3章(3)
どれくらい時間が経った後だろう。
弓鳴が顔を上げた。
少し目が赤いことを除けば、涙の
「……ここが中世イタリアだってこと、いつみんなに話すんですか?」
「そうだね、言わないと。まず、朽木さんに相談してみようかな」
総務、経理、人事、広報を束ねる管理局の長。弓鳴の上司だ。
会社からの重要な連絡事項は、いつも管理局長名で全社員に通達される。
「呼んできましょうか」
「そんな、悪いよ。おれが行くよ」
「じゃあ――」
弓鳴が自分の肩を叩いた。
ためらっていると、弓鳴が力こぶを作る仕草をして、
「大丈夫ですよ。日頃、祖父の介護をしてるんで、慣れてます」
「介護……? 若いのに偉いね」
「イヤイヤです。祖父の世話で母親が精神を病んじゃったんで、私が仕方なく。そろそろ
いつの間にか、『祖父』が『ジジイ』になっていた。
恨み節の口調なのに、言葉の端々に強い愛情を感じる。
「もしかして、君の歴史好きは、おじいさんの影響?」
「……なんで分かったんです?」
「いや……、何となくだけど」
「ギリギリ戦争を知る世代で、歴史にうるさいんです。本を読んだり、一緒に映画を観たり、あっ、意外とハイカラで、ゲームをやるんですよ、ウチのジジイは。歴史を題材にしたシミュレーションゲームを、難易度を最高にして、ああだこうだ二人で話しながら……、あれ楽しかったな」
自分で気づいているのかどうか、祖父のことを語る弓鳴は、とても
僕はありがたく肩を借りることにした。
自分で言うだけあって、弓鳴は手慣れていた。
重心を低くして密着し、一歩一歩ゆっくりと進む。
お互い様だろうが、弓鳴は全身から川で浴びた泥の臭いがした。
おかげで、何も
× × × ×
朽木さんは地面にノートPCを置き、背中を丸めて画面を覗き込みながら名簿を作っていた。
僕はこの人の笑った顔を見たことがない。
いつも口をヘの字にして、
ここが中世イタリアだと聞いて、最初はさすがに半信半疑の表情を浮かべていたが、弓鳴からも補足説明を受けて、最終的には納得したようだった。
「君たちの話は、たぶん事実なんだろう。ただ――それを全社員に伝えて良いのか、僕には判断できない。みんな、ひどく混乱するだろうしね」
「それなら……、そうだ、役員会だ。役員会を開きましょう」
「中世イタリアで、役員会?」
弓鳴が乾いた笑い声を出した。
「だからこそ、だよ。上意下達、絶対服従の会社のシステムを、いまはサバイバルに利用する」
我ながら名案に思えたが、弓鳴にはまったく響かなかったらしい。
「ほんと茶山さんって……社畜ガチ勢ですよね」
朽木さんが作成中の表に視線を落とし、淡々とした口調で言った。
「役員で無事なのは、
宮間常務は、天道社長からすると姉の子、つまり
虎丸さん――取締役営業局長――は、叩き上げの営業マンだ。
百貨店が今よりもっと元気があった時代に営業の最前線で体を張り、数々の武勇伝を残している。風邪のウイルスすら売ったというから、相当なものだ。
どちらかといえば小柄で、若い頃は柔道で鳴らしたらしく、五十五歳にしては体型の緩みが感じられない。顔の輪郭は角張っていて、目と口が小さい。社長に心酔し、良く言えば
コローレの役員会は、経営戦略局が準備を担当していた。
日程調整、資料の準備、当日の司会、議事録作成。
社長以下、六人を数えた役員が、いまはたったの二人か――
僕は弓鳴に向き直った。
「携帯を貸してくれないか。例の月島さんの声を二人に聞かせたいんだ」
「貸すのは、絶対に、嫌です」
言葉を細かく区切りながら、はっきりと断られた。
「……じゃあ、一緒に来てくれないか。出番は一瞬だけだから」
「えー……、私、苦手なんですよね、あの人たち」
弓鳴が嫌悪感をあからさまに顔に出す。
「虎丸さんはなんとなく分かるけど、宮間さんも?」
「悪い人じゃないと思いますよ。ただ、頭がちょっとアレ……バカっていうか……」
「なんで一回包んだオブラートを破るの?」
見かねたのか、朽木さんが助け舟を出してくれた。
「弓鳴くん、みんなのためだ。それくらい、協力してあげたらどうかな」
弓鳴はそう言われて、渋々了解した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます