第4話 パイドパイパー


 志村しむらすみれ(31・女)は、今から十年前、よわい二十一にしてオーナー代理に着任するとほどなく、それまではまだ『paigueペイジュ』に併設のカフェはなく、ショーケースに並べた商品を店頭で客がテイクアウトするという販売形態を曲がりなりにも平和裡へいわりにおさめていた店を突如閉めることを宣言し、当時いた従業員全員にいきなりの休業を言い渡して、店の内外を騒然とさせた。

 それから約一ヶ月に及ぶ強制休業ののちに再び集まった顔ぶれの中には、年齢が近すぎることによる比較から生じる軋轢や嫌悪感、自分の子や孫にも等しい若輩のトップによる暴挙への不信と反感を捨てきれずに店を離れた者も少なくなかったようだ。

 辞職を希望した者のほとんどが女性だったとも聞いているが、この場合、わずか二十一歳という若さでの経験値と実績のなさへの不信感もさることながら、無駄に華やかな容色が彼らの心情にどのように作用したものかは不明だ(としておく)。なお、言い渡された休暇は、解雇ではなく有償のものであり、休暇を受け入れた全員には、ある『宿題』が課せられていた。

 その内容は「現状の経営やサービスで感じる問題点や希望する改善点、これからの方針について。表現や形式は問わない。思いつくまま、自分の思う”理想の職場”、”未来の『paigue』”を、各自自由に挙げよ」というものだった。

 集まった意見が実際にどの程度取り上げられたものか、またその成否の程はさておき、”その後の『paigue』”は、店舗の大幅な増改築から、リスクを恐れない人材登用、異業種間での提携など、実験的な計略を次々に実践し、今のかたちになるに至った。……いや、スタッフの意見を積極的に取り入れるさまざまな取り組みはいまだに継続中なので、店は新たな試みの新陳代謝を繰り返している。


 志村はもともと海外にいたところを(何をしていたのかは不明)、叔父であるオーナーに詐欺同然の手口で日本へ呼び寄せられ、その時に持ちかけられた”ある賭けごと”に負けた代償として、そのまま店で使役されることを余儀なくされた……というようなことをざっくりとだけ聞かされているが、その”賭けごと”について詳細を知る者はなく(少なくとも表向きは)、そのあたりのところは大変にナーバスな話題でもあるために、当人の前で蒸し返すようなことはくれぐれも慎むようにとの旨が、”『paigue』スタッフ基本の心得”として、粛々しゅくしゅくと申し伝えられている。

 はじめにそのエピソードを聞いた時に、俺は漠然と、似たようなモチーフで世界各国に受け継がれている、人間との知恵比べに敗れた悪魔の話を思い出した。


 そもそも自分で起業したわけでもない志村が、なぜそのような年齢でこの業界に足を踏み入れ、なおかつ今の立場に就いたのか。

 ここですべての元凶として登場するのが、やはり志村を引き入れた張本人であり、『paigue』先代社長であり創業者でもあるオーナー、荒木公太郎あらき こうたろうだったという。

 今から十年前と少し前のある日の午後、芋虫のように肉付きの良い手をぺちぺちと叩いて、「ハイみんな、ちょっと来て〜。注目注目〜」と全員の耳目をあつめたのちに突きつけられた、荒木公太郎による突如のリタイア宣言は、『2・12ハム太郎トンズラ事件』として、実際にオーナー本人を見たことのないスタッフの間でさえあまりにも有名だ。

 結果的には、先見の明から店の躍進に貢献した勇退と言えなくもない功労を称えられているとかいないとか、賛否両論さんぴりょうろんあわつ”『paigue』の立役者”であり、他にも彼に関する逸話いつわは多い。

 お世辞にも”立志伝中りっしでんちゅうの人”と言い切ることができないのは、経営者としての最後の決め台詞が「あのねぇボクさー、ちょっとハワイに住むことにしたから」だったというのだから、仕方がないといえば仕方がない。

 おそらくはオーナーとの交渉により引き出した資本をハスラー並にぶっ込んでの、大胆を超えて破壊的ともいえる経営戦略も、ただの思いつきとしか思えない現職の職場放棄により、オーナー業を押し付けられることとなった志村が当時それだけブチ切れていたせいだとも言われていて、すべての権限を委譲され、質実ともにトップでありながら『paigue』オーナーを名乗ることのない理由として、本人も酒の席で「この上あんなもんの名目まで引き継ぐなんて冗談じゃない」と吐き捨てている。

 そして、”オーナー不在”の『paigue』には、今もなお、ちょっとした霊感の持ち主なら目を凝らせば物陰にアロハシャツを着たおっさんの残像を目視ることができるんではないかという程度に、オーナーがれ流し、志村がついに拭い去ることが出来なかった、ゆるき良き時代の気風きふうが、お店のそこここに漂っている。

