第41話 薄日さす

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 猿鬼の目が別に向いていたことは幸いだった。そのおかげで難なく目的の場所に辿り着けるというもの。

 笛らは軍勢の跡をつけるように移動し、朝には開けた場所に出た。

 木陰に潜み様子を窺う。川に沿って陣取る軍勢を眺めていると、俄に猿どもが気勢を上げた。隊列の中央で錦を纏った猿面が手を振り下ろす。その所作を合図に、くびきを解かれた猿鬼が沸き立つように飛び出した。いよいよ合戦の始まりである。

「異界で戦とは愚かなことをする」

 呆れるように雨声が呟いた。

「雨声様、それは?」

「四神、四神の長が治める異界には律がある」

「律?」

「五行の循環。神々が均衡を保つこの異界では一つの気が突出して大きくなる道理がない」

「……相克と相生」

「そうじゃ、故に戦は起こらぬ。その律を冒せば……」

「冒せば?」

「摂理により粛正される」

「粛正……」

「蜘蛛も猿もただでは済まぬ。これは急いだ方が良さそうじゃのう」

 ダミ声を更に押しつぶして雨声が唸る。顎をさすりながら深く思案し始めた。

 異界の律を無視して行う愚行、化け物同士の合戦を目の当たりにして笛の心は打ち震えた。時局に流され呑み込まれていくような感覚。異界の地で異常な出来事に遭遇しているこの状態は偶然のものではない気がする。今、何が起きているのか、その予感めいたものが何なのか、ハッキリと言葉にすることは出来ない。敢えて言うならば、使命か。笛は、意図せず天を見上げ畏怖した。その後、口を引き結び、厳しく戦場を見つめた。つぶさに戦況を読んだ。――見極めなければならない。

 超常の力を見せつけて先陣を切る猿面。男は天に黒雲を喚び、一撃の下に伏兵を打った。

 先手を取り優位を得た猿鬼の軍勢。猿面は、なおも単身で敵陣深く切り込み敵を圧倒した。後ろではようやく川を渡った猿鬼達が、気を失って横たえる蜘蛛を次々と拘束していく。

「捨て置け」注意の声が飛ぶ。向かうはあの岩山の向こうだと、雨声は指さし教えた。その方角は図らずも猿面が向かった先と一致していた。

「雨声様、如何なされますか?」

「摂理による粛正が始まれば我らとて危うい。あれは無慈悲なる鉄槌、相手を選ばず飲み込んでしまうと聞く。律には決して逆らえぬ。揚羽がその力を振り絞って隠形をしても逃れられるものではない。……しかし、分からぬのう」

「何が起こるというのですか? それに分からぬとは?」

「粛正が如何なる事象であるのかは知らぬ。見たことなどないからな。しかしながらじゃ、五行の律があることは王ならば承知のはず。猿翁が動く理由が分からぬ。事に加担すれば、それこそ国ごと飲み込まれてしまってもおかしくはない。危険を冒す訳が知れぬ」

 訝しむ声を横に置きつつも、笛は戦いに魅せられていた。

 猿面の男、あれは猿鬼ではない。はっきりとした正体は掴めぬが人間のようだ。錦の袍に黒の烏帽子。身につける黒鉄の防具に黒色の太刀。悪趣味な煌びやかさと猿面を除けば陰陽師の姿に見えなくもない。――雨一族ではない。これ程の人間がこの世に存在していたのか。笛は首を傾げた。あれはいったい何者なのだろう? 唐突に現れ出た力ある者のことを全く知らない。小さな噂すら聞いたことが無かった。

「雨声様、戦は御法度と言いますが、あれが戦といえるのでしょうか?」

 笛の歩んできた道のりにも多少の血生臭みはあった。なので、見慣れていると言うと語弊があるかもしれないが、実際の軍勢が血を流す戦がどのようなものであるかは想像が出来た。だが、この戦いはどうだ。痛快な気分さえ抱かせた光景はまるで台本のある活劇のようだった。この様に凄惨さを伴わない戦場を笛は知らない。

「そうであるのう、そこも摩訶不思議なところであるのう」

「不殺生を貫くことで戦を戦にせずに済ませようとしているとか?」

 猿面は敵を殺さなかった。敵方の蜘蛛には殺意があったが、彼は対決した相手を一匹残らず不殺で封じていた。その姿勢は徹底したもので、あるときには刃を突き立てた相手に対して治癒の技を施したぐらいである。圧倒的な力の差を見せつける猿面。雷を使い、氷を使い、炎を操る。あまつさえ治癒までも。もしかすると五行の力を余すことなく行使できるのではないかと思える程の超常の者。この時、笛は猿面と雨の陰陽師の姿を重ねて見ていた。

