第39話 蜘蛛を操る男

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 柴を折り草叢を踏みしめる足音を置き去りに、殺気が満ちる森の中を疾走する。

 緑が溶ける景色、迎える風圧に踊る前髪、衣は袖をはためかせた。

 ハルと騒速は敵が占拠する猿鬼の根城を目指し蜘蛛の群れを強襲した。

『ハル様』

「ああ」

 主従の短い受け答えで戦端が開かれた。

 行く手を阻んだのは虫。血の色に染まる八つの複眼。鎌状の鋏角きょうかく一対と他に六対の関節肢を持つその化け物は蜘蛛。体長は大型犬ほどの大きさだが、それで十分に化け物といえる。 

『一匹、……いや三匹、舐めたものでございますね』

 言うなり黒光りする刀身が青い雷を帯びた。 

「待って、騒速、よく見てごらん」

 切っ先を下げたまま周囲に目を配る。

 ヒリつく肌に殺気が刺さる。

『ほほう、これ程とは』

「喜んでどうするの」

 楽しげに弾む騒速の声に呆れる。流石は神器、勇猛なものだと感心するがその反面で、ハルは自身が思い描く勝ち姿を確信できないでいた。

『ハル様、お覚悟を。この数では如何にあなた様でも不殺の意を貫き通すことは叶いませぬ』

 ハルの意を汲んで神器が忠告する。

 心が志向と狂気の間で揺れて逡巡した。これだけの数を処理するならば殺す方が手早い。奪わずば勝ち目がないことは火を見るよりも明らかである。――それでも命は命。

「分かってる。無傷で押し通ることなど出来ない」

 言葉により神器に覚悟を伝える。だが、返ったのは呆れたように漏らされた溜め息だった。やれやれ仕方のない人だと溢し笑う騒速。ハルも目を伏せて苦笑した。感謝する。どうやら気持ちを汲んでもらえたようだ。

 カチリと小気味よい音を鳴らして刀身が裏返る。

 間もなく木立の間から牙を剥く一匹目が飛び出してきた。

 瞬時に応じる。ハルは大刀を水平に構えたまま相手の懐に飛び込んだ。

 修羅の刹那を目が捕らえる。

 的は目先から直ぐ上の空を泳ぐ胴体。

 半身を捻りながら間合いを計り、大刀が敵を薙ぎ払う。

 獲物を捉えた神器は即座に雷撃を加えた。瞬間的に青い光に包まれる空間、バチっと音を立てる化け物の体が直角に軌道を変えられ飛んでいく。

 焦げ臭を嗅ぎながらハルは錦の衣を翻す。悠々と敵を見送った後、すかさず反転し切っ先を回した。

『ハル様、右に』

 騒速の声を聞くまでもなく次を捉えていた。一匹目を打ち払った場所から返す刀で二匹目を打ち、頭上から降ってきた三匹目へ刀を突き立てた。

 蜘蛛を突き刺したまま切っ先を下げると、その刀身を滑るようにして三匹目の蜘蛛が落ちた。ドサッと音がして足下の地面が揺れる。

『無茶をいいなさる。全ての敵を昏倒させることなど至難の業。まったく、この人は私を買いかぶりすぎですわ』

 騒速が嬉しそうに高揚する。

 敵に目をやると体毛を焦がし痙攣を起こした蜘蛛が横たえていた。腹に負った傷からは体液が流れ出ていた。

「ごめんよ」

 痛みを与えてしまったことを詫びながら、ハルは沈痛の思いを捨てる。基より承知していた。一匹も傷つけずに事を終えられるとは考えていなかった。自分には敵対者を無傷で沈黙させられるような圧倒的な腕前はない。

 眼下に見据える敵、ハルは怯える蜘蛛の目を見て語りかけた。命を奪うつもりはない、と。

『ハル様』

「ああ」

 応えながら、動けなくなった蜘蛛に治癒を施し氷漬けにして封じると、周囲に立ち込めていた殺気が俄に揺らいだ。森の中に困惑が広がっていく。

 ここは戦場である。手加減とも温情とも取れる行動の意味を理解出来ないのも無理はない。

 さあ、ここからが勝負だ。会心の出だしを経ても少しの奢りもない。一段と気を引き締め腹の底に力を溜めた。

 ハルは大刀を構えたまま周囲を見渡すと気合いを乗せた声を一気に張り上げた。

「どうした! まさかこれで終わりと言うこともないだろう!」

 まずは敵の気概を折る。この時ハルは戦場に降った猿翁の一喝を思い出していた。これでいい。不用意な挑発とも取れるが今はハッタリでいい。弱気を見せれば相手に勢いが付く。場を支配するのだ。

