第39章 9月6日
第1話 憂鬱な朝に小さな幸せを
夏季休暇最後の1週間。そのはじまりの日に、俺は朝から鏡を見て、顔をしかめる。
「似合ってねえ……」
鏡に映っているのは、白いシャツに、青いネクタイ。そして、黒のジャケット──つまり、スーツを着た、俺こと雪城雄黄である。
なぜスーツなのかというと、今日はいつかに受けた面接で受かった、インターンの当日なのだ。数日あるプログラムなので、正確には今日から、と言うべきかもしれないが。
そんなわけで、俺はスーツに袖を通している、のだが。
それにしても、これはひどい。
似合っていないにもほどがある。
馬子にも衣装、というのは、多分嘘である。
成人式やら、面接やらで着ていたはずなのだが、未だに着こなせている感じがしない。むしろ、面接のときに比べて、ジャケットを着たせいでスーツに着られているような感じが強くなった気がするな……。
……まあ、クールビズ? とかで、問題のジャケットはいらないらしいのだが。ついノリで着てしまった。
うむ……。毎日スーツを着るようになるのが不安でしかないな……。
「やっぱり似合いますねえ」
あまりの似合わなさに、大きくため息を吐くと、後ろからそんな声が聞こえた。
鏡を見ると、その隅に茶色がかった髪を揺らす美少女──雨空蒼衣がぴょこん、と映っている。左右反転しても、美少女は美少女なんだなあ。
そんなことを思いつつも、俺は鏡越しに蒼衣を見ながら眉をひそめる。
「似合ってるか?」
「はい。とっても」
「お前の目は節穴かもしれないな……」
「失礼ですね。盲目なだけですよ」
「ほとんど同じ意味なんだよなあ……」
はあ、とため息を吐きつつ、俺は改めて鏡の中の自分を見る。うん、似合ってねえな。
まあ、どれだけ俺がそう思おうが、着なければならないものは着なければならないのだから、仕方ない。
「……そろそろ行くか」
そう言いながら、俺はジャケットを脱ぐ。これは今日いらないからな。ある意味それだけは救いかもしれない。
預かりますよ、とばかりに手を出してくる蒼衣に渡す。なぜか嬉しそうというか、楽しそうだ。
廊下の途中でカバンを回収して玄関へと向かう。
「じゃ、行ってくる」
「はい──と、言いたいところですが」
「ん?」
「ネクタイ、曲がってますよ」
そう言って、蒼衣が俺の首元に手を伸ばし、軽くネクタイを触る。ふわり、と甘い香りがして、まだ眠気の残る脳にじんわりと染み渡る。
「おう、さんきゅ……って、待て。さっき鏡で見たときは曲がってなかったよな?」
「バレましたか。やりたかっただけです」
そう言って、ぺろり、と舌を出す蒼衣。その顔は、少し満足そうだ。
「よくわからねえ……」
「いやいや先輩。これ、新婚さんの定番シチュエーションじゃないですか」
「新婚じゃないんだよなあ……」
「そうですね。熟年夫婦です」
「もっと違うが!? ……っと、今度こそ行ってくる」
「あ、先輩。ちょっと待ってください」
「……まだやっておきたいシチュエーションでもあるのか?」
このままだと、昼飯を買う時間がなくなって、昼抜きになるのだが……。
そう思っていると、蒼衣が後ろから布にくるまった何かを取り出した。
「はい、先輩。愛妻弁当です」
「愛カノ弁当な」
「おや、愛の部分は否定しないんですね?」
「……うるせ」
にやり、と笑う蒼衣から目線を逸らしながら、弁当を受け取る。
……というか。昨夜、泊まっていた蒼衣が、朝から一度自室に帰って行ったのは、つまり。
「これを作るためにわざわざ帰ったのか?」
「そうです。憂鬱な朝に小さな幸せをお届けする、プチドッキリです」
どや、と笑う蒼衣に、俺は思わず苦笑する。
「手の込んだドッキリだな」
「ドッキリですから。手抜きは出来ませんからね」
「それもそうか。弁当、ありがとな。助かる」
「はい」
弁当をカバンに入れてから、ぽす、と蒼衣の頭に手を置くと、彼女は満足そうに目を細める。さらさらとした手触りは、やはり気持ちいい。
「じゃあ、行ってくる」
「はい、いってらっしゃいです」
小さく胸元で手を振る蒼衣に、振り返るタイミングで軽く手を振って、俺は外に出る。
朝日に目を細めながら、カバンを握り直し、ネクタイにつけたピンに軽く触れた。
正直なところ、行くのが面倒だったのだが……少しくらい、頑張るか。
そう考えて、俺はちょっとだけ前向きな気持ちで、歩きはじめるのだった。
……それはそうと、昼飯、楽しみだなあ。
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