 

 猿面の華麗な戦ぶりを追いながら進む。やがて笛らは岩山の裾野に出た。ひっそりと木陰に隠れて戦場を観察すると次の情況が目に飛び込んできた。

「酷い!」

「うむ、やはり奴らか」

「奴ら?」

 雨声とともに見上げる。岩山の少し高いところに立ち戦場を見下げる男を笛は承知していた。雨一族の陰陽師である。男は瀕死の女を人質にしてほくそ笑んでいた。

「雨声様、名は知りませんが、私はあの者のことは見知っています。しかし何で……」

「そうか覚えがあるか。あれの名は瀧落、といってもあれは本人に似せた式にすぎぬがな」

「式? ……あれが式であると?」

「如何にもじゃ。しかし侮れぬぞ、正体までは分からぬが、あれは相当の化け物だ」

「……化け物」

 身構える雨声を見れば敵の実力も知れる。あれは余程の者なのだろう。それでも、あの猿面と比べればどうだろう。笛は、陰陽師と猿面を交互に見比べその力を測った。今のところ五分か、少し猿面の方が上か。知らぬうちに眉間に皺が寄る。

 それにしてもこの複雑な様相は何だ? 話がまるで見えてこないではないか。

 猿鬼と猿面に対峙する蜘蛛と瀧落、両者の戦いと自分達がどのように関わり合いを持つのか。

 雨声の、あの声色で奴らと聞けば敵対者であろう。それも複数である。となれば、今のこの情況は、黒鬼衆に敵対する何者かが化け物を式に降ろして妨害している、となるのだが……。

 笛らに一切構わず猿と戦うその意味がわからない。猿の軍勢に何があるのか。味方では無いが敵とも思えない。一見して猿鬼は自分らには無関係のように思えるのだが。

「……瀧落とは何者?」

 笛は独り言のように呟いた。そこに雨声が言葉を返す。

瀧落たきおとしとは、雨が滝のように落ちることを意味する。奴は激情家でのう、あの頃から我こそが雨であると嘯いておった」

「あの頃? 雨声様、あの頃とは?」

「瀧落には、豪雨という意味の他にもう一つ、陰を含んだ謂われがある。それは激情に身を焦がし地に墜ちた雨というもの」

「地に墜ちた、雨」

「瀧落の正体。奴の名を、冨夜という。冨夜は秋霖様と潮の子、そして揚羽を殺した張本人。奴こそが我らの真の敵である」

「揚羽様を殺した!?」

 聞かされた新事実。一連の出来事に複数の要因が含まれていることは既に知るところではあるが、このように目まぐるしく事態が動けばついて行くのが難しくなる。

「笛よ、どうした? 難しい顔をして」

「い、いえ」

「道に悩んでおる。差し詰め、そういったところかの?」

「…………」

 何をどう話せば良いのか、笛は胸のつまりを言葉に出来なかった。

「先にも教えたはずじゃがの」

「ですが! これでは、事情も知らずに……私は」

「困った奴じゃ、ならば端的に教えようかの。敵は冨夜である。これは千三百年前から変わらぬ。そうして今起こっていることは――」

 笛が息を呑んで耳を傾けたその時だった。轟音とともに局面が動いた。

 いつの間にか大百足と藤十郎が合流していたことにも驚いたのだがそれよりも、あの猿面の言葉に驚かされた。猿面は蒼樹ハルの生存を言い放った。

「これはよもや、生きておられたとは、……しかしあの太刀、あれは真に騒速か?」

 雨声の言葉に色は付いていなかった。驚きもせず、喜びもなく。それでも笛の心には光が差し込んでいた。

 ――生きていた。生きていた。生きていた。

 笛は固唾を呑んで耳を澄ませ目を凝らした。

「瀧落よ! 降伏せよ、降れば雨様も温情を下されよう。どうかぁ!」

 神器の気迫が戦場を支配する。

 震える膝がガクリと折れた。胸の前で手を組み、祈るように目を閉じる。

 ああ、これは何ということだろう。

 猿太郎とかいう妖については如何なものかと思わぬではないが、それも些末事である。笛にとって重大だったのは猿面と神器が発した言葉だった。

 蒼樹ハルは、猿翁の下に健在であり、その上に免状を受け取り、ついに雨の陰陽師を名乗ったという。

 胸の中でポンと何かが弾けるとたちどころに靄が晴れていく。

 ――父様、これで私はあなたの思いを遂げることが出来ます。

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