 手始めに伏兵を一掃した。次に不殺で相手をあしらった。異界では常に強者が優位に立つという、ならば、見せつけることだ。

『上々でございますね』

 騒速は上機嫌だった。そうだね、と簡潔に応じて岩山を見据える。だが同時に小首を傾げていた。気持ちの余裕がふとした疑問をハルに抱かせていた。何がこんなにも彼女の心を躍らせているのだろうか。

「騒速?」

『フフフ、なんでもございません』

「なに?」

『ようやくです。このようにあなた様の神器として振る舞えることを私は嬉しく思います』

「ん?」

『皆までは申せませぬ。それに、私にも羞恥心というものがございますゆえ』

 含みを持った騒速の話がまるで理解出来なかった。ようやく、と言う言葉が何を示すのか。彼女にどんな変化があったというのか。

『ハル様、敵が動きます』

 呼びかけにハッとして気を取り直す。戸惑う森の空気に変わりはなかったが、それでも群れの中で一つ二つと動き始める者が出てきた。ガサガサと茂みが騒ぐ。

 これで終わるはずもない。ハルは再び大刀を構えて注視した。すると、木陰からこちらを目掛けて何かが発射された。白い蜘蛛の糸が避ける間もなく右手に絡みついた。

「あるよね、蜘蛛だもん」

 接近戦で叶わないとくれば遠距離からくる。これは一応、想定済みであった。対処する術も考えていた。咄嗟に大刀の柄を持ち替え白い束を切断する。前後左右、全方位に気を張り巡らせて次を待つ。――来た!

 後ろから、前から糸が飛んでくる。すかさず射線を見極める。ハルは筋を手繰って敵を捕捉し雷撃で二匹を封じた。戦況は好ましい。流れのまま三匹め四匹めを難なく倒し三十まで数えてから先は数えることを止めた。そこから先は目まぐるしい攻防戦となる。

 かたや鼻歌交じりの騒速、かたや抜けきれぬ緊張を持て余すハル。一つになった二人が息を合わせて舞い踊る。神器の雷撃に蹂躙される蜘蛛、森の中に次々と転がされる氷塊、ハルと騒速は敵軍を圧倒した。

 それでも、蜘蛛の戦意は止めどが無かった。敵は必死で向かってきた。きっと余程の事情を抱えているのだろう。ハルは未だ姿を見せぬ真の敵を睨む。許せない。

 ハルと騒速の進撃は進む。戦いの均衡がくずれたのは体感で百を倒した直後のことだった。

 両足を囚われ、胴に絡みついた蜘蛛の糸はたちまちにハルの身体を絡め取った。

 もはや簀巻き状態。身動きが取れない。だが、それでもハルに焦りは無かった。

 全身が紫の炎に包まれる。――これは、よもや紫炎しえんとは、と感嘆を漏らす騒速の声を耳に、ハルは自分の身体ごと蜘蛛の糸を燃やし、こともなげに錦の袖を払った。煤けた糸の塊がハラハラと地面に落ちる。

