恩師の恥

 

 何年経っても記憶から消えない言葉がある。


『僕の何が悪かったの?』


 これこそ水谷零士が美城サイを精神病質者サイコパスと判断するに至った言葉だ。

 彼には良心の呵責が無い。

 何をしても罪を感じないし、他人の痛みを想像する事も出来ない。仮に出来たとしても、他人が痛がっている事になんの興味も持たない。

 そしてそれは生まれつきのものだった。




「美城、お前、何してるんだ」

 美城サイはいつも一人でいた。そしていつも問題を起こす。


「おたまじゃくしの中身が気になったから」

 そう言いながら職員室前の池のほとりで、サイはカッターで小さなおたまじゃくしの腹を裂いている事があった。


 この時は「そう言えばお父さんが外科医だったな」と思い出し、その真似事だろうと思う程度だった。だから顔を顰めながら軽く注意して終わった。


 しかしサイの狂気はどんどん露呈していく。

 特に、小学一年時の、大田健と問題を起こした日からは特に目立つ行為が続いた。


「金魚鉢に絵の具を入れたのは誰だ!」


 ある朝クラスで飼っている金魚が、真っ青な液体の上に浮かんで死んでいた。

 朝の会で激怒する水谷零士を見て、サイは真っ直ぐ手を挙げた。


「僕が入れた」


 零士が怒っている事がわからないサイは、なぜそんな事を聞くのだろうかと、平然と答えた。

 クラスがザワザワと騒ぎ始め、零士は質問を重ねた。


「なぜそんな事をした」


「絵の具が毒になるのか気になったから」


 誰もが言葉を失った。


 その日の放課後、零士はサイに様々な話をした。

 生命の尊さ、動物愛護の精神、公共物の損壊という罪、金魚にも心があって苦しみを感じるんだという子供騙しの説明も重ねた。

 サイは静かに話を聞いていたし、返事もしていたから理解してくれただろうと、その時の零士は思った。


 しかし翌日の昼。

 一人の女子生徒が給食中に体調不良を訴えた。

 特に紙パックの牛乳が酷く不味く感じる。そう言ってトイレに行ってから保健室に向かった。

 担任の零士は彼女が残した給食を片付けようと、牛乳の紙パックを開いた時に驚愕した。


「……おい、あの子の牛乳に、絵の具を入れたのは、誰だ」


 白いはずの牛乳は、黄色く染まっていた。

 静まり返る教室で、出て行った女子生徒の隣の席にいる生徒が手を挙げた。


「僕が入れた」


 零士は睨んだ。


「金魚には絵の具が毒になる事を知ったから、人間にはどうなのかと気になったから」


 美城サイは前日の零士の話を聞いて、何一つ反省していなかった。



 それ以降、美城サイは職員会議の専らの議題となった。

 彼を専用の施設に入れるべきかどうか。

 いや、しかし学力は非常に高い。心の病か。

 それならばこの学校にもカウンセラーはいるし、抱えきれないという事はないだろう。

 そもそも彼は好奇心で罪を犯しているんだ。これは勉強熱心と同義。将来大物になるぞ。


 何度討論が行われても、最後には「水谷先生、期待してますよ」と殆どの職員が若い零士に丸投げする。

 校長先生だけは、零士と一緒に被害生徒の親に頭を下げてくれているのだが。


 とにかく零士は一人でサイをなんとかしようとした。

 その為に精神病質者について調べ、治療法が無いと知っても様々な仮説を立てて試した。


 だが結果は中々出ない。


「美城くん、頭は良いのに芸術鑑賞の才能は最低ね」

「美城くん、協調性がないわね。運動会の練習に参加しないし」

「美城くんって時間守れないのよねぇ」

「美城くん、道徳の授業中に観たビデオの感想、酷かったわよ。自分の子供が障害者だったら、将来性がないから捨てるんだって」


 サイの授業を見た教師達は、いつもサイの異常性を語っていく。

 聞けば聞くほど、どれも精神病質者に当てはまる特徴だった。


 零士は毎日頭を抱え、それでも直向きにサイと向き合った。


 そんな日々の中、いつしか変化が訪れた。

 一年生の三学期、サイがまた問題を起こしたのだが、どうにも上級生に絡まれたらしく、零士が詳細を聞いた時のことだ。


「ざいあくかん? もちろん感じてます。うん、僕だって本当は逃げたかった。でもね、相手は身体のおおきな五年生。しかも二人で僕を殴ろうとしてます。逃げても僕は捕まるし、なにより怖くて動けなかった。ほんとに怖かった。だからとっさに手が出たんです。別に相手の目をねらったわけじゃないです。たまたま、目に僕の指が当たったんです。いや、まあ、当たればいいと思ったけど、たまたまです。それで一人が痛がってる間に、僕はもう一人の股間を握りつぶしました。だって、弱点を攻撃しないと、僕がやられちゃうじゃんか。卑怯なのはあいつらですよ。小さい僕を二人がかりで攻撃してきやがって。だから僕は悪くない……あ、いや、ざいあくかんは感じてるんですよ、ほんとに」


