第34話 迷い道
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四回目の夜が来た。
黒い森の中を進む。草が深くなると背の低い雨声の姿は水面から頭を覗かせて泳ぐカエルのように見えた。そこから少し視線を上げたところ、雨声を導くように揚羽の姿があった。黒蝶は銀の鱗粉を軌跡として見せていたが大凡は闇夜に溶け込むように存在を曖昧にさせていた。
目に映る景色に変わりはない。相変わらず脅威もなかった。時折、怪しげな鳴き声を耳にしたが、揚羽によって守られていることを知ってからは身構えることもなくなっていた。
頬に受ける夜風、異様に夜目が利くこと以外は以前の身体となんら変わりがない。笛の五感は正しく異界を捉えていた。ただし、心は違う。
鬱屈の原因はハッキリと分かっている。胸の中に生まれた喪失感のせいである。
雨様はもう何処にも居ないという事実が心の寄る辺を失わせていた。
願いは一つ、黒一族の再興であった。だがそれは雨の陰陽師あってのことだと気が付いた。いま、心に帳を降ろす重い現実。笛は行く先を見失っていた。
以前、雨音女の死亡を聞いた時のこと。父は彼女の死に際して世も終いだと嘆いたが、幼い笛は父に同情しながらも同意をしていなかった。それは至極簡単な理屈だった。たとえ探せる者が消えたとしても、それは見つけることが難しくなったというだけで捜し物まで消滅してしまったことにはならない。だから信じていた。雨音女が実在したならば、雨様もきっとどこかにいるはずだと。それでも――、
心の中にポカリと空いた穴を覗き込めば、そこに見えたのは向ける刃の向こうで両手を広げる蒼樹ハルの姿だった。
目の前で呆気なく消えた少年。笛の記憶は彼の断末魔を何度もリピートさせた。
凡人にしか見えなかった。覇気も見せず、畏怖も与えず。力など微塵も感じとれなかった。彼は抗うこともせず簡単に命を放り出すような人物だった。ただの弱虫ではないかと幻滅もした。
――