ウサギだって恋をする

河野章

ウサギだって恋をする

 夢の中を漂っていた。朝を感じつつも、まだ微睡んでいたい……そんな感じの朝だった。カーテンの隙間から陽光がチラチラと覗いていて、まぶたに眩しい。

 角野陽平は腕の中にある身体を背後から抱きしめて、その首筋へ顔をうずめた。

「……ん。……へい」

 名前を呼ばれた気がするが無視をすると、先に目覚めたらしい腕の中の心地良い体温が逃げようともがく。春先だ。まだ朝は肌寒かった。

「陽平!」

 陽平の抱きしめる腕から片腕だけ抜け出したのか、手のひらが後ろにいる陽平へと回されてぱちぱちと頬の辺りを叩く。

 陽平は漸く目を開けた。

 寝起きの顔は少しぼんやりとしているが鼻筋の通った端正な顔、短めの黒髪。薄い唇は酷薄そうだと言われることもあったが、実際は人懐っこく朗らかな性格をしていた。

 目の前へ白い首筋があり、茶髪がそこへ軽く被っている。

 陽平はそこへと唇を押し当てて、腕の中の恋人を改めて抱きすくめる。

「ん─……おはよう、涼」

 腕の中の身体が一瞬固まるのが分かったが無視をする。

 押し当てるだけのキスを数度して、まただらりと身体の力を抜いて枕へと頭を預けた。

「もうちょっと、寝てもよくねぇ? 学校休みじゃんよ」

 涼と呼ばれた恋人は、まだ寝ぼけてだらしなくシーツにくるまる陽平の頬に短いキスを一度落としてベッドから立ち上がる。

 付き合い出したのは三ヶ月前。お互いに一人暮らしの大学生ということもあったせいで同棲生活は金銭的な理由もあり簡単に決まった。マイペースな陽平と、比較的生真面目な涼との相性は良かった。付き合いがまだ短いこともあってか──毎晩、体を幾度も交える程には。

「休みだからってもう九時過ぎだってば」

「まだ九時じゃん。昨日寝たの三時過ぎて──」

「うるさい!」

 照れ隠しに枕で陽平の顔を軽く塞いでからキッチンへと向かう。

 同じ大学の文学部。お互いに一目惚れという感じで遊んだり、話したり、そしていつの間にか付き合うことになっていた。

 求められれば応えてしまう。そしてもちろんその逆も然り。

 幸せ過ぎるほどの毎日だった。

「陽平、珈琲飲む?」

「……ん」

「もう少し寝たい?」

「……涼と朝のエッチしたい」

「……バカ……」

 こんな会話も日常茶飯事だった。

 照れながらも、涼は手際良く湯を沸かし珈琲をハンドドリップで丁寧に淹れる。インスタントで良いんじゃないかと言った陽平を一睨みで黙らせて、器具を持ち込んだのは涼だった。

 あくびをしながら、渋々と陽平もベッドから立ち上がる。カーテンを開けば良い天気だ。

「なあ──今日、デートしちゃう? 天気も良いし」

 なんだかんだ言いつつ、涼が珈琲を淹れる姿が陽平は好きだ。カウンターに肘をついてゆっくりと動く指先を眺める。

 昨夜はあの指が……と想像するのも楽しく、にんまりと笑ってしまう。

「なにか良からぬことを考えてるだろ。……デートも良いけど、買い出しは?」

 ニヤつく陽平を横目で見つつ、はい、と涼は淹れたての珈琲をマグカップで差し出した。

「サンキュ。……デートがしたい」

「わがままな」

「デートの帰りで良いじゃん、買い出しは」

 カップへと口をつけつつ、上目遣いに涼へと陽平はお強請りをする。

 自分のわがままやだらしなさを、涼が嫌っているのは知っている。けれど、涼が自分に甘いのも同時に知っているので、陽平は、カップを置いて涼の背後に回った。

「ねえ、デートしよ」

 自身より一回り細い腰をゆるく抱いて、ね? と耳元へ唇を寄せる。

 カッと赤くなった耳の裏を眺めて、陽平はそれだけでも満足だった。

 二十歳という同い年でも陽平のほうが年上に見られ、涼は小動物的な可愛さがあった。性格的には、涼のほうがしっかりしていたけれど。

 しかし、耳元に触れる唇の熱は暖かく涼をたまらなく心地よくさせる。一回り大きい身体とその腕に抱きしめられると、初めての恋人と一緒に過ごしている感覚に頬が赤くなる。

「……デートの前に朝食作るから」

「涼の手料理、めっちゃ好き。今日は洋食? 和食?」

「今日は和食にしようかな。昨日の煮物も少し残ってるし」

 赤く染まった顔を陽平に気付かれないように、珈琲の入ったマグカップを片手にキッチンへ戻ると、冷蔵庫を開いて食材のあれこれを取り出す。

 料理を作るのは元々嫌いではなかったが、陽平と暮らすようになってからむしろ好きになっていた。陽平の食べっぷりは可愛く、美味しそうに平らげる。少し失敗したかと思う料理も『美味い美味い』と食べる姿に思わず笑みが浮かんでしまう。

