第35話 長い旅路
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異界の王は、五行を守護する神を奉じており、その性は奉じる神の属性を依拠とする。
鬼怒川宮の門を抜け辿り着いたのは
午の国の助力を経て、
そもそも広大な異界の地でたった一人を探し出すことなど至難である。あては無くもないが時間にゆとりもない。ならば、このように何の諍いもなく順路を進めるのも幸運といえよう。
晴天に薄雲が逸る。
爽やかな風が袈裟の袂をはためかせた。見渡す草原は大海の如く、数える岩山は海に浮かぶ岩礁の如く。遠くに黒褐色の稜線を望む。連なる峰を越えた後方に一際高く聳える山。頂を天に届かせるほどの高峰にこの地を治める未王が御座す。
破笠らは順調に旅を進めて未と申の国の境界付近で一息ついた。
吸い込んだ息を静かに吐き出す。周囲に危険が無いか確認してから案じて横を見る。傍らに立つ少女の目の輝きに変わりは無かった。流石の胆力だと感心すると、破笠はそっと目を伏せ微笑んだ。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ、何も」
短く応じて前を見る。草木までもが妖気を放つ世界である。むかし、初めてこちらに来たとき、あちらとはまるで違う様相に戸惑ったことを破笠は忘れていない。
なのにこのお嬢様ときたら……。意気揚々と異界の空を見上げる少女はまるで遊山するが如くの体で佇んでいる。
「怪異の世界と聞き不安もありましたが、来てみればどうということもなかった」
金色の鬼面に朱髪。鬼怒川茜は威容を異界に見せていた。
「いやはや、その順応は大したものです。ですがくれぐれも――」
「わかっています。弱気を気取られれば直ぐさま足下をすくわれる、でしょ?」
「如何にも、ことに異界の者は人間の血に目敏い。御身は妖気体なれど、その状態は肉体を具現化させたもの、疑似とはいえ怪我もすれば血も流す。くれぐれもご注意下さいますよう」
「具現化ねぇ」
茜は感心しながら五体を確認した。装着された鬼面の下にある表情は見えない。だが、明るい笑みを浮かべていることは手に取るように伝わっていた。
破笠は人知れず錫杖を握り込んだ。
無邪気を見せるのは子供の証し。普段ならば元気が良いことは何よりだと頬を緩めるところだが、そうもいかなかった。破笠は見抜いていた。茜が見せる無邪気は無知のせい。無思慮は蒼樹ハルの救出に急き立てられているせいであると。
「いよいよ申の国ですね」
少女の気が僅かに緊張を纏った。
「茜殿、目的の場所まではまだ数日を要します。どうぞお楽に」
故意にゆっくりと話す。これまでの二国と同じようにはゆくまいと、破笠自身も気を引き締めた。
「破笠、目的地を知っているのですか?」
「あ、ええ、いえ」
曖昧に答えた。断言は出来ない故に。それでも確信はしていた。蒼樹ハルは、いや彼を連れ去った者はきっとあそこに向かっていると。
「それにしても、こうも簡単に物事が進んでいくとは思いませんでした。本来ならば数ヶ月も掛かるような旅路を僅か一日二日でとは」
「午、未、両国の配慮があったればこそですな」
「申の国の王も助けてくれるといいんだけど」
「それはどうでしょう」
「これまでが出来過ぎだと? ならば何で先の国々は私達に助力してくれたんだろう」
「はて、何故でしょうな。感触としては、子細を知っているといった具合でしたが」
「それは、この五行が循環する世界では隠し事が出来ないということ?」
「そういうことではないと私は思いますが」
「どういうこと? ……っていうか、破笠、あなた何を知ってて、何を隠しているの?」
「わ、私は別に……」
「別に?」
