2. 腹痛と事件

 2時限目はひたすら腹痛に耐えていた。原因は色々浮かぶが、昨日姉に貰ったクッキーがどうも怪しい。ともかく、僕は5分置きに来る腹痛の波や、それに呼応するように板書されたsinカーブと格闘しながらひたすら終了のチャイムを待った。そして号令が終わるや否や席を立つ。早く、トイレへ。急がなければ、僕は僕でいられなくなるだろう。しかし、この最悪のタイミングで僕を呼び止める声があった。


「三嶋くん」


 無視してしかるべきだった。が、その声色の可憐さに思わず振り返ってしまった。ボブカットの似合う明るい顔立ちが目に映る。クラスのアイドルたる柏木かしわぎさんだ。天然で親しみやすい性格と、癒し系のスマイルに心を奪われる男子生徒は数知れず。かく言う僕もその一人だ。

 しかし何故こんなときに限って。普段は接点など、まるでないのに!


「な、何か用かな」

「三嶋くん割り箸持ってたよね?一本、貰いたくって」


 割り箸……。冷や汗のにじむ体で頭を高速回転させる。弁当用の箸を忘れたときの予備として、机にストックしてあるコンビニの割り箸。しばらく補充してなかったから、かなり少ないことは確実だ。それでもまだ残ってるかどうか、腹痛まみれの頭では確信が持てない。


「ごめん、あったら机の右側に入ってるから。勝手に持ってって」


 それだけどうにか振り絞って、僕は廊下へ駆け出した。あと少しとどまれば、別のものが絞り出たことだろう。


***


 それから教室に戻ったのは、3限目が始まるギリギリだった。腹痛から解放された僕は午前最後の授業を難なく乗り越えて昼休みを迎えた。緊張から解放された安心感から大きなあくびをする。それを慌ててかみ殺したのは、柏木さんが僕の席まで来ていることに気づいたからだ。用事は分かっている。割り箸のことだろう。


「箸、机にあった?」

「うん。二本あったから、一本借りといたよ」

「それはよかった。でも、『借りる』って変だね。別に返さないのに」

「あはは。たしかに」


柏木さんが柔らかく笑う。その笑顔からはマイナスイオンが発せられていると、僕は確信している。最後に「ありがと」と礼をして僕から離れた彼女は、自分の席に戻った。そしてリュックサックから弁当箱を取り出してそれだけ持つと、廊下の方へ消えていく。きっと外で友達と待ち合わせしているのだろう。

 律儀に礼を言いに来るなんて、柏木さんは内面も素敵な人だ。僕は満足して、自分も昼食をとることにした。弁当箱を持って友達の席へ向かう。この時はまだ、自分の失敗に気づいていなかったのだ。


***


 それを思い出したのは放課後のことだ。持って帰るものはあったかと、机の中を漁るうちに割り箸のことに思い至った。覗き込むと割り箸は一本だけある。柏木さんが言う通り、元は二本あって、彼女が一本持って行ったのだろう。また新しく仕入れておく必要がありそうだ。

 そういえば、この前授業中の暇つぶしに弄んでいるうちに折ってしまった割り箸があったはずだ。両方が真ん中でぽっきりと折れて、使い物にならなくなってしまった一本。あれはどうしたのだろう。他の予備と一緒に机へ放り込んでおいた記憶があるのだが。


「……」


 もう一度、机を探る。あるのは新品同然の一本だけ。折れた割り箸は何処へ消えた?背中を冷たい汗が伝うのが分かった。思い当たる節は、一つしかない。


 柏木さんが持ってったんだ。を、掴ませてしまった!


 慌てて周囲を見渡す。柏木さんはまだ教室にいた。彼女はあの折れた割り箸で昼食をとったのだろうか。それとも食べることを諦めたのだろうか。僕に文句の一つも言いに来ないのは、彼女の人柄の良さからだろうか。それとも、呆れ果てて口も聞きたくないのだろうか。

 どちらにせよ、まずは謝罪しなければ。たとえ手遅れであろうとも、僕の最善は他にないのだ。


「柏木さん!」


 緊張した呼びかけに振り向いた彼女は、意外なほどけろっとしていた。


「三嶋君?どうしたの」

「ごめん、割り箸のことなんだけど」

「割り箸?」


 どうも、反応がにぶい。僕の思い過ごしだったのか?それとも折れた割り箸に柏木さんは気づいていない?そんなはずは、ないと思うのだが……


「あー、あのことか」


 しばし間を置いて、彼女はようやく要件に気づいたようだった。しかしその表情は硬化ではなく、むしろ柔らかいものだった。

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