「ご飯もタイマーで炊きたてだし、後は味噌汁を作って……昨日の煮物と卵焼きぐらいでいいかな。なんなら魚も焼くけど?」

「魚も食べたい。昨日頑張りすぎたから腹が減って──」

「だからそういうことは言うなって!」

 より顔を赤らめて涼は叫ぶと、わざとガチャガチャと音を響かせて料理を始める。

 ──どちらかと言えば、無神経でわがままなのに、夜には優しい恋人。

 昨夜を思い出して、涼はまた顔が赤くなる。

(駄目だ、こうやって振り回されるから僕はまた、誂われるんだ──)

 涼は首を振って、モヤモヤとした昨夜の思い出を吹き飛ばそうとする。

 知ってか知らずか、陽平は珈琲を飲み終えてカップを手にまたキッチンへと入ってこようとしている。

「ちょっと、邪魔だから……」

「邪魔ってことないじゃん。──きちんと手伝うし、俺」

 少しいじけて言うと首を傾けて、可愛らしく、ね? などとお願いしてくる。体格は良いが可愛い恋人。どうしても拒めないのは自分の方だと涼も自覚はしていた。


 冷蔵庫から卵と、買い置きしていたアジの開きを取り出す。

 一人暮らしでは買わなかった魚類も二人暮しになってからは健康を考えて買うようになっていた。卵をボウルへ割り入れて、アジの開きはグリルへと放り込む。

「皿、これで良い?」

 キッチンの端にある小さな食器棚から陽平が器を取り出してくる。

 二人で買い揃えたものだ、是非もなかった。

「うん、それで良いよ。陽平、卵は──」

「甘いやつ」

「甘いやつ、だよな」

 声は重なった。それだけで楽しくて、くすっと笑うと陽平が笑顔で寄ってきた。

「なあ、他に手伝いは? 涼」

 低く甘い声で名前を呼ばれる。また腰へと手を伸ばしてくるのを、涼は拒否できなかった。

 ボウルで卵を溶きながら、背後から抱かれるとその手が止まる。

 少し顔を傾けて陽平を見上げると、唇が微かに重なられる。悔しいぐらいに幸せだった。

「いままで聞いたことなかったんだけど……」

 吐息が掛かる距離のままで涼が囁くと、陽平が『ん?』と言うように首を傾げる。

「……陽平って……その……同性の恋人、いたことあった?」

 今更の質問だったが、聞けない問いでもあった。聞くのが怖かったのかもしれない。

 過去に恋人がいても気にしないつもりだったが、好きな人のことをより知りたいという気持ちが強くなってきていた。

「いたけど」

「……あ……うん」

「女の子だけどね。高校時代」

 なぜだか複雑なような、ホッとしたような気持ちに駆られる。

「ど、どうして男の僕なんかと付き合うようになったのかなって……」

「好きなったから仕方ないじゃん。涼、可愛いし」

 ──ああ、こういう陽平が好きなのだ。

 無神経と無邪気は表裏一体。嘘がなく、誤魔化しもしない。手にしている菜箸を投げ出して、彼を抱きしめたくなる衝動に駆られてしまう。

「そういう涼は? 俺以外に……いた?」

 ゆるゆると腰を抱く腕が、ぎゅっと前へと回されて抱きすくめられる。

 背中と腹をピッタリと密着させて、陽平が聞いてくる。

「……知ってるだろ」

 料理をする腕が、どうしても止まりがちになりながら涼は少し拗ねた調子で返した。

 初めて身体を重ねた夜にその話はすでにしていた。

「いや、知ってるけど──確認。俺が初めてか、どうか」

 嬉しげに耳元で囁くと、陽平は涼の顎先を捉えて後ろからその唇の端へとキスをしてきた。涼はもう料理どころではない。

 けれど、陽平は余裕がまだある様子で、ん? と顔を覗き込んでくる。

「じゃ、邪魔だって」

 キスをしてくる唇から逃れようと、顔を逸らすも、力と身体は陽平のほうが上だ。結局はなし崩しに二人は唇を再度重ねた。

「……っ、本当に……これ以上は……料理の邪魔」

 涼は濡れた唇と潤んだ眼差しで、きっと陽平を睨みつける。

 


