凶矢風塵を裂く

武州人也

第1話 李広利と趙充国、そして少年騎兵

 漢の武帝の時代である。

 隴西ろうせい趙充国ちょうじゅうこく仮司馬かしばとして弐師じし将軍李広利りこうりに付き従い、遠く北方の胡地を行軍していた。その折、彼は李広利と共に匈奴の大軍に包囲されてしまった。

 李広利軍の周囲には胡馬に鞭打つ剽悍ひょうかん控弦こうげんの士が展開し、さながら獲物を狙う野獣のように漢軍の喉元に食らいつかんとしている。数日に渡って包囲された李広利軍は多くの死者を出し、また食糧も不足し兵が飢え始めていた。


 全軍の将帥たる李広利は、歯に衣着せぬ物言いをすれば平々凡々な将であった。妹の李夫人に対して武帝は並々ならぬ寵愛を注ぎ、夫人の一族もその恩沢に浴する所となった。李広利はそれによって弐師将軍という将軍位を帝より賜り、遠く西域の大宛だいえんという国を攻めて名馬「汗血馬」を持ち帰るよう命じられたのである。しかし、将軍となる前は定職に就かない無頼の徒であった彼がまともに軍を指揮できようはずもない。第一回目の大宛遠征は食糧の不足により死者や脱走兵を多く出し、城を落とすどころではなくなった漢軍は敦煌まで撤退を余儀なくされた。

 流石の武帝もこれには嚇怒かくどし、「玉門関ぎょくもんかん(現在の甘粛省敦煌市に存在する、西域と漢の地とを繋ぐ関所である)に入るようであれば斬る」と李広利を脅迫したため、恐れおののいた李広利は敦煌に滞在し、一年後再び遠征を命じられた。この第二回大宛遠征軍の規模は凄まじく、本隊六万に牛十万、馬三万頭という充実ぶりである。他に万を越えるロバやラクダも伴っていたというから相当である。これなら食糧の心配はない。そうして李広利の軍は大宛の国都である弐師城(李広利の弐師将軍という将軍号は大宛のこの城の名が元になっている)を包囲し猛攻を仕掛けた。とうとう大宛側も音を上げ、王を殺して新しい王を立て、和睦を申し入れてきた。李広利はこれ幸いとばかりに講和に応じ、汗血馬三千頭を持ち帰って長安に凱旋したのであった。因みに史記の大宛列伝の記述によればこの戦闘での死者数は多くなかったようであるが、将校や幕僚が貪欲で兵を慈しまず彼らを虐待したため、戦闘以外での死者が多かったようである、死者と脱走兵によって長安に戻る頃の兵士は当初の六分の一、つまり一万を下回っていたという。


 さて、この時の李広利も、匈奴による包囲網の中、ただ手をこまぬいているのみであった。将の怯懦きょうだは兵にも伝染し、兵の士気も大いに下がっていた。

 これを見かねた趙充国は、勇んで李広利に進言した。

「今から私が壮士を率いて攻撃を仕掛けます。将軍はその後に続いて囲みを脱してくださいませ」

 青い顔をしていた李広利は、この男の真剣な眼差しを見て、首を縦に振った。この趙充国という男、騎射に巧みで、兵法を好み、夷狄の事情にも通暁していた。往時に匈奴を大いに打ち破った大将軍衛青えいせい驃騎ひょうき将軍霍去病かくきょへいにも劣らない威風を漂わせている。尤も李広利自身はこの二大将軍のことを知らず、趙充国に衛霍の面影を見たのは李広利の幕僚の内の数名であった。

 趙充国は選りすぐりの騎馬百余騎を召集すると、彼らの方へ面を向けた。

「前に見える胡騎は一人漏らさず射倒せ!」

 馬の太腹を脚で力強く締めながら、彼は吠えた。彼の率いている選りすぐりの騎馬は、この咆哮によって大いに奮い立った。騎兵たちは皆、李広利が如き男の手元に置かれたまま犬死にするよりは、この傑物趙充国の下に集って高名を立てようではないかという意気込みであった。

 草原を、百余の騎馬隊が疾駆する。馬のいななきと馬蹄による地鳴りが、黄塵吹きすさぶ大地に響き渡った。


 さて、この趙充国の決死隊の中に、王冄おうぜんという名の少年がいた。年の頃十六ながら、騎射に長け、騎馬の士として取り立てられた男子である。射術の腕もさることながら、彼は類稀な美貌を持っていた。切れ長の目と長い睫毛、大柄ではないもののよく引き締まった肉体は、まさに珠玉の如しである。彼自身は北地である雁門がんもんの出身であるが、彼の母は会稽かいけいの出身らしく、加えてその先祖はえつ族の人であるという。その浅黒い褐色の肌は、南国の血を持っていることを示していた。

 やがてこの部隊は、匈奴の一隊と接敵した。胡騎は精強であるが、趙充国率いる部隊も彼らに比して勝るとも劣らない勇士たちである。両軍は馬上で弓を引き、矢弾の雨を降らせ合う。思わぬ奇襲に面食らった胡騎の側が、やや押され気味であった。