 なお荒木オーナーは妻とともに健在。ハワイで悠々自適の生活を送っているようで、このSNS全盛のこの時代において、時折店の住所付でやけにまったりとした南国風の絵葉書が送られてくる。届いた葉書が破り捨てられる様子もなく、店の壁やカウンターに貼ってあるのは、単に絵葉書の趣向がこの店の景観を損ねないものであるせいか、はたまた”オーナー代理”が、現物不在のブランクにもかかわらず、というよりも在職時から従業員はほぼそっくり入れ替わっているのにもかかわらず、今だに「オーナー」と親しい呼ばれかたをされていて、ちょっとしたゆるキャラもしくはある種の偶像アイドル的な、よくわからない支持を保持し続ける氏に対し、従業員の前で自分の大人気おとなげのなさを披露することを踏みとどまっているせいなのか、真相は謎だ。


 それはそれとして。


 俺、三島一臣みしま かずおみは、志村のことが嫌いだ。どれくらい嫌かというと、イクラのぎっしり入ったどんぶりにフリスクをトッピングして、さらにその宙空高い位置から歯が浮くほどに甘いチャイをぶっかけたものを「店のサービス」と称して小粋こいきに振舞われるくらいに気に召さない。

 あの女とは、そもそも第一印象からして最悪だった。もともと強い執着とは無縁の自分が、今だにあの女との初対面を思い出すだけで、浜辺に打ち上げられてのたうち回るよりほかにすべのないクジラくらいの、強烈なストレスを感じてしまう。


 今から三年と少し前、とある人からの勧誘を受け、その二年後である一年前に、俺は現在勤める『paigue』の門戸を叩いた。”とある人”とはつまり、……まあ、”とある人”だ。

 で、顔見せとして挨拶に行った就職初日、執務室というのか、書斎のような仕様のオーナー室に通された俺は戸惑っていた。

 まさか若い女が、オーナー室の、それもこの店の一番偉い人が座るであろう席に臆面もなく堂々と腰掛けいて、歓迎というにはあまりにほど遠い醒め切った睥睨へいげいに迎え撃たれるとは夢にも思ってもみなかったからだ。それも、取りつく島もないような、”美女”に。

 実態を知らなかったとはいえ、あの時第一に”美女”という印象を覚えてしまった自身の審美眼のせいで、今もなおえらい屈辱を引きずり続けている。心の目を開いた今の自分には、美女の皮を一枚被っただけの無礼で粗暴な野人にしか思えないのに。

 ある種の美人というのは、特段何もしなくとも、居るだけで十分な威圧を放つ。そしておのれの容色の美しさに自覚のある人間は、他者を精神的に制圧することに退屈を覚えるほど慣れ切っている。

 自分の一挙手一投足により人が右往左往する様などは、当然すぎて、道端の蟻の行軍を見るほどの意味も持たないのかも知れない。だから、これはたぶんそういうことなんだろうと、数瞬のうちに理解した。

 ともあれ、当時はあって然るべきとお一遍いっぺん儀礼文句ぎれいもんくすらないことにかなりな違和感はあったものの、立場的には雇われるこちらの方が下手したてに出るのがスジなのかとも思い、履歴書にも書いてある”通り一遍”の経歴を軽くなぞり、ふたたび会話が途切れ不自然な沈黙が落ちる前に、自分が勧誘を受ける決め手となった提示条件である、”製菓専門学校への奨学金半額返金制度”のことにも触れてみた。

 後腐れを最大限回避するため、自分が店の制度の恩恵を受けたことに対し、せめてかたちだけでも礼を言っておくべきだろうと、その時は思ったのだ。しかし話の途中、わずかに眉をしかめたあとに志村が放った一声は、

 「はっ。ねえよ、そんな制度」のひと言だった。

 こちらが並べた表面上の儀礼すら薙ぎ払い、あからさまに小馬鹿にするような態度には、さすがに俺もギョッとした。

 思わず「いや、でも授業料はもうとっくに………」言ったものの、あとの言葉が続かなかった。今さらその制度が存在しないと言われたところで、すでに受け取り、手続きも済んでいるものはどうすればいいというのか。

 面接の際の口先三寸で学校側から獲得した特待減額分を考慮したところで、かかった授業料は安いものじゃない。そもそも、それじゃあ詐欺じゃないのか。

 生来無口ではないはずの自分が咄嗟に言葉を失うほどに、混乱をしていた。そこへ、「フン」と短いため息が聞こえた。いや、鼻で笑ったという表現の方が近いか。

「……だいたいわかった。おおかたあのジジイの口車にでも乗せられたんだろうが。心配しなくても、貰ったものを返す必要はない。こっちとしても、残り少ない余生の道楽にまで口を出すつもりは毛頭ない。というよりも、あいつの言うことは、否定するより右から左に聞き流しておいた方が、苦痛と労力が最小限で済むってだけの話だけどな。ただ、ここへ来た経緯についても、店の人間……特に若い連中には、あまりおおっぴらにしないでくれないか。やっかんだあいつらに駄々をこねられでもしたら、ちょっと面倒だ」

 尊大な美人は、目鼻をくしゃっとしかめるような顔をした。これはまさか、ウインクをした………のか?