 ぐいっと陽平の身体を押し返すと、降参とばかりに陽平が腕を上げて一歩下がった。

「……初恋の人はいたけど、陽平が初めてだから……」

 ボソボソと呟くようにそれを告げると、改めて卵をかき回す。慣れている料理の手順なのに動揺して動きが落ち着かない。

 仲良くなってから初めてキスをしたときに、陽平のことをゲイなのだと思っていた。

 冗談のように肩を抱かれたり、抱きしめられたりもしていたが、唇を重ねられるとは思っていなかった。

 いつもより手際が悪い涼の後ろ姿をキッチンの椅子に座った陽平が見つめていた。

「でもさー、すっげぇ勉強した」

 背後から掛けられる声に涼が振り向く。

「男同士ってどうすんのか分かんなくって。本も読んだし、DVDも見たし。でもやっぱあんま分かんなくって、もう実践したほうが早いかなって」

 笑いながら話す陽平のその屈託の無さに、涼は菜箸を投げ出してその身体を抱きしめた。

「──バッカじゃねーの。僕みたいなのと一緒に住んで、初めて男とエッチして、なんか勉強とかしちゃって……」

「だって涼が嫌がるようなことしたくなかったし」

「じゃあ……じゃあ……」

 嬉しくて、もうどうしようもない気持ちで言葉が掠れる。

「なに、どうしたんだよ。朝ご飯作るの手伝おうか?」

「そういうことじゃなくって……」

「──よしよし」

 涼が混乱している理由も分からないまま、陽平が子供にでもするかのように頭を撫でる。

 そのまま頬を両手で挟まれて、涼は陽平にちゅっと軽く唇へとキスをされる。

「落ち着いた?」

 よしよしと、まだ頭を撫でられる。まるで子供扱いだ。

 言いたかったた言葉も気持ちも飲み込んで、涼はただ幸せだけを噛みしめる。

「……何でもない」

 泣きそうになっていた顔をふいっと背けてから、目尻を拭う。陽平が心配そうに立ち上がった。

「平気?」

 顔を覗き込んでくる。

「大丈夫だって」

「そっか」

 再度、唇へ触れるだけのキスをして、陽平はまた椅子へと戻った。

 ふうっと涼は息を吐く。さて料理だ。

 解いた卵を砂糖や調味料で味付けし、熱したフライパンにジャっと流し入れる。

 その間に昨日の煮物を温める。卵は巻いてしまえば終わりだった。

「良い匂い」

 陽平が後ろから声をかけてきた。

「箸──と、コップもお願いして良い?」

 食器を指示すると快く返事して、さっと陽平は動く。陽平は料理はしないが、家事は積極的に協力してくれる。

「な。味見」

 もうすぐ、魚も焼き上がりだ。

 炊きたての御飯とわかめと豆腐の味噌汁。二人が好きな甘めの卵焼き、こんがりと焼かれた鯵の開き。昨日の残り物だけれど温められた野菜の煮物。

「いただきます!」

「いただきます」

 お互いが同時に声を上げ、食卓に並んだ朝食に箸を伸ばした。

 なんでもないごく普通のこの日常が幸せだと感じる。

 眼を細めて本当に美味しそうな笑みを浮かべて料理を食べる陽平の姿を見るのが涼は好きだった。

 涼の両親は共働きで、朝食を皆ですることはほとんどなかった。帰宅時間もそれぞれなのが子供の頃から当たり前でそれが普通だと思っていた。

 だが、陽平の家は家族が揃うことがごく普通で、本人の話し曰く『うるさい』家庭だったようだ。それは事細かに注意されるという意味ではなく、物理的に騒がしい家庭環境であり、皆が仲が良かったように感じられた。

 そんな話を聞いて、陽平がこんなにも真っ直ぐに育った理由が分かったような気がした。

 きちんと手を合わせて『いただきます』と言うところや、箸の持ち方が綺麗なところ、食べ方もきちんと残さず美味しそうに食べてくれるところ。

 ──ああ、そうだったと思い出す。

 陽平と初めて出会ったコンパかなにかの雑多な集まりの中、安い居酒屋で食事の仕方が丁寧な人だと思ったのが第一印象だった。

(ある意味、一目惚れだったんだよな……)