 彼は言い逃れを始めた。


 本当に怖かったのか、反省しているのか、とか疑わしい所は多かった。

 それでも、サイは自分がが悪い事をしたと自覚している、その成長が零士にとって嬉しく、この時以降更に熱心にサイの教育を続けた。



 それから、サイは進級して二年生になった。

 零士はサイの学級担任ではなくなってしまったが、サイと廊下ですれ違う度に声を掛けた。

 友達がいないサイだ、自分が話しかけなければ会話の仕方もわからないだろう。

 零士はそう思い、どんな些細なことでもサイと話した。



 サイが三年生に進級した時、零士は再び彼の担任となった。

 去年は目立った問題を起こさなかったから今年も多分大丈夫だ。

 この時の零士はそう考えていたが、この年は犯人不明の問題や、うっかり見落としてしまうような問題が多かった。

 例えば、上履きの中に入れられた画鋲、カレーライスに浮かぶおたまじゃくし、突然水が降ってくるトイレの個室。

 特にタチが悪かったのは、賞味期限が一か月も過ぎた給食の牛乳。気付かずに飲んでしまった生徒は腹を壊して早退した。

 後になって考えてみれば、これらの犯人は全てサイだったのではないかと零士は考えている。

 サイは何が罪で、何が罪じゃないか、この時には殆ど理解していた。だから嘘や知らんぷりで自分が犯人だとバレないようにしていたのだ。

 しかしそう推理してみても、証拠が無いし、根拠の無い疑いを生徒にかけるなんて、教師失格だと零士は思っていた。だからほとんどの事件は迷宮入りとなった。



 四年生、五年生の頃のサイはもう他の生徒と変わらない素行だった。

 勿論この二年間も、零士はサイと出来るだけ話すようにした。特に、悪い事はバレなくてもやっちゃいけないと、よく釘を刺しておいた。

 だだ一つ気がかりだったのは、クラスに馴染めていない事だった。

 この頃のサイはわけのわからない実験をしなかった事件を起こさなかったが、それだけでなく、自分が無駄だと思う事を何もしなくなっていた。

 そしてサイが無駄だと思う事にクラス行事があった。

 合唱コンクール、運動会、マラソン大会の練習など。この小学校では自由練習だった為、サイは自由を言い訳にして一度も参加しなかったのだ。

 当然クラスのモチベーションは下がり、それ以外の場面でもサイは除け者にされた。そしてサイは除け者にされても全く気にせず、いつも通りの澄ました顔で生活しているから、クラスの雰囲気は一層険悪になった。

 そうすると上の学年に兄弟がいるクラスメイトは、兄や姉に頼んでサイをいじめるようお願いする。

 そうして何度か起きた喧嘩が、この二年間で起きた数少ない問題だった。

 因みに、サイが怪我をした事は無い。

 サイはいつも武器を使い、誰かに血を流させる。敵の仲間がそれにギョッとしている内に全員を動けなくなるまで、或いは二度と襲われない様に、念入りに痛めつけるのだ。

 だからサイは問題児の中では珍しく、あまり暴行事件が多い方ではなかった。尤も、少ないながらも重い事件であったのは嘆くべき事なのだが。



 そしてサイが六年生になった時、零士は再び、そして最後にサイの担任となった。


「サイ、お父さんは今年も来なかったな……」


 これは夏季の三者面談時、六年間一度も来なかった父親を零士は嘆いていた。因みにこの年になって、零士はサイを名前で呼ぶほど親しく感じていた。


「ええ、父は多忙ですから仕方ありません」


 小学六年生とは思えないほどしっかりとした言葉遣いは、サイの知性と零士の教育の賜物だ。


「有名な外科医だもんな。検索するとすぐ出てくるぞ。でも、だからと言って子供の教育を学校に丸投げするのはどうなんだろうなぁ」


 零士はサイと二人きりなら本音で語る。

 多少センシティブな内容だったり、誰かを非難している様に受け取れる言葉も使ったりする。

 相手が感情の希薄なサイだからこそ、敢えて自分の感情を晒す。世間一般の思考の癖を学ばせる為でもある。


「でも、父は僕に対して責任を持っています。僕が父を選んだその時から、母が出て行ったあの日から、父は僕を独り立ちさせる為の援助をしてくれています。僕に文句を言う権利はありません」


