二階堂ゆみの初恋
海野しぃる
第1話 二階堂ゆみの初恋
氷の融けた麦茶が片付けられずにテーブルの上に残っている。
私のために新しく出された麦茶がカラリと小気味の良い音を鳴らす。夏のじっとりとした空気が、ソファーに座った私の首元に巻き付く。
「ゆみちゃん、急にどうしたんだ?」
お兄ちゃんが優しい表情で微笑んでいる。お兄ちゃんは私が何をしてもまず事情を聞いてくれる。気が済むまで話を聞いてくれる。冗談なんて一切通じなさそうな顔をしてるのに、私がどんなにへたっぴなお話をしても、最初から最後まで漏れなく真剣に話を聞いてくれる。
「家出してきたの」
「そうかそうか。今度はどうしたんだ?」
「パパがお仕事してばっかりだし、学校もお休みだし、退屈だったから」
「そうか。確かに退屈は嫌だな……俺も困ってるよ」
お兄ちゃんは氷の融けた麦茶を飲む。きっとあの女と飲んでいた麦茶だ。部屋の向こう側からまだシャワーの音が聞こえる。あの女がここに居る。知っている。私は知っていてここに来たんだもの。
「お兄ちゃん、ずっとお姉ちゃんと一緒に居たんでしょ」
冗談一つ言わなさそうな真面目そうな顔が、穏やかな笑みで崩れる。
「ふふっ……まあ、大学が休みだしな……。なんかこう、恋人とおおっぴらに怠惰な生活を送ることができるというのはとても楽しいんだよゆみちゃん」
お兄ちゃんが幸せそうで結構。ほっぺた引っ叩いてやりたくなる良い表情。困っているとはなんだったのか。そもそも私に一言も言わずにいつの間に彼女なんて作っていたのか。
遠くからシャワーの音はまだ聞こえる。意識したくない。
「ゆみはつまらないよ。勉強も、クラスの人間関係も、なにもかもつまんない」
「だったら何度でも遊びに来れば良いさ。けどマスクはつけて、手洗いうがいもちゃんとしてね。ゆみちゃんや叔父さんが病気になっちゃうかもしれないだろう?」
「あのねお兄ちゃん。つまらないのは別に退屈だからじゃないの。退屈なせいで余計なことを考えちゃうからなの」
「そうか、余計なこと」
「お兄ちゃんのことだよ。お兄ちゃん、大学が閉鎖されている間は何してるの?」
「引きこもってるな……親の遺産と奨学金とゆみちゃんのお父さんからの仕送りで……バイトが無くなっちゃったからね……」
「引きこもっている間は何してるの?」
「そうだな……ガチャとか……引いてると思う。あと対人戦とか……最近は室内でできる体操とかもある……良いぞ。筋肉とかに効いて……とても良い」
お兄ちゃんはとても真面目そうな顔でとてものんびりと話をする。
「お姉ちゃんとイチャイチャしてるくせに」
「よし、もう少し小さな声で話そうか」
今度は小声かつ早口に一息で言い終えた。
「そういうこと誰から教わったのかな」
「お父さんが言ってた」
「叔父さんか……」
「それで腹が立ったから」
「そうだねぇ、怒っちゃうよねぇ」
「家出してきた」
「でもここ、君の怒りの爆心地だよゆみちゃん。爆風消火でもするの? 吹き飛ぶのはお兄ちゃんの社会的地位かな?」
さり気なく爆心地とか言っているので、お兄ちゃんも分かっているのだ。私の気持ちを分かっている。なのに、何時までも向き合ってくれない。悪い大人だ。こんな人、好きになってしまった私の負けって分かっているのに、なのに諦められない。
「しないよ。お兄ちゃんの家が無くなったら私の家出先が無くなっちゃうし、お兄ちゃんだって悲しいでしょ。ゆみ、お兄ちゃんが悲しむようなことしたくないな。だってお兄ちゃんのこと、大好きだから……」
「そうだね……俺もゆみちゃんが大好きだ。叔父さんには連絡しておくから心配しないでね。帰りたくなったら帰れば良いから」
好 き の 意 味 が 違 う !!