 王冄もまた矢を引き絞り、胡騎目掛けて矢を放った。彼の弓射は力強く、加えてその狙いも正確であり、矢は立ちどころに敵兵の脳天に直撃し落馬させた。敵に死を与えるその所作は、見る者にある種の美しささえ感じさせるものであった。

 敵兵を打ち倒した王冄は、素早く左右に視線を振った。すると、彼の目に、いささか奇妙なものが目に入った。

「奴は――」

 その敵兵は、王冄よりも更に小柄な体躯をしていた。それ自体は別段おかしなことではない。匈奴では少年兵など珍しくもなんともないのだから。年若い頃から彼らは弓を引き、馬を乗り回して暮らしているのだから当然である。

 奇妙なものは、その顔にあった。色の白い顔の上半分には、おどろおどろしい黒い仮面が装着されていたのである。そして、王冄はその仮面に見覚えがあった。


 この年の昨年、雁門郡に匈奴の来寇があった。雁門はかつて先秦の時代、趙の最後の名将と言われる李牧りぼくが長官として赴任し匈奴を防いでいた土地であり、その当時から今に至るまで北方騎馬民の襲来と無縁ではいられない場所であった。

 この時雁門の駐屯軍に編入されたばかりの王冄はこれを迎え撃ったが、折しも彼の属する部隊に胡騎が殺到し、絶体絶命の危機に陥ってしまった。味方の兵は一人、また一人と凶矢に貫かれ倒れ伏していく。

「流石に敵が多いな……抜けられそうか」

「難しいけど……王冄と一緒なら」

 この時王冄の傍らにいたのは、李解りかいという少年ただ一人であった。王冄と違って色の白いこの少年は同い年ということもあって、王冄と固く交誼を結び親友となっていたのである。

「王冄、前にいったよね。死す時は同じ日を願わん、って」

「ああ、だがそれは今じゃない」

 そして、二人は再び馬を走らせた。馬上で跳ねながら、侵略者に向けてその矢を放つ。味方の歩兵も後方から繰り出し、敵に向かって弩による支援射撃を加えた。これによって胡騎たちは俄かに浮足立ち始めた。

「よし、行けるぞ李解!」

「そうだね、このまま突っ込む!」

 王冄と李解、二人の少年騎兵は希望の光を掴み始めていた。胡騎が矢を返すよりも早く、二人は敵の頭に、胸に、矢を打ち込む。この様子であれば、もう少しで敵も諦めて逃げ帰っていくはずだ。そう思っていた、矢先のことであった。

「ほう、中々やるようだ」

 甲高い、しかし威圧感のある声であった。その声と共に目の前に現れたのは、黒い仮面を身に着けた少年兵であった。

「退け! でなければお前の命はないぞ!」

 馬上から泡を飛ばす王冄。しかし敵は馬首を返すことなく、静かに弓を番えた。攻撃の意志ありだ。

 周囲に、他の敵影はなかった。今、この場所には王冄と李解、そして敵の仮面のみだ。二対一、これなら勝てる。そう踏んで、王冄と李解はこの少年兵に戦いを挑んだ。

 だが、この敵は今までの胡騎とは段違いに手強かった。まるで薄絹のようにひらりひらりと掴みどころなく動き回ってはこちらの矢を躱し、そのお返しとばかりに放たれる矢の狙いは至極正確で、王冄李解共に一瞬たりとも気が抜けなかった。

 そして、矢筒の矢も少なくなってきた二人は、焦りを抑えられなくなってきた。

「まずい……矢は残り一本か……」

 王冄は歯を強く噛み締めながら、最後の矢を番えた。李解の方をちらと見てみると、彼もまた同じく矢筒にはただ一本を残すのみである。

 この時、王冄の呼吸は大いに乱れていた。心身の疲労は最高潮に達し、最早敵に意識を集中させることも困難である。それでも少し気を抜けば、すぐさまそれが死に繋がる。一瞬たりとも敵から目を離すことは許されない。

 先に矢を放ったのは、王冄ではなく李解であった。だが、焦りが祟ったか、その矢は敵に当たることなく地面に刺さった。

 敵兵の狙いは、まだ矢の残っている王冄に向けられていた。そうはさせじと、王冄は敵に先んじて矢を放とうとした。

 その時である。

「あっ……」

 突然、王冄に向かって突風が吹き寄せた。この風が巻き上げた砂が、彼の目に入ったのである。

 その時、できた隙を、敵は見逃さなかった。

「王冄!」

 その時、李解が馬を走らせた。敵兵の手からは、すでに矢が放たれていた。李解は王冄と敵兵の間に割って入るような形となり、矢は王冄ではなく李解の胸に突き刺さった。

 赤い血がぱっと舞い、地面にまぶされる。そのまま李解は馬から転げ落ちてしまった。

「……貴様よくも李解を」

 王冄はその秀麗な顔を、まるで樊噲はんかいのように真っ赤に染め上げた。その怒り様は怒髪天を衝かんばかりである。

 だが、怒れる王冄とは裏腹に、敵兵は馬首を返し退却を始めた。もう戦う気はないようである。

「待て!」

 王冄は最後の矢をその背を目掛けて放とうとしたが、もう遅かった。狙いのつけようもない程に、敵の背は遠ざかってしまっていた。

 後に残されたのは地面に落ちた矢と、斃仆へいふした兵の死体だけであった。

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