サンダルでダッシュ!――July
本で見かけたタイトルに男は悟らないと書かれていたが本当なのだろうか。わたし自身が男なので、否定的な言葉に何とも言いようのない気持ちになる。
世の中、わからないものは多い。
世界の真理なんて欠片もわかっていないだろうし、目の前にいる男の心なんて読めるはずもない。
「はい、サインお願いします」
じっと見ていると、センパイ?と首を傾げられた。
わたしは手渡されたボールペンを受け取って、伝票にサインをする。処理を待つ間に視線を上げれば丑の日のポスターが飛び込んできた。
「どこでも予約を受けるようになったな」
「確実な売上げですからねぇ」
わたしのぼやきに
二人で香ばしく焼けた鰻を眺める。
わたしはといえば、全くもって食欲がわかなかった。あれは食べたい人の食欲が刺激するだけで、作る側にとっては憎悪を拡張する紙切れだ。
妹尾くんは悟れる男なのか、わたしの顔色を見て微笑する。
「センパイ、鰻嫌いなんですか」
「嫌いでは――ただ、焼くのがいやだと思ってな」
わたしの答えに妹尾くんは納得したように頷く。
「じゃあ、鰻の予約はコンビニでします。スーパーおのやまの方が断然おいしいんですけどね」
「そう言ってもらえるのはありがたいが、鰻の予約は正直うれしくないな……わたしが言ってはだめだが」
わたしにはスーパーを経営する両親がいる。将来は好きにすればいいと言われているが、漠然と何かしらの事業に関わることは想像できていた。
しかし、鰻は別だ。
テントの下ではあるが、鰻を焼く炭と太陽の熱気に囲まれて、何を炙っているのか、わからなくなる。
今年は何十匹だろう、と考えながらコンビニを後にした。届いた配達物がこんなに嬉しくないのは久しぶりのことだ。
♯♯♯
「鰻焼いてる」
四時過ぎにそんな声が聞こえた。
昼からの交代で焼き続けているせいで、いらっしゃいませ、を言う元気もない。ちらりと目だけをあげれば、艶やかな髪が見えた。知った顔に意識がゆるむ。
「いらっしゃい、
「お世話になります」
どこか変な受け答えも慣れたものだ。スーパーで落とし物を受け渡したことから彼女との関係は始まった。店員と客なので、当たり障りのない世間話が多い。それでも彼女は嫌な顔一つしないので、根がいい子なのだろう。
真城さんはなぜかうつむいていた。何か用事があるのだろうか。
「きょ、今日は鰻なんですね」
「丑の日だからな。真城さんも買っていくか?」
「そ、そうしようかな……」
視線を他所にやりながらも、何度かチラ見をされる。
汗だくの男を見てもつまらないだろうに。よくわからないが、買おうとしている客に案内はするべきだろう。
「店内で手頃なうな重があるから、そちらを購入した方がいいと思うが」
「それって、みな、あ……
真城さんは、よく俺に対して『みな』と言いかける。誰かに似ているのだろうか。気にはなっているが、恥ずかしそうにしている真城さんに悪い気がして聞いたことはない。
いつも通り、聞こえないふりをして答える。
「うな重はわたしが焼いたものではない。ベテランが焼いたから、わたしのより旨いとおも――」
「お、小野山さんの焼いた鰻が良いですッ」
「……まるまる一尾になるんだが……」
「大丈夫です、えいきゅ――冷凍保存するので!」
すごい勢いで迫られた。恥ずかしがるわりに、こういった鼻息荒い行動もとる。真城さんはなかなか掴めない。じっと鰻を眺めた後、これにします、と指差して手に取った。
「ありがとうございます」
「はい、ありがとうございます」
真城さんは眩しい笑顔を残していった。
♯♯♯
閉店作業中、わたしは牛乳とコーヒー牛乳の間に不可思議なものを見つけた。
薄いカードのような、定期入れだろうか。
閉店十分前の音楽を聞きながら、拾い上げる。『真城 結花』の文字と見覚えのある顔写真――学生証だ。ICチップが入っている優れものである。
裏返してみても、定期入れのチェックの布地があるだけで、住所も電話番号もない。
明日もいるものだろうし、失礼だが中身を拝見しよう。
決心したわたしが学生証を引き出すと、何かが落ちた。床の上に鎮座する白い裏面。
わたしはそれを手に取り表を何かのキャラクターだろうか。黒髪に眼鏡をかけた男が微笑んでいる。イケメンなどわからないが、女受けは良さそうな顔立ちだ。
「お、おおお小野山さん!」
声に導かれるように振り返る。
目を見開いた真城さんが立っていた。
「ちょうどよかった。君の落とし物があるんだ」
「な、中身見たんですかっ」
「ああ、すまない。住所か電話番号があれば早く届けられると思って。学生証、ないと困るだろう」
「あ、謝ることは全然っぜんぜんっないんですけど……」
それ、と真城さんはわたしの手元を指差した。
つられたわたしも自分が握るものを見下ろす。相手のプライベートに勝手に踏み込んだことは変わりない。少しだけ気まずい。
「見たことは誰にも言わない」
「……そうしていただけるとありがたいです」
脱力した彼女は、学生証を受け取った。
あまりの落ち込みように声をかけたくなる。
「いい趣味じゃないか」
「それ、
勢いよく上げた真城さんの頬が赤い。
彼女の熱のこもった眼差しに呆気をとられた。
数瞬の沈黙を破ったのは真城さんだ。
「え、あれ、こ、この方が水瀬様って知ってますよね?」
真城さんが黒髪眼鏡男をわたしの前に突き出してくる。
「……すまないが、知らないな」
せ、せりふ、と真城さんが両手で顔を覆って悶絶している。震えていた体がいきなり止まった。指の間から、こちらをうかがう。心なしか、血の気が引いたようだ。
「し、知らないって言いましたよね」
「悪いが知らないよ」
頷けば、真城さんは背中を向けて走り出した。
サンダルでダッシュは危険だろう。
「気を付けて!」
わたしの掛け声に商品棚の奥から、ありがとうございますぅと叫びに似た返事が聞こえる。
店内のアルバイトが何事かと顔を覗かせていた。
肩をすくめるわたしを見て、興味を無くしたアルバイトは散っていく。
閉店作業に戻った。
わからないことはどんどん増えていくものだ。
(終)
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