確かに私は子供で、大学生のお兄ちゃんからしたらまるで異性とは思えないのかも知れない。それにお兄ちゃんにはずっと大切な人が居る。そんな事はわかっている。ソファーから立ち上がる。お兄ちゃんの傍に駆け寄る。今日も私はそんなお兄ちゃんに呪いをかけるように、彼の耳元でひそかに囁く。
「だからゆみ、二番目でも良いからね……」
会心の出来栄えだ。今日は荒ぶる怒りを抑えてかなり色っぽく、そして密やかに伝えられたと思う。この年齢にしてはそこそこ発育途上の身体を押し付けられて、お兄ちゃんも動揺が隠せない。やっぱりお兄ちゃんってば人間のクズね……。十一歳に興奮しているんだもん。でもちょうど良かったわ。これでお兄ちゃんの心を少しずつぐずぐずに……。
「――っ!」
急にお兄ちゃんが立ち上がる。私を引き剥がして元のソファーに座らせると、自分も澄ました顔で対面のソファーに座る。物音一つ立てなかった。いきなりどうしたのだろう。
「お兄ちゃん? なんで? 怒ったの? ゆみのこと……」
疑問はすぐに解決した。部屋の外から足音が近づいてくる。扉が開く。綺麗なお姉さんが立っている。お兄ちゃんは何処にでも居る普通の大学生だし、お姉さんも何処にでも居る普通の大学生だろうけれども、気に食わないことになんとなく絵になる。カップルって見ているだけで気に入らないけど、そういう嫌味が無い。付き合いが長いからかもしれないけど、私の目から見てもお似合いな気がする。
「こんにちは。ゆみちゃんも元気そうですね」
「あ、こんにちは……」
お姉さんはきっと、私が急に来たから慌てて身だしなみを整えたのだろう。お兄ちゃんとのめくるめく甘い時間を邪魔した私に対して何か思うところなど無いみたいに私を抱きしめる。
「よしよし、お父さんと喧嘩したんですって? 私もそういうことあったから、ゆみちゃんの気持ちは分かりますよ」
「んん……分かんないよ……」
普通の家に生まれた普通の人間に私の気持ちなんて分からない。お兄ちゃんだけだ。私と一緒にあの家で過ごしたお兄ちゃんにしか私の気持ちは分からない。
「そうですかね? そうかもしれません。でも良いんですよ」
なにがいいとか、どうしていいとか、そういうことを聞かずにお姉さんは私を抱きしめる。幼い頃のお母さんが蘇る。嫌いになりきれない。あまり正面から喧嘩を売っても得にならないのでお姉さんの背中をきゅっと掴み懐いているっぽいポーズを見せておこう。決して情にほだされたわけじゃないわ。
「俺ちょっと夕飯の支度してくる」
「折角ゆみちゃんが遊びに来てくれたんだから先輩が相手しなきゃダメじゃないですか。ゆみちゃんが寂しがっているのはお兄ちゃんである先輩のせいですよ」
「女の子同士で悩みを打ち明ける時間みたいなのがあったら良いかなと思ったんだ。ほら、ゆみちゃんもお前のこと大好きみたいだし。実質家族みたいなものだと思うんだよね、いや、仮に家族と言うにはまた少し距離があったとしても、それはそれで逆に話しやすいだろう?」
お兄ちゃんは真面目な顔のまま表情一つ変えずに言ってのける。心の底から逃げ出したい筈なのにそんな気配は一切匂わせない。お姉さんはクスクスと笑ってから私をお兄ちゃんに差し出す。
「先輩ったら分かっていませんね。ほら、ゆみちゃんは預けておきますからゆっくり向こうでお相手してあげてください。今日の食事当番は代わってあげましょう。私にいっぱい感謝してくださいね?」
「いつだってしてるさ。ありがとう。お前が居てくれて良かった」
なんだこの人は。なんなんだこの人たちは。
小学生の前でこういうの、本当に良くないと思う。
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