「子供らしく無いなぁ。他の子だったら寂しがったりワガママを言うもんなんだぞ」


 サイがなるほど、と頷くのを見て、零士はふと気になった。


「両親が離婚する時、サイはなんでお父さんの子供になるって言ったんだ?」


 十一歳の少年に聞くべきでは無い質問をするが、彼は平然と答えた。


「それは幼い頃の僕でもわかる簡単な事です。父の方が経済力があり、不自由無く暮らせるからですよ。お金があれば大体の不幸は回避できます」


「……」


 零士は硬直したが、数秒後ようやく頷いた。「そうか、そうだよな」


 サイコパスは先天的な性質だ。だからサイは幼少時から合理的な選択を重ねて来たし、他人の情というものが全くわからなかった。

 そしてそれは、父も同じなんだろうな、と零士は思っている。

 何せサイコパスが潜む職業の上位に、外科医がランクインしている。

 これは彼らの共感能力の無さが外科医に適しているからである。

 他人の身体にメスを入れる時、常人ならば自分の身体では無いのに痛みを感じてしまう。少なくとも不快感や、痛そうだなぁといった感情くらいは生まれる。

 しかしサイコパスにはそれが無い。

 平然と他人の身体を裂き、冷静に作業を進めていく。

 これを日常的に行っており、評判も高いサイの父は、サイコパスに違いない。

 そんな中、サイの母はきちんと情があって、サイコパスの夫と息子に耐えられず出て行ったのだろう。零士は不躾ながらそんな想像をしている。


「因みにお父さんは殆ど家に帰って来ないんだろ? ご飯とかどうしてるんだ?」


 サイは零士の表情を窺いながら答えた。


「お金は渡されるから、コンビニとか……いや、自分で作る事もあります。無駄遣いしないように」


 サイが人の表情を窺う時は、正しい答えを探している時だ。零士はそれを前年に気付いた。

 サイはさっきから父の肩を持っている。恐らく現在の生活に不満が無いから干渉されたくないのだろう。故に他人にギョッとされるような事を答えてはいけない。しかしサイにはどんな答えが一般的かわからない。だからこそ、相手の表情を見て一般的な答えを探るのだ。


「サイ、俺は別にお前の生活をどうこうしようと思ってるわけじゃないから、俺と話してる時は正直に話してくれていいんだぞ。会話の練習とでも思ってくれ」


 そして零士は全部わかった上でサイの害になるような事をしないと告げる。

 二人はそうやって心の宿った人間になる為のレッスンを重ねて来たのだ。


 そうして年月を重ね、サイが卒業する頃には、彼は言葉で零士の感情を揺さぶる事が出来る程に成長していた。


「今までお世話になりました。先生には沢山の事を学ばせていただきました。貴方は僕の恩師です」


 それは問題児であるサイと、たった一人で愚直に向き合って来た零士にだからこそ響く言葉だった。

 何より、サイの笑顔は眩しかった。


 だから零士とサイの特別講習は実を結んだと言える。


 なのに、サイが卒業してから数日が経ち、静かな日々を過ごし始めた零士に突然不安が襲いかかって来た。

 俺は最後、サイの言葉に感動した。

 しかしそれは、自分の努力が報われたくて自ら生み出した錯覚のような感動じゃなかったのか。

 サイの言葉には本当に感情がこもってたのか。

 サイの笑顔は自然だったろうか。

 生まれ持ったサイコパスの特徴は隠すことは出来ても失くす事は出来ない。

 サイは演じていただけじゃないのか。

 もしそうだとしたら、サイはこれからも誰にもバレない罪を犯し続けるかもしれない。

 俺は重大なミスを犯したのかもしれない。

 俺が何も教えなければ、サイは然るべき施設に入る事になり、そこで専門家の指導を受け、社会に適合しただろう。

 しかし俺は教えてしまった。人の感情パターンや思考傾向、善とされる物事。サイがそれらを利用し、社会不適合のまま世間を渡り歩いたら、とんでもない波紋が広がる。

 疑心暗鬼。

 一体どっちだ。彼は本当に心を身に宿したのか、それとも知識だけで心を捏造しているのか。

 サイの姿に重なる鬼の姿は、俺の疑心が生み出した幻か、それとも現か。

 恋人の叶子に相談してみても、彼女は変わったサイしか知らないからあてにならない。

 見抜けるのは俺だけだ。

 あいつが鬼なのか、人なのか――






 時は現在、水谷零士は避難所の南小学校へ、クラリスと共に帰還した。


 およそ半年ぶりに再会したのは、零士を長い間悩ませていた美城サイ。

 零士は直後、驚愕する事になる。


 あの少年が、微笑んだ。

 卒業式の時とは違う、嘘偽り無く、まるで本心で喜びを表現する様な、優しい笑顔だった。

 そしてそれは、普段無口なクラリスが釣られて笑みをこぼす程に綺麗だった。


 零士は大事な教え子を疑った自分を、密かに恥じた。

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