ぼくとその女の子【10】

 くれはの大きな瞳はぼくを捉えている。


 勢いよく切り出した。語るべきこともすでに頭の中にいくつか思い浮かんで並列していた。

 そのはずなのに。


 この目に見つめられると、次の言葉が出てこない。自分の言葉が、頭の中をぐるぐると駆け回って定まらない。どいつを先頭に持ってくるべきかわからない。だんだんその姿もわからなくなってきてしまった。


 大体さっきまでこの街が好きだと言っていたこの子に対して、ぼくは正反対の言葉を叩きつけたんだ。自分でもなんで自然にその言葉が出てきたのかわからない。目の前のこの子が、それを聞いて満足したような顔をしているのはもっとわからない。


 この宝石みたいな瞳をよく覗いたら、目の泳ぎまくったぼくが映っているのだろうか。

 沈黙が何秒続いたかわからない。その時、くれはの口が開くのが見えた。


「キミは、とても頑張り屋だよね。いつも自分の成長の為に必要なことを、全力でやってる。」


 優しくて温かい、そんな声だった。こっちを向いたくれはは、もう少しだけぼくに顔を近づけて、ぼくの方は慌ててお尻を前に滑らせて背中を壁でこすりながら、頭の位置を下げて距離を取った。


「あー、こらっ。照れない照れない。別に告白されてるわけじゃないんだから。こんなことでそんなに顔真っ赤にしてたら舐められちゃうぞっ。」


 今度はからかったように言って、微笑んだ。


「そういうのじゃないよっ。何というか、別に大したことしてる訳じゃ無いし。過大評価というか。特に結果出してる訳じゃないのにそれ言われるのが、一番恥ずかしい。」


 努力することは、同時にあこがれを示している。実力が伴わないとき、それはとても恥ずかしい。


「勉強は結構できるじゃん。」


 えっ。この子ぼくの成績知ってるの?


「いつも難しい小説読んでるしね。わざわざ学校の図書館じゃなくて市の図書館まで行って借りてきているのもなかなか。」


 うわあああああ。それは努力じゃなくて単に好きだからだよっ。難しい本読んでカッコつけてるとか思われてるのかな。というか観察力高すぎない?


「あー、別にそういうのを意識が高いとか馬鹿にするつもりもないし頭がいいのがかっこいいとか言うつもりも無いよ。」


 心が読まれてる。


「まあでも、やっぱり男の子としてはスポーツで活躍したい?この年頃の女の子には、結局運動出来る子が人気あるからね。」


 君も一応その年頃の女の子なんだけどね!誰目線で喋っているんだろう。やっぱり君は普通の子ではないね!


「体育の時、上手い人のやり方を一生懸命観察するのはいいことだと思うよ。結局、出来る人のやり方を真似するのが一番手っ取り早くて効果も出やすいと思う。」


 あああああああ。もう何も言えません…。


「恥ずかしがること無いよ。わたしは頑張ってる人、好きだよ。」


 意味は違うけど、好きの一言は、ドキッとした。


「お母さんもきっと努力家なんだ。頑張って、頑張って、それでも結果が出なくて。なのに諦めきれないから私を使った努力を始めちゃったと思うんだ。」


 この子はお母さんのことをちゃんと認めているんだ。だから非難しきれないし、嫌いにもなれない。


「だからわたしは、頑張っている人は認められて欲しいと思う。」


 くれはの瞳に少しだけ悲しみが映った気がした。

 ぼくはやっと、自分の言いたいことがまとめられた。


「広い世界を見たいんだ。」


 もう下手くそな言葉でいい。自分の思ったことをそのまま、伝え切ろう。


「ある意味本ばっかり読んでいたせいなのかな。本の中でなら簡単に特別な場所に行けちゃうから。憧ればっかり強くなっちゃって。」


 くれはは少し嬉しそうな顔で静かに聞いていた。


「世界には、その分野の一流の人だけにしか見えない景色がある。一流の人同士だけの繋がりがある。自分もその中に入っていれば、どんどん凄い人達と会うことが出来る。凄い人達と会って、話をすることが出来れば、特別な景色の一端を感じられるかもしれない。」


