第12話 悪い奴らに気をつけろ!
2021年10月中旬
警視庁の会議室で、関東最大の麻薬組織を摘発する重要な捜査会議が行なわれていた。ターゲットは、殺人にまで手を染めていたボスの連城英太郎。
数日後、私は東京の山奥のスラム街で張り込みをし、連城の秘書、明菜を逮捕した。その隙に連城に逃げられてしまうも、車でスラム街を突っ切り、途中で乗り捨てて、連城一味にジャックされた路線バスを必死に追いかけ、何とか連城も逮捕することに成功した。
そんなある日、突然明菜が釈放される。彼女には検察側証人になる司法取引が結ばれていたのだ。明菜の身辺警護を命じられた私は、彼女の出廷を妨害しようとする連城の部下たちと激しい闘いを繰り広げることとなる。
俺はブロンクス動物園にやって来た。
ブロンクス動物園は、アメリカ合衆国ニューヨーク市ブロンクス区に位置し、ブロンクス公園内にある動物園。園内では、世界中の約650種4000匹の動物が飼育されており、世界最大の動物園の1つである。園地及び自然生息地からなる敷地は面積が265エーカー (107 ha)で、ブロンクス川が流れる。
フォーダム大学が後にブロンクス動物園とニューヨーク植物園になった土地を所有していた。フォーダム大学は、国が動物園と公園のみに使用するという条件付きで、土地を$1,000でニューヨーク市に売った。これは大学の敷地と、都市拡大による周辺の住宅街との間を、自然の地域で妨げるためでもあった。1880年代には、隣にニューヨーク州が公園として開発する地域を置いた。1895年、ニューヨーク市が動物園設立の目的で、ニューヨーク動物学協会(後に野生動物保護協会に改名)を設立した。
動物園(もともとブロンクス動物公園、ブロンクス動物庭園と呼ばれた)は、1899年11月8日、22種類843匹の動物を展示し、一般公開した。初代動物園長はウィリアム・テンプル・ホルナディ。ヘインス・アンド・ラファージュは、最初に動物園を設計し、大きなアシカ・プールの周辺にボザール様式のパビリオンを並べた。1934年、ポール・ジェームズ・レイニーに捧げられた、有名彫刻家のポール・マンシップがデザインした彫刻、レイニー記念門が建った。門は1972年にアメリカ合衆国国家歴史登録財としてリストアップされている。
2006年11月、動物園は、ブロンクス川ゲートの外側に新しい環境に優しい化粧室をオープンさせた。動物園のバイオトイレを開発したクリブス・ムルトルム・カンパニーによれば、この設備は年間50万人が利用し、1,000,000USガロン(3,800,000 l)の水を節約している。
2007年3月、野生動物保護協会とフォーダム大学大学院は、科学修士号への教育プログラムを提示した。これは、ニューヨーク州で最初の青年科学教育の証明である。(生物学階級:7-12)。プログラムは2008年に始まり、この種では初めての共同プログラムである。
2010年時点で、ブロンクス動物園には650種4,000匹以上の動物を飼育しており、これらの動物の多くは絶滅が危惧されている状態である。アフリカ平原、ワイルド・アジアなどは、地理的に分けられている一方、ワールド・オブ・バード、爬虫類館など、展示の一部は、動物の分類学的に分けられている。
「アフリカ平原」では、来園者がライオン、コウノトリ、シマウマの前を通ることができ、カモシカがニアラ、リカオンと同じ場所で生活するのを見ることができる。キリンは、近くで歩き回っている。リカオンは、展示室からガラス越しに見ることができる。2010年1月には3匹のライオンの子供が生まれ、アフリカ平原で展示されている。ブロンクス動物園は、ニューヨーク・デイリーニュースと提携し、2010年4月に子供の名前を公募した。2匹の雌、1匹の雄のために決まった名前は、それぞれNala、Adamma、Shaniだった。
「バブーン・リサーブ」は、エチオピア高地を再現しており、ゲラダヒヒの群れを飼育している。さらに、来園者は、このエリアで飼われているヌビアアイベックス、ケープハイラックス、アフリカの水鳥などの動物と共に、さまざまな視点からゲラダヒヒを見ることができる。
「コンゴ・ゴリラの森」は、20頭ほどのニシローランドゴリラが飼われる、6.5エーカー (2.6 ha)の熱帯雨林である。さらに、コロブス、オナガザル、マーモセット、オカピ、マンドリルも飼われている。来園者はエリアを歩き、木の梢から動物を観察できる。