 ほんの半年ほど前のことが懐かしく思い出された。

 陽平の食べ方は綺麗で豪快だ。ひとくちが大きいのに食べこぼしなどしない。

 今日もすべて平らげてくれて、『美味かった!』と陽平は涼と空になった食卓に向かって手を合わせた。

「ごちそうさま、涼」

 同じタイミングで涼も食べ終わった。

 陽平につられてたくさん食べてしまい、満腹だった。陽平と同棲を始めてからはいつもそうだった。太ってしまいそうだと愚痴を言ったら、夜のベッドでもう少し太ったほうが良いと言って腰を撫でられた。

「洗うのは俺がやるよ」

 率先して、陽平が皿を下げる。一緒に皿を下げて、今度は陽平がキッチンへ立つのを涼が後ろから見る。

 自分にはもったいない、男前な男だった。

「何? 見張らなくてもちゃんと洗ってるでしょ?」

 おかしげに陽平が肩を揺らす。

 先程までの仕返しにと、そっと涼は陽平の背後に立った。

 僅かに首を伸ばして、陽平の首筋に唇を軽く押し当てる。

『わ!』と陽平が驚いて、笑い声を上げた。

「お皿割れちゃうよ? そんなことしたら」

 泡だらけの手を見せて、振り返る。

「我慢しなよ」

 涼も笑って、もう一度唇だけをそっとつけた。それから、広い背中へと額を押し当てる。 腕を太い腰へと回して先ほどとは逆の体勢で、陽平が洗い終わるのを待った。

「甘える涼って珍しい」

「たまにはそういう日もあんの」

 皿を洗いながら陽平が笑う。逞しい身体は涼の腕を拒むでもなく、優しく受け止めてくれているようだった。

「ってかさ、この間聞いた話なんだけど」

 作業を進めつつ話しかけられる言葉に、背中に額を押し当てつつ涼が『うん?』と聞き返す。

「他の動物は発情期があるんだけど、うさぎって年中発情してるんだって」

「あー、それ聞いたことある」

「涼って、うさぎに似てるよな」

「な、な、なんで、俺が毎日発情してるって意味!?」

「いやいや、そうじゃなくてイメージが」

 昨晩の夜を思い出し、一気に耳元まで赤くなる。

(誰が僕をそうさせたと思ってるんだ)

 そう言いたくてもプライドがそれを許さなかった。

 自分でも発情している自覚はある。キスだけでたまらなくなってしまう。

 隠そうとしても隠せない。拒もうとしても拒めない。陽平だけに発情してしまう自分を涼は分かっていた。

「一緒に寝てても朝起きたらいつも小さく丸まっててさ。普段もじっとしてて可愛い」

 手早く洗い物を済ませた陽平が、肩越しに振り返る、口端を軽く上げる。

「そういう、イメージ」

「なんだ……それならって、男なのにウサギかよ」

 赤くした顔を見せたくなくて、顔を逸らして、涼は俯く。

 腕の中で陽平が位置を変える。向かい合わせになるようにして、陽平はキッチンへ軽く腰を預ける。足を軽く開くとその間に涼を挟むように抱き込んでくる。

「良いじゃん、俺だけのウサギちゃん」

 耳元で囁かれそのまま耳朶にキスされれば、涼もそう悪い気はしない。

 そろりと手を伸ばすと、ぎゅっとその背中を抱いた。

「ほら、そういうところ」

「うっさい」

 言い返すと陽平が笑う振動が、衣服越しに伝わってくる。けれど恋人の腕の中は心地よく、動きたくないのは本当だ。

 安心して身を委ねていた涼の耳に声が届いた。

「作夜の──ウサギちゃん状態の涼がまた見たいな」

 ゾクリとするような低い声だった。

 腰を卑猥な仕草で撫でられる。

 思わず腰引くとやや強引に引き戻される。

「い、今から……?」

 涼は思わず陽平を見上げた。

「今から」

 腹も満腹になったしと言いつつ、恋人がまるで飢えた狼の様な顔をしていた。

「そんな」

(陽平こそ、まるで……)

 動揺している涼の顎を持ち上げて、陽平がキスしてくる。そのまま身体をグイグイ押されて、後ろ向きで、陽平の部屋まで連れて行かれてしまう。

「買い出しは、後な」

 ベッドへ押し倒されて、乗り上げてきた陽平がスウェットの上着を脱ぎ捨てるのを、涼は下から見上げた。しばらくはベッドから出して貰えそうになかった。



【end】

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ウサギだって恋をする 河野章 @konoakira

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