 酷い話だ。具体的なことを何も言っていない。まさに子供だという自覚はある。


「一回しか無い人生を、狭い世界に引きこもったまま終わりたくないんだ。この街を出て、高く高く飛びたい。今はまだぼくにその力はないけれど。」


「詩的な表現だね。もしかして、狭いコミュニティの中で盛り上がってきゃっきゃしてるクラスの皆のこと、ちょっとバカにしてる?」


 うわあ。なんか勢いでまた恥ずかしいこと言っちゃった。

 バカにはしてない。人の生き方にどうこう言う立場じゃないし、言う余裕も無い。でも、ぼくはそんな生き方は嫌だ。


「認められたいとか、そういうのじゃないんだっ。まあでも結局望みを叶えるには誰かに認められる必要があるから、結果的に同じかもしれないけど!」


「ふふっ。子供っぽくないね。本の読みすぎ?たまに難しい言葉使うし。普段小難しいことばっかり考えてるの?もっと好きな子に振り向いて欲しくて頑張るとか、そういう可愛いのないの?」


 子供っぽくないのはどっちだ。強いていうなら、君に認めて欲しい。流石にそれは言わないけど。

 でも今の勢いなら、渡せる気がした。この子、ぼくを勢いづかせること計算して、軽く煽ってない?まんまと乗せられてる気がする。


「めちゃくちゃ恥ずかしいのなら、ある!」


 ポケットから例のあれを取り出して、くれはの手に押し付けた。

 くれはは流石にびっくりして、何も言わずに手元を見ていた。


 あっ、まずい。このタイミングで渡したら誤解されるに決まってる。


「ラブレターじゃないよ!」


 ある意味似たようなものだけどね!


 手紙を開いたくれはは、最初の数行を読んだところで何が書いてあるか察したのか表情が一変した。


 そのあとはしばらく手紙の内容を反芻するようにぼくがくれはのことを褒めたたえる時間が続いた。もうやけになって勢いでまくしたてるぼくに対して、くれはの顔はどんどん赤くなっていった。

 この子ですら、面と向かって褒められ続けるのはかなり恥ずかしいらしい。


 作品の内容に関しては大体話しきった。そもそもそれは、わざわざ恥ずかしい思いまでして言わなくてもくれはの手元の紙に全て書いてある。

 わざわざ何度も書き直して紙を無駄にしたのは何だったのか。


 でもおかげで、クールな印象の多いこの子が珍しく真っ赤になって動揺している瞬間を見ることが出来た。


「もうわかったよ。キミの気持ちは十分に伝わったからっ。だからもうやめてっ。」


 くれははもう一度身体を小さく丸めるように座り直した。両手で持った手紙で口元を隠してはいるけれど、その横顔はまだ赤い。


 目を合わせることが苦手なぼくはずっとこの子の顔の下半分をうつむき気味に見ながらまくしたてていた。いつの間にか前のめりになって話していたことに気が付き、恥ずかしくなってぼくも一度座り直した。


「君は凄いよ。」


 くれはは一瞬目を閉じて更に身体を小さく丸めようとしたけど、すぐに元に戻った。ぼくの声色が変わったから、話が少し変わることに気が付いたんだと思う。


「ぼくは…ええと、その…、何でもいいから、何か一つぼくじゃなきゃできないことをしたいんだ。この時代、この場所にぼくが産まれて、生きていたんだっていう証を残したい。」


 微動だにせず聞いているようにも見えるけれど、一瞬、ほんの少しだけ頷くように頭が上下に動いたように感じた。


「君はその点、もう自分だけの証をもう持っているんだもん。だから…憧れるんだ。歌だって、君はやればきっと成し遂げてしまうと思う。ぼくは…君みたいにはなれない。だけど、だったらぼくのやり方で、ぼくの答えを見つけたい。」


 くれはが少しこちらを見た。今の言葉に込めた思いに気が付いたのだろうか。


「まずは君を追いかけるのが近いような気がした。どんどん遠くまで行ってしまう君に手を伸ばして、しがみついて、そのうち自分の力で飛んで、自分の目指すものを見つけられたらなって思う。」


