村の近くまで来たものの、やっぱり、いまのままでは帰れない、と……」
晴川が訳すと、バスティアーノは何度もうなずき、ため息をついて自分の席に戻った。
胸が痛んだが、本当のことを話すわけにはいかない。
「サヤマ、ありがとな。彼の両親に話しておくわ。……ところで、フィレンツェやけど、いま狂信者が支配して、えらい混乱してんねや。この村で働いたらええがな。そろそろ、薪の
「なんていい人なんだ……! 神?」
感激して声を震わせる遊馬に、弓鳴が冷や水を浴びせた。
「
収穫の半分というのは、かなりの量だ。
しかし、農具や住居が提供されるという条件は、いまの僕たちにとって、あまりに魅力的だった。
「晴川、バスティアーノに取り分を確認してくれないか」
まさか、中世イタリアでこんな交渉事が発生するとは――
晴川が質問すると、バスティアーノは少し考えてから口を開いた。
「食糧もないんやろ。金を貸したるから、その利子っちゅうことで、取り分はしばらく六対四でどないや。あ、六がワシやで、もちろんな。あとひとつ、村の一員になるっちゅうのは、運命共同体や。村が危なくなったときには、君らにも武器を持って戦ってもらうで。それができへんなら、この話はナシ」
金を借りる?
それも問題だが、武器を持って戦う?
凄惨な光景が頭をよぎった。
あれは、まだ昨日の出来事だ。
「
僕が言うと、晴川が渋い顔をした。
「この場で決めた方がええんとちゃいますの」
「でも、おれには権限がないから。役員会で決めないと」
「……ほな、そのまま訳しますよ」
晴川が話すと、バスティアーノが顔いっぱいに不快感を浮かべた。
「なんや、サヤマ、君が責任者と違うんかい。上役と話を詰めるってなんなん。君らの国の習慣か? ワシはあと何人と話せばええねん?」
匠司が淡々と言った。
「その条件で受けるしかないでしょう。他に選択肢がない」
分かる。匠司の言いたいことは、よく分かる。
僕もそう思うが――
僕の一存で、それを受けてしまっていいのか。
決めたくない。
後々、責任問題になったらどうする?
「祐介さん、いっちゃいましょうよ! この人に気に入られれば、もう一四九九年までイージーモードですって!」
遊馬が無責任に煽ってくる。
まったく、気楽なもんだ、どいつもこいつも――
「オーケー、しときます?」
問いかけてきた晴川に、うなずきを返した。
もし役員会で責められたら、僕がうつむいたのを、晴川が了解という意味に取り違えて伝えたということにしよう。
これが
晴川が伝えると、領主バスティアーノは機嫌を直したようだった。
「ほな、契約成立やな!」
両手を広げて立ち上がり、その場でくるりと回って喜びを表した。
なかなか陽気な爺様ではある。
その後、バスティアーノは僕たちに食事を振る舞ってくれた。
硬くて湿った黒いパンと、塩味がするだけの豆のスープ。
パンは硬すぎて、スープに浸さなければ、とてもじゃないが噛み切れない。
それでも、久しぶりに温かな料理を口に入れて、頬の内側が震えた。
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