「ワイルド・アジア・モノレール」は、アジアの泥地、牧場、川岸などを再現した40エーカー (16 ha)のエリアを、来園者を案内する。20分間の長いコースでは、自然の中、トラ、ゾウ、サイ、モウコノウマを見ることができる。さらに、モノレールは、シラサギ、カメ、コイ、アヒルなどが生息するブロンクス川に沿って移動する。モノレールには、幅26"以内の車椅子であれば乗ることができる。これより大きい車椅子や、電動車椅子を使用する来園者は、ホームで小さな車椅子を利用できる。晩秋から冬期、早春にかけては営業しない。
その他、ユキヒョウとレッサーパンダが観察できる「ヒマラヤの高地」やアムールトラが観察できる「タイガーマウンテン」、グリズリーやホッキョクグマが観察できる「大きな熊たち」といった施設もある。
☔雨が降ってきたので屋内に移動した。
「ジャングル・ワールド」は、屋内の熱帯雨林であり、マングローブや海岸に住むカワウソ、テナガザル、ヒョウ、バクなど、800の動物を飼育している。来園者は、テナガザルがぶら下がるところや、歌うところ、カワウソが遊ぶのを見ることができる。展示品には通常、クワガタムシ、サソリ、ヨーロッパスズガエルなどもある。また、滝の付いた池に腰掛け、グラミー、レッドフィンバルブ、カイヤン、スッポンモドキを見物することもできる。
「バタフライ・ガーデン」では、来園者は牧草地や庭を歩き、チョウが上をとぶ屋内の温室である。
「モンキー・ハウス」は、ワタボウシタマリン、シロガオサキ、マーモセットなど、新大陸産のサルを飼育していたが、2012年3月に閉鎖した。サルは、動物園内の他の展示、セントラルパーク動物園、プロスペクト・パーク動物園で展示されている。この建物には、画期的な地位があり、跡地は保持する必要性がある。
「マダガスカル館」は、2008年6月20日に開業し、マダガスカル島の自然環境を再現している。ここでは、キツネザル、マダガスカルオオゴキブリ、シファカ・キツネザル、ナイルワニ、フォッサなどを飼育している。
「ワールド・オブ・バード」は、屋内の放鳥散歩道である。展示は年中オープンしている。来園者は、アオハラニシブッポウソウ、サクラボウシインコなどを見ることができる。ワールド・オブ・バードが最初にオープンしたのは1972年で、改修のために2010年夏に一時的に閉鎖されたが、2011年初めに再オープンした。
こんなにほのぼのとしたのは久しぶりだ。
私は新宿出身だ。
東京都に23ある特別区の一つであり、23区の中央やや西側に位置する。かつての35区が22区(のち23区)に移行した1947年(昭和22年)に発足した区であり、行政機構としての歴史は比較的浅い。また、牛込、四谷、淀橋の3つの区が「寄り合い所帯」となって誕生した経緯から、個性に富んだ地域が区内に点在する。
1991年(平成3年)より東京都庁は同区に位置しており、自治体として見た場合は「東京都の都庁所在地」に該当する。ただし、新宿区を含む23特別区は地方自治法において他の46道府県庁所在地とは異なる「特別地方公共団体」とされており、通常の市町村(普通地方公共団体)と同格に扱われていないため、国土地理院発行地図を始め都庁所在地の地名は慣例的に「旧東京市の後裔たる東京都区部の総称」として「東京」と表記されている。
古くは甲州街道の通り道として栄えた新宿駅周辺は日本有数の繁華街が形成されており、新宿駅は鉄道各路線のターミナルのため昼夜の人口増減が特に著しい。新宿駅南部は新宿御苑や明治神宮外苑があり緑が豊富である。また都心のベッドタウンとして人口が急激に増えた北部の落合地区は住宅地となっている。本来、山の手とは新宿区内を中心とした高台(武蔵野台地)を指す。
甲州街道沿いの街、宿場の街として江戸時代以降から繁栄を見せた四谷地域(旧四谷区)。四谷見附から新宿駅東口の手前および信濃町駅周辺までが四谷地域に該当するため、警察署や消防署、公立学校の学区域も四谷地域の施設を利用することになる。
江戸時代にかけて田園の住宅地として都市開発され、明治時代には既に成熟した住宅地として機能してきた牛込地域(旧牛込区)。牛込地域は住居表示未実施がほとんどであり、戦災被害が比較的軽かったため古くからの町並みが再開発の手から逃れているなど、様々な面で都内を代表する保守的地域であると言える。神楽坂、市谷、早稲田と呼ばれる地名は全て牛込地域内である。
このほか、早稲田大学や東京理科大学など大学・学校も多い。慶應義塾大学病院や東京医科大学病院、東京女子医科大学病院などの大学病院、国立国際医療研究センター戸山病院などの大病院も集積している。また、新宿区は都内で最も外国人登録者が多い区である。外国人のなかでもとりわけ、中国人と韓国人が多数居住している。特に大久保、大久保駅、新大久保駅周辺から職安通りにはコリアタウンをはじめとする、外国人コミュニティが形成されている。新宿区の人口の1割が外国人とされる。新宿区の発展に伴い、東京都庁や防衛庁(現防衛省)などの官公庁も移転してきた。