 ただのファンで終わるつもりは無いよって言う気持ちを込めた。そういう言葉で覆っておかないと、これ以上は恥ずかしくて言えそうにない。


「これはそのお礼って言うか、それこそ罪滅ぼし。ぼくから見た君は、これだけ凄い人に見えてる。勝手な話だけど、どうかぼくの憧れになって欲しい。君を見ている限り、ぼくはいつまでも頑張り続けられる。」


 くれはは少しだけ拗ねたような顔をした。恥ずかしながら勝手に熱くなってしまっていた僕の方は油断したら涙が出そう。


「…ずるいなあ。」


「え?」


 何か一言だけ小さく言った言葉がよく聞き取れなくて、つい聞き返してしまった。


「そういうの、どこで覚えてきたの。やっぱりやり方が子供らしくない。可愛げがない。」


 本当に何のことだろう。


「あのね。」


 くれはは一度だけ深く呼吸した後、またあの真剣な顔でこちらを見つめて話し始めた。まだ頬は少し赤かったけれど。


「わたしは、今でも自分があの世界の人だって実感がないの。自分が本当に何をしたいのもわからない、どうありたいのかもわからないからキミの方がよっぽどまとも。だからキミは買いかぶりすぎ。わたしはそんなに凄い人じゃない。でもね。」


 熱のこもった言葉を一息で話しきったくれはは一端斜め下を見るように顔を伏せ、すぐにもう一度顔をあげてこちらを見た。


「キミみたいに同世代の子に感想を言って貰えるのは嬉しかった。私はこんな風に見えてるんだなって参考になった。私がやっていることが大人を喜ばせるために大人が考えたことじゃないんだなって、少しだけ…救われた気がした。」


 最後の方はやっぱり恥ずかしくなったのか、また目を逸らした。でもその横顔は、なんだか嬉しそうなのが、ぼくにもわかった。


「あのさ…。私の歌…聞きたい?」


「えっ?」


 一瞬何を言われたのかわからなかった。


「余計な事考えないで。ファンでも、友達でも…立場なんてなんだっていいから、久方春陽君。君は私が歌っているところを見たいですか。」


 そんなの答えは決まっている。


「見たいよ、もちろん。」


 くれはは何か決意を固めたような表情をしていた。


「わかった。じゃあ約束して。キミも、自分の実力をちゃんと出して見せて。キミはずっと頑張ってきた。実力もちゃんとついて来ているはず。後は精神の問題。もう少しだけエゴイストになって、周りの皆をびっくりさせて、私に自分は前から知ってたんだぞって思わせてください。」


 真剣な眼差しがぼくの顔を捉える。

 近い。お互いの熱が伝わってそうな気すらしてくる。鼓動がどんどん早くなっているのがわかる。それでも、今だけは目を逸らすことは出来ない。ここで少しでも逃げる素振りを見せてしまったら、この先ぼくは二度とこの子に正面から向き合えることはないと思った。


「約束するよ。今までも別に手を抜いていたわけじゃないけど、気持ちで負けていた。そういう意味で、本気度が足りなかった。君を目指して、死に物狂いで頑張るよ。君に届くように、君の隣に立てるように、一緒にいて君が恥ずかしくないように。何でもするよ。」


 一言一句、身体全体から集めた熱を吐き出すように、くれはの大きな瞳を覗き込みながら、言った。

 引いたら駄目だ。ここで今、はっきりとこの子に対して言葉にすることで、ようやくぼくは本当の意味でスタートに立てる、そんな気がした。


 言い終わってからもぼくは歯を食いしばってくれはの瞳を見つめ続ける。これがぼくの示す覚悟だ。


 対するくれはは、柄にもなく突然意地でも目を逸らさず見つめ続けるようになったぼくに根負けしたのか、それとも呆れたのか、目を逸らした。


「ちょっと違くない?」


 え?