両手を腰に鬼面の少女があどけなさを見せて覗き込んでくる。破笠は慌てた。
「隠していたわけではないのです。ただ、子細を話すと長くなるゆえに、何をどのように話せば良いのか分からぬのです。それに……」
言えないことかと聞かれて思案する。長く仕えた破笠とて全てを知るわけではない。見聞をつなぎ合わせれば大凡は的を射ていると思うが、確証が持てなかった。その長い話についてどこから何を話せば良いのか。
――あの夜、
鬼怒川家の頭首から田原藤十郎の名を聞かされ愕然とした。
燭台の明かりの中に揺れる影を黙したまま見つめる。
げに恐ろしきは天の配剤、と、漏れ出た言葉は運命の苛烈を嘆いた。
それから幾ばくかの時間、言葉を失った破笠は動悸を抑えながら連綿と続く悶着とその謂われに思いを馳せた。
数年前のこと――かねて翠雨宮に陰鬱な空気が漂っていることを感じていたが、長き系譜の中には些少の漣もあろうとして意に介さなかった。
ところが事態は一変する。唐突に飛び込んできた雨音女再誕の報により翠雨宮はわななく。
何故か。雨音女は雨の陰陽師の出現を顕現させるもの。次代の雨が血筋の系譜から出現しないことは初代より言い含められていたことではあるが、それでも一族には矜持と期待があった。
雨一族の間に動揺が広まる。次代が後継一族から出ればよいが、外に出現すれば一大事となる。選定の結果の如何によって否が応でも一族は存在意義を問われてしまう。
当然の如く、この由々しい事態は赤鬼衆の家中も揺らした。初代の頃から今に至るまで、長く赤鬼衆を束ねてきた破笠でさえ身の置き所に迷いをもった。
このまま、雨一族に付き従うべきか、それとも、新たな雨の陰陽師を奉じるべきか……。
迷いに迷ったあげく妙案も浮かばず、結果的に破笠は無為に時間を費やしてしまう。いずれにしても、無体なことにはならないだろうと、様子見を決め込んだ。だが、賭けは裏目に出てしまう。事態は一時の漣に非ず、待てどもいっかな好転などせず。危惧はついに現実となった。破笠ら赤鬼衆は雨一族側について蒼樹ハルと対峙することになった。
「――破笠! 破笠」
「あ、ああ、茜殿」
「ああじゃないよ、それに、の続き」
「……はい」
催促する茜に了と答えて腹を決める。いずれにせよ避けては通れない。
「そんなに難しい話なの?」
「いえ、そういうわけではございません。それでは、その話は今宵にでも。遠い昔の話でありますし、少し長い話にもなりますゆえ」
「昔話? それって八百年前の?」
「いえ、これはそれよりもまだ昔。初代雨の陰陽師、
「……秋霖、騒動の根本かぁ」
「何にせよ、まずは先を急ぎましょう、夜には申の国に入ります。そこでまた何か動きがあるやも知れません」
「そうね、それでも道々に話は出来るわ、だから夜まではあの戦からこれまでのことを話しましょう」
茜は身も軽やかに歩き始めた。いじらしい背中に「はい」と応じて破笠も続く。
胸中にて懐かしく主の面影を追えば様々な記憶が蘇ってきた。
苦楽を共にしてきた主従。赤一族は主にも、主の血筋にも忠誠を誓い尽くしてきた。その有様に偽りもなく二心もなく。八百年前の右方を討った戦にしても義はあったと信じている。ただし、今のこの行いは信義に悖ることになるかもしれない。
希望に満ちる少女の伴をして、西へ、あの忌まわしき土地へ向かう。
全てを話そう、これも定めならば従うより他はあるまい。結果の如何は問わぬ。
「潮様、すみませぬ。月桂よ、分かってくれ。秋霖様、それで宜しゅうござりましょうか」
破笠は一族の末路を覚悟した。役割を終えた者は退場するのみ、恐らくはこれが自分の最後の勤めとなるだろう。ただ見届け、是非は若者達に委ねれば良い。
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