このように、商業地と住宅地、歴史ある地名と再開発地域、多国籍といった、まさに大都市の光景を縮図にした性格を新宿区はもっている。
1970年(昭和45年)辺りまでは、「若者の街」、「若者文化の流行の発信地」といえば、新宿だった。しかし、1973年(昭和48年)に渋谷でPARCOの開店があり、日本における若者文化の歴史が大きく変化。その流れは「新宿から渋谷、または渋谷区全体へ」と移り変わっていく。
強盗殺人で服役中の磯谷恭也は、屋外での刑務作業中に仲間の島津忠太の手助けで、看守を殺害して脱獄を果たす。磯谷は歌舞伎町に向かうと、かつての仲間の新島裕人を殺害し、さらに別の仲間である三村一平を捕まえ、力竹勇が隠した金を出すように要求する。彼女を人質に取られた三村は金を隠した場所は月曜にならないと開かないと答え、島津はそれまで街で待つこととなる。
一方、新宿警察署の刑事である八十島雷太は、警視庁捜査一課の狗巻警視と共に新島の名前で車を借りた車泥棒の捜査を行うこととなり、犯人が潜伏していると思われたモーテルを訪れる。その相手こそ磯谷であり、彼は刑事が来たことを察知すると刑事1人を射殺して逃亡を図り、人質を取ると八十島に拳銃を渡すように要求する。要求に従った八十島であったが、磯谷は奪った銃でもう1人の刑事を射殺するとまんまと逃亡に成功する。
磯谷の捜査記録を調べた八十島は、彼の強盗仲間で、今も服役中の力竹に会いに行く。当初は協力を断る力竹であったが、新島が殺害され、磯谷が脱獄したことを知って、刑務所から出すことを条件に協力することを申し出る。そこで八十島は書類を偽造し、48時間という期限付きで力竹の仮釈放を認めさせる。だが、力竹は磯谷の目的が自分が隠した金であることは八十島に秘密にしていた。飯を食いたいとワガママをいう力竹にカロリーメイトを与えてクズ扱いの八十島。
まず、2人は三村を捕まえるべく彼の家を訪れ、彼を逮捕することに成功するが、三村は磯谷とは会っていないと嘘をつく。次に2人は島津を捕まえるべく、彼がバーテンダーをしていたゴールデン街の店を訪れ、一騒動の末に中野の女の家にいる可能性を突き止める。これらは力竹の活躍も大きかったが、八十島は力竹を認めつつも、力竹の隠し事に感づいていた事もあって蔑ろに扱い、険悪な関係となる。中野にやってきた2人は、力竹の女に、彼の行き先を問い詰めるが、女はもう力竹とは会っていないと答え、手がかりは途切れ、捜査は行き詰まってしまう。
隠し事をする力竹に苛立つ八十島は、終いには街中で殴り合いの喧嘩に発展する。だが、結果として2人は打ち解け、力竹は秘密を話す。それは、かつて力竹がパチンコ屋から50万を盗み、その金を隠した車を駐車場に長期保管しているというものであった。そこで駐車場で磯谷を待ち受けることにした2人であったが、予想に反して受取にきたのは三村であった。2人は車を出した三村を尾行し、地下鉄駅で彼が磯谷と人質と金の受け渡しをしようとする現場を抑えようとするが、2人に気づいた磯谷によって銃撃戦と逃亡劇が始まり、八十島は磯谷を、力竹は三村を追いかけるが、結果として八十島の方は逃げられてしまう。
新宿署に戻った八十島は、力竹自身が逃亡したかもしれない不安を抱えながら彼からの連絡を待つ。紆余曲折を経て力竹からの連絡で、八十島は三村のいるホテル近くに張り込む。ところが、想定よりも早く三村は動き、磯谷は盗んだバスの内部で三村から金を受け取ると彼を射殺する。八十島達はバスを追いかけ、深夜の街でカーチェイスが始まるが、結果として逃げられてしまう。
狗巻からはロクデナシと組んで失態をおかしたと責められるが、力竹は根性のある男だと庇う八十島。しかし今度こそ完全に手がかりを失い、力竹の仮釈放の期限も迫る中、八十島はせめてもと再収監前に力竹にタバコを奢る。だが、そこでバスが中野に乗り捨てられていたという情報から、八十島は磯谷らが島津の女の家に潜伏している可能性を思い立つ。2人は半信半疑で乗り込んだ女の家で、磯谷と島津を発見し、まず島津を射殺する。再度、金を持って逃走を計った磯谷は、力竹を人質にとって八十島に拳銃を捨てるように要求するが、八十島は磯谷のみを撃ち抜き、そのまま射殺する。
事件は一段落し、再収監前に、女と寝たいという力竹の願いを八十島は叶えてやる。そして50万の行方を心配する力竹であったが、八十島は金を見逃すことにする。2人は明けつつある闇の中で車を走らせ始めた。
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