 女は「だいたいわかった」などと口にしたが、まるで状況の飲み込めていないこちらは、ただただ呆気に取られるだけだった。

「まあ、あとの細かいことはここへ案内してくれたノブナガさんにでも聞いてくれ。とりあえず、半年間はバイト扱いの仮採用って話は聞いてるよな」

 「はい」と答える。それ以外に、言うべき言葉が見つからない。

 親しみどころか、配慮も何もあったもんじゃない。こちらが知る常識が期待できない相手に、ヘタなことを口にする気は失せていた。”自分にまるで関心を払われていない”ということだけが明確にわかるだけの、無味乾燥なやりとりだ。

 これが通過儀礼つうかぎれいや、くだらない力関係を顕示けんじする目的のパフォーマンスなのだとしたら、かなり悪趣味だ。だとすれば、気を悪くする顔さえしたくない。間違ってもこういう人間にだけは、足元をすくわれたくない。そう思った。

 頭をひとつ下げ、入ってきたドアの方へ振り返った時、「ああ、そうだ」という声が背後からして、思わず鼻白んだ。まだ、なにか続きがあったらしい。

「辞めたくなったら、なるべく早いうちに言ってくれ。すぐに他を当たる」


 接見は、時間にして五分あったかなかったか、だいたいその程度のことだったと思う。

 多少なりと、自分が”面喰い”であるということに自覚は持っている。だけどたったそれだけの短い間に、そこそこ以上の容姿の持ち主に対し、これだけの悪印象を抱いたのは、記録だ。特に最後のひと言は、決定打だった。頭のなかにある信管のピンの抜ける音が、はっきりと聞こえたかのようだった。

 志村に会って良かったことを、無理にでもこじつけるのだとすれば、「自分は単に顔の美醜ばかりにとらわれているわけではない」のだという、新しい発見と証明があったことくらいか。

 店で働き出すようになって幸いだったのは、『paigue』が志村との面接で警戒していたような、無意味に人を組み敷くようなガチガチの独裁制とは違っていたこと。店員たちの間には、客前でもそれ以外でも、作りものめいた親しさや円満を演じ合うような素振りはまったくなかった。

 何よりの僥倖ぎょうこうは、”志村に顔をあわせる機会がほとんどない”ということに尽きた。世の洋菓子店には、オーナー兼パティシエという者も多く存在しているが、どうやら志村の主な仕事は直接菓子に触れるものではなく、ネットや電話を介したり、外で人と会っての折衝せっしょうごとが多いようだ。自分に関わる機会が少ない限りは、志村のことなどどうでも良かった。

 『paigue』では、一応の肩書きこそあるものの、それは単なる役割としての肩書きであり、こうあるべきという上下関係の図式があってのものではないらしいということも、しばらく働いているうちになんとなく理解わかった。そして、志村は無闇に偉そうな女だったが、偉そうなのは肩書きと態度だけで、店の人間に嫌われたり、煙たがられているわけではなさそうだということも、同時に察せられたので、以降は感情にまかせた迂闊うかつな発言は控えようということも、それとなく心に留めた。

 正しかろうが間違っていようが、共感を得られないスローガンを叫ぶことは、身を滅ぼすための燃料にしかならない。

 

 それと、信永さんが教えてくれた、『paigue』スタッフの心得のなかの文言もんごんを、俺は入社をする以前から知っていた。

 一度だけ、志村の叔父である”オーナーを名乗るモノ”に会ったことがある。それは、志村が最初に口にした言葉のイメージにもとることのない、ふざけたおっさんだった。外見上に血の繋がりはカケラも感じられなかったものの、「存在がふざけている」という点ではそこそこ共通していた。そして、会ったのはただの偶然だった。

「興味があったら、ここに連絡してみて」と言って渡された名刺と”会社概要”だというメモには、志村が従業員をふるいにかけた時に使った『宿題』と同じ文句が、イタズラの走り書きのように書かれてあった。もちろん、走り書きの内容が志村の考えたものだなんてことは知るわけもなかったし、お菓子はもっぱら食べる方が専門で、そもそも洋菓子店パティスリーなんてものに足を踏み入れたこともなかった自分が裏手でそれを作る側に回るだなんてことは、もっと考えたことがなかった。

 その時の俺は、不覚にもそのメモに書かれていた文言を「面白い」と思ってしまった。


 以上が、俺が志村に会う以前と以後に犯してしまった、これまで誰にも話したことのない、二つの痛恨の出来事に関する話だ。

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