「キミは自分のために頑張るの。今の言い方だと…意味が変わってきちゃう。今自分が何を言ってたのか、わかってる?」


 くれはが珍しくなんだか恥ずかしそうに言うので、急に動揺し始める。


 あれ?ほんとにぼく、何を言ってたんだっけ?もしかして何かやばいこと言った?でもそれだとこの子はこんな顔しないでからかってきそうなのに。


 混乱しているぼくに対して、くれはは再び目を合わせてきた。気のせいかもしれないけれど、その頬は、少しだけ赤くなっているように見えた。


「右手を出して。」


 よくわからないまま、ぼくは言われたように右手を差し出す。


「わたし、握手会って嫌いなの。」


 くれはの右手は差し出したぼくの手を少し力を入れて捉えた。言葉と行動、両方意味がわからない。そしてその両者が矛盾しているようで、もっとわからない。


「握手ってさ、二人がお互いを対等な関係だと認めて、『これから一緒に頑張っていきましょう』っていう、そういうことだと思うの。だから、時間を決めて順番に何人も握手をしていくとか、危険が無いように見守っている人がいるとか、そういうのは違う。ましてや憧れの人に会うためにいっぱいお金使って、得られるものがただ手に触っただけなんて。」


 ぼくが言っていいことなのかはわからないけれど、くれはの言いたいことは、わかる気がする。悲しいことだけど、そういう努力をしてしまったら、本当に自分が求めていることからは近いようで実はどんどん離れて行ってしまうのではないか。


「本当に純粋に応援がしたくてやっている人ももしかしたらいるかもしれないけれど、わたしはあんまりおすすめできないなあ。それを続けて行って、その人が最終的に幸せになるっていう気が、あんまりしない。だって、そこまでする価値がある人って、ほとんどいないもん。」


 くれはは少し寂しそうに、或いは申し訳なさそうに言う。ぼくとしては、これはこの子だから言えてしまうことのような気がするけれど。


「芸能人なんて、みんなそんな大したこと無いよ。だってみんな元々は普通の人だから。普通の人の一部が、たまたま何かの条件にハマって世に出てる。特に若い人なんて少し前まではほんとただの普通の人だよ。別にテレビに出た瞬間に凄い人になるわけじゃないのにね。」


 流石にぼくはそうとは思えない。これはこの子なりの自虐も含まれているのだろうか。少なくともこの子自身は、自分をそこまで大した人間だとは捉えていない、と。


「応援はありがたいことだけど、わたしはその人が何を頑張っているのかが知りたいんだよね。頑張っていることが人を応援することなのは、悪いことではないけれど…ちょっと寂しくて、ちょっともったいない…と、思っちゃうかな。」


 優しい声だけれど、確かに少し寂しそうな言い方だった。


「あーあ。こんなこと言っちゃうし、やっぱりわたし、あの世界根本的に向いてないのかなあ。」


 くれははぼく達の繋がった手を一瞥し、ひと呼吸置いた後、続ける。


「だからこれはちゃんとした握手だよ。一緒に頑張ろう。私はあの場所が向いている人ではないかもしれないけれど、好きな仕事、楽しい瞬間もある。キミみたいにわたしに価値を感じてくれる人もいる。全員が来れる場所じゃないっていう理解もしてる。たまたま巡り合わせがあって、わたしはあそこにいる。せっかくの縁だから、わたしはこれから全力で取り組んでみる。」


 くれはは勢い良く捲し立てる。普段の教室の様子からは、こんな喋り方をするのはとても予想できない。


「キミも頑張ってみて。いいえ、違う。キミはもう頑張ってる。だから、頑張っていることを恥ずかしがらなくていい。隠れなくていい。わたしよりずっと頑張り屋のキミが、自分を認められる瞬間が見たい。みんなに凄いんだよって知って欲しい。わたしを…憧れさせてみなさい。」


 最後はちょっと恥ずかしそうに言った。


 やっぱり役者だ。人の感情をここまで簡単に揺さぶって来る。ぼくは大した人間ではない。この子の期待に応えられるかはわからない。カッコ悪いところも見せるだろう。でも、この子の前で弱音を吐くことは、もうできない。


「いや、まだまだもっと頑張れるよ。」


 右手を少し強めに握る。少し湿り気を感じる。ぼくの汗だろう。申し訳ないけれど、今は少し我慢してもらう。


 くれはは嬉しそうに、優しく微笑んだ。


 忘れられないものがまた増えた。この笑顔と、大切に、それでも力を込めて握った右手の感触。


 今日からぼくは全力で走り出す。とはいっても、多分最高速度は前と大して変わらないと思う。でも、壁にぶつかりそうな時にスピードを緩めない勇気を、この瞬間ぼくは与えられたんだ。

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