「さあ、次は誰だ!」

 声が森に響き渡る。蜘蛛の気勢が萎縮しはじめる。見えている敵が、まるで歯が立たないと撤退し始めた。

『随分と数を減らすことが出来ました。上出来でございますね』

「ここまではね」

『随分と慎重なことで』

「それはそうさ、僕は強くない。それは自分が一番よく分かっていることだ」

『ご謙遜ですよ』

 軽い調子の受け答えに、そんなことはないと言いかけてハルは首を傾げる。

『お気になさりますな』

「騒速、しかしこれはいったいどういうことなの?」

『さて、これは、とは?』

 その軽妙さ、やはり騒速はどこかおかしい。その陽気さはまるで別人かと思えるほどである。そういえば、名を呼ぶ度に不機嫌を表す事もなくなったようだ。

『ハル様、いまは大事の途中、私のことなど放っておいてよいのです。それよりも』

「あ、ああ」

『今は序の口、向かう先に何が待ち受けてるか分かりませぬ故、ハル様は戦いに集中して下さりませ』

 緩やかな斜面を駆け上がると徐々に緑が薄くなった。ほどなくして岩山の麓に到達する。剥き出しの岩肌のそこかしこに洞穴が見えた。

『あれが蜘蛛どもの長でしょうか』

 騒速の声とともに一山が来たことを悟る。ハルは上方を睨み付けた。

 体長二メートルあまり、足を伸ばせばその倍といったところか。

 少し登った斜面の上に蜘蛛の一団が陣取っていた。先程戦った蜘蛛の残党と、その中心に親玉らしき巨軀の土蜘蛛の姿を見つけた。ハルはその異様な風体に息を呑んだ。

 一際威勢を放つ化け物は覆面を付けた虫。顔面に垂れ下がる布きれには奇怪な紋様が描かれていた。

「僕は無益を望まない。道を空けてはもらえませんか」

 話して通じる相手とは思わない。人の言葉が通じるかどうかも分からない。それでもハルは語りかけた。土蜘蛛は土性の妖怪、猿鬼は金性の妖怪、性の異なる種族間での戦争は御法度であると聞いていた。蜘蛛どもは異界の律を無視した戦を強要されている。これは何者かによる作為的な戦である。無駄に命を失わせてはいけない。

『ハル様』

「わかってる。向こうにも引くに引けない理由がある。それでも僕は問うてみたい。無理強いしているその動機を汲んで救ってやりたい」

 相手から言葉は返らなかった。受け取れたのは揺るぎない意志と殺気であった。

 仕方がないとハルは半歩を踏み出し構えた。その動きに合わせて蜘蛛の巨体が前傾になる。立ち合いで呼吸を読み合うハルと大蜘蛛。場が静かに時を数えた。

 中段に構えた剣先を相手の右目と左目のちょうど真ん中に向ける。これは大峰兼五郎義親に教わった現代剣術の基本。五正眼と呼ばれる構えのうちの一つで、晴眼の構えと呼ばれるもの。通常は剣客同士の仕合において体格差のある相手に対して小が行う構えであるが、今の場合、敵は化け物なので当てはまるのかどうかは疑わしい。それでも水の如くといわれる正眼は敵の次の動きに対応する為には理に適っている。

 場の空気が張り詰める。隙をみせればその瞬間が始まりの合図となる。にらみ合いが始まった。大蜘蛛の右前足が僅かに動く。――右か、左か、それとも……。

 相手の動きを読みながら、地を踏みしめる軸足に遊びを持たせようとしたときだった。

「小僧!」

 不意に藤十郎がハルの名を呼んだ。 

 ヒュン! 風切り音を聞くと同時にハルは大刀を振った。空に円を描く刀身がその軌道上で風を払う。手応えから間もなく足下に何かが落ちた。チラリと目を落とすと、断ち切られた風は弓矢だった。

『ほほう』

 心が遠くにある敵の意思を声として聞き取る。感心する男の声には聞き覚えがあった。

「――不意打ち? どこから」

 ハルは切っ先で蜘蛛を制しながら矢の出所を探った。

 蜘蛛よりも一段高い岩の上に姿を見る。不気味な笑い顔、頬をすりながら姿を見せた細身の男はハルを窮地に追いやったあの陰陽師だった。

『あれは、瀧落か?』

 騒速が訝りながら名を告げる。

「あれが、瀧落……あの日、高校のグラウンドで僕を殺した男」

 鬼屋敷笛を手先とし笙子かぎを攫った男。異界にまで姿を見せた男は、蜘蛛を嗾け、猿を使ってハルの命を狙った。

「全ては、似非者の雨の陰陽師を誅するため、か」

 なるほど、蜘蛛を操っているのは奴で間違いない。

「瀧落だと? 笑わせるな騒速、あれは違う」

 藤十郎はこちらに歩み寄りながら眉をひそめた。

『違うと? それはおかしなことを』

「俺も、初見では分からなかった。こいつは何者かと」

「キュッ! キュッ」

 小夜が庇うようにハルの身体を取り囲んだ。

「小夜? 一体どうしたんだい?」

 話しかけるハル。小夜と藤十郎は謎の陰陽師をジッと見据えていた。

「もはや別人、以前の奴とは比べようもない残滓のようなものだが、あれは、あの者で間違いないだろう」

『しかし、あれは……』

「見目はそうなのだろう、言われてみれば面影がある。しかし奴に似せて作られた入れ物の中にあるあれは、紛れもない。偲化だ」

「偲化……あれが元凶となった竜、あれが大百足の元祖……」

 それにしても、雨一族の長子にして大百足の元祖とはどういうことだ?

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