第2話 二階堂ゆみの惚薬
その日、お兄ちゃんの家で晩御飯を食べた後、私は迎えに来たお父さんに大人しく連れ戻された。あれ以上お兄ちゃんの家に居るのは耐えられなかった。はっきり言ってちょっと泣きたくなってきてしまうので帰ることにしたのだ。
私はお父さんの書斎のソファーベッドに飛び込む。
「最悪ッ!!」
「最悪なのはゆみちゃんじゃないかな?」
お父さんは眼鏡の位置を直しながら呆れてため息をつく。
「お父さんそういうこと言う!? お父さん嫌い!」
「まあお父さんはそんなゆみちゃんのことが好きだけどね」
「なんで!?」
「そうだなあ。ゆみちゃんが可愛いからだろうなあ」
そう言いながらお父さんは分厚い本に視線を落とす。私のランドセルより重くて、私の頭よりも大きくて、私に読めない分厚い本に。
お父さんは魔法使いだ。世の中の為になる大事なお仕事をしてて、書斎に引きこもったまま出てこない。表向きは学者さんということになっていて、私やお兄ちゃんが来ると何時でも入れてくれるけど、それ以外の人が訪ねてきても会おうとしない。
「けどお兄ちゃんを困らせたらいけないよ。大事な家族なんだから。ゆみちゃん自身を困らせてしまうことにもなるからね」
お父さんは魔法使いだ。だけど世の父親とそう変わらない。私がパパと呼ぶと甘くなる姿は何度も見てきた。そこで、だ。
「でも……悔しい……パパ、私悔しい……! お兄ちゃんに異性として相手にされていない……! パパ……こんな時はどうしたら良いかな……? 娘に助け舟とか出しても良いと……思うなぁ……!」
「そうだね。相手にしていたらパパ流石に困っちゃう」
反応が薄い。
「でも八年だけだもん! パパとママだって年の差があったって言ってたじゃん!」
「そうだね。パパとママも、ママの方が五百歳くらい上だった」
「五百!?」
パパは本から顔を上げてニッコリと微笑む。
「嘘だよ、ママの方が五つ上だったんだ」
「なぁんだ。パパったらいつも適当ね!」
「あ~……パパは魔法使いだからね。秘密が多いんだ」
その上、具体的な年齢まで出すんだからデリカシーもない。ママは何が良くてこんな人を選んだのだろうか。そのせいで私がこの苦悩と葛藤に満ちた人生を始めることになったというのに。責任を取れ責任を。責任? そうだ。
「魔法でママは助けてあげられなかったの?」
「ごめんね。それはハッキリ言ってパパの力不足なんだ。ママが居なくて寂しい思いをさせてしまっているのは全部パパが悪い」
何故だろう。いつの間にかちょっとこちらが悪いことをしているような気分になってくる。そもそも別にお父さんのことは嫌いじゃない。だが、それはそれとして。責任、そう、責任をとってもらおう。
「じゃあわざわざ『お兄ちゃんなら今頃彼女さんと幸せな時間を過ごしているから心配要らないよ。放っておくと良い』とか追い打ちかけないでよ!? パパしか居ないからパパに愚痴ったのに!」
「はて……君の乙女らしい初恋にはそこそこ気を遣ったつもりだったのだが」
何一つできてない。
私は恐らく真っ昼間から長時間放置されて氷の融けかけた麦茶とか、どうも電話連絡入れてから慌ててシャワー浴びたっぽいカップルとか、目撃してきたんだぞ。浮かれ倒した大学生カップルを相手にすっかり『ふふ、子供が居たらこんな感じかな?』みたいなイチャつきのダシにされたんだぞ。
こんな時、お兄ちゃんならば『そうだよね。じっとしていられないよね。気持ちはよく分かる。それでゆみちゃんならどうしたいかな?』と聞きながらもスマートにドライブとか連れてってくれるのに。あれ、これはこれでお兄ちゃんちょっとダメなんじゃないかな。こういうことするから私が未練を断ち切れないって分かってるのかな? やめよう。考えると切実に辛い。
「もしやこれは何一つ気を遣えていなかったのかな?」
「……」
「分かったよ。あまり責めるような表情をしないでくれ。ゆみちゃんを怒らせてしまったのはパパだからね」
「分かればいいです。分かってくれたなら、パパはゆみに埋め合わせの品を渡すべきだと思います。責任をとってもらいます。ゆみの初恋をめちゃくちゃにしたことに対して然るべき賠償を求めます」
パパは渋い表情を浮かべる。魔法の道具はあんまり家の外に持ち出してはいけないらしい。しかしパパは甘い。私にはとても甘い。パパと呼ぶととても甘い。
机の引き出しの中から透明な小瓶を取り出すと、私に差し出す。
「仕方ない。惚れ薬だ……これで許してくれ」
「お父さん最低」
「えっ、なんで? 欲しいものは奪い取ろうよ」
そういうことじゃない。分かってしまった。だらしのないお父さんがお母さんを口説き落とした理由……これだ。これを使ったんだ。最低の父親だ……だがそれはそれとしてこの惚れ薬はもらっておく。この父親にして娘ありとか思ってはいけない。恋は戦争だ。待っててねお兄ちゃん。
「じゃあ聞くけどさ……これ、お父さんはどう使ったの?」
「少なくともお母さんには使わなかったな。大切な人の心を操って得た幸せに意味は無いと思わないかい?」
どうやら最低だったのは私だけみたいだ。
「――待って。じゃあこんな役に立たないものを渡してどうするつもりなのよ!? こんなの使ったって最終的にはお兄ちゃんに嫌われるだけじゃない!」
「まあ全くもってそうだが……」
「全肯定しないでよ!?」
「子供相手でも嘘をつくのは好きじゃないからさ……。パパはね、ゆみちゃんに、ゆみちゃんを取り巻く世界と正面から向き合って欲しいんだ。具体的に言うと上手く行っているカップルに横合いから飛びかかるのはおやめって話なんだけど、ゆみちゃんは賢いから分かるね?」
「ゆみ、子供だからわかんない。これを使ってなんとか後腐れ無くお兄ちゃんをゲットする方法考えてる最中だからちょっと脳の容量不足しているの」
それと私はもう十一歳だから分かる。
世の中には分かる訳にはいかない問題がある。
「そうか。子供だし仕方ないな。お兄ちゃんを困らせちゃ駄目だよ」
「そうだよパパ。ゆみ十一歳だもん。手のかかる年頃だよ?」
「十一歳なら仕方ないな。恋に恋するお年頃だもんな?」
親子の心温まる微笑みを交わした後、私はお父さんに背を向ける。
「ま、それはさておき。十一歳だからちゃんと九時までには寝るよ。おやすみなさい!」
「ああ、おやすみ。ぐっすり眠って大きくなれよ」
「じゃあ大きくなってモデルさんみたいになっちゃう。その頃にはお兄ちゃんもイチコロね!」
「そうだな。その頃にはお兄ちゃんも……うん、頑張れば良いんじゃないかな」
大事な小瓶を握りしめ、お父さんの書斎を出て自分のお部屋に向かう。明日はこれで一発逆転だ……待っててね、お兄ちゃん!
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