電子コウロギと三日月の夜

みおつくしのしずく

2020年8月23日 PM 海岸にて

結婚して初めて迎えた夏。今、僕は最高に幸せだ。

「ほら、あと少しだから頑張って!」

獣道のように細く、険しい道をぐんぐんと進み、数メートル先で元気に両手を振るのは妻・香苗だ。

「分かったから、ちゃんと前見ないとこけるぞ」よいしょ、と肩のクーラーボックスを担ぎ直す。この中には、きんきんに冷やした缶ビールと氷が入っている。首元をじりじり焦がす日光を受けて噴き出す汗をぬぐい、そろりと黄色いクロックスで踏み出した。


海に行きたい、と香苗が言いだしたのは今朝のことだ。

僕たちが住む平家の前にあるススキ原を抜け、傾斜のある岩だらけの道をくだると、海がある。

家の縁側からも見えるその海は遊泳禁止なのだが、せっかく天気もいいし夏らしく海で遊びたい、ということらしい。

「Tシャツに短パンで行ってさ、うっかり足滑らせて海に落ちちゃったーって言えば、誰にも何も言われないよ」すでにひと泳ぎする気満々な様子で足をばたつかせながら、香苗はおどけた。

彼女は思いついたら即行動の人だ。僕が物置きからクーラーボックスを引っ張り出している間にすっかり身支度を終え、意気揚々と海に向けて出発した。


波打ち際のひときわ大きな岩に腰を下ろしたのは、ちょうどお昼時だった。遊泳禁止エリアなこともあって砂浜はかなり狭く、ごつごつした岩場が広がった先に海が見えた。

「ゴール!ひでくん、お疲れさま。はいこれ、食べよ」麻素材のポシェットから、俵型のおにぎりを2つ僕に差し出した。

この辺りは田んぼが多く、家から車で5分の直売所でおいしいお米が手に入る。ふっくらつやつやとしたあまいお米、これをおいしくいただくなら塩むすびに限る。

香苗はあっという間に食べ終えると、脱いだネオンカラーのビーチサンダルを揃えて置き、準備運動をしている。

「ね、あれ流してよ」

「了解」僕はポケットのスマホを取り出した。音量を上げると満足気ににっこりして、屈伸運動を続けた。


トビウオのようにしなやかな身のこなしで海に飛び込む彼女を見ながら、缶ビールをあおる。


ギンギンギラギラの 太陽なんです

ギンギンギラギラの 夏なんです


航路をゆったりと進む貨物船のように浮かぶ雲に、真っ青な空。ぺたぺたするのに、どこか心地良い汐風。昼下がり、冷えたビールがまわって少しぼーっとした頭に響く波の音。東京にいた頃はうんざりしていた、容赦なく照りつける太陽も、じっとりした暑さも、この曲を聴くと悪くないと思える。

香苗はきらきら光る波間できゃあきゃあ言いながら潜ったり、大の字で浮かんだりしてはしゃいでいる。少女がそのまま大きくなったかのようだ。

目が合うと、満面の笑みで「おいでよー」と言いながら水面をぱちゃぱちゃたたいた。

かわいいなあ、僕の妻は。思いっきり伸びをし、クロックスをビーチサンダルの隣にそろえて飛び込んだ。


泳ぎ疲れて海から上がり、香苗は浜辺で貝殻ひろいに熱中していた。

「こんなに砂浜が狭いのは予想外だったなー。あの縁側からじゃ、見えなかったもん」そう言いながら、波や砂で磨かれたまろい輪郭のガラス片、つるりとした貝殻なんかをひょいひょいと集めている。

「それ、作品に使うの?」

「そうそう。あとは流木なんかをちょっと持っていこうかな」香苗は、いわゆるアーティストだ。水彩画も描くし、針金細工なんかも得意だ。うちには、彼女が作ったお皿やお茶碗がある。

「よし、こんなもんかな。お待たせ、帰ろうか」そろそろ日が傾き始めていたが、暑さは変わらず、びしょびしょだったTシャツも重たくはあるものの、乾き始めていた。

「久々にいっぱい泳いじゃった!明日は筋肉痛かも」

上機嫌で僕から受け取ったポシェットに戦利品をしまう香苗の足は砂だらけだ。

「秀くんと海に来れてよかったよ。ほら、だってさ」言葉を切ると、香苗はもう一度海を見つめた。

「最後の夏、だからか」

「うん」

陽の光を受けて輝く瞳は、海を閉じ込めたかのようにきらめいていた。

「帰ろう、香苗の好きなとうもろこしゆでてあげる」

僕らはどちらからともなく、汗でしめった手をゆるくつないだ。



そう、これは彼女にとって最後の夏。

僕にとっても最後の夏。


そして、誰にとっても最後の夏。


どこにいたって僕らはみんな、等しく同じ

最期をむかえる。




日本時間で2020年9月15日、午前5時ごろ、

あの恐竜を滅ぼしたのと同規模の彗星衝突によって、世界は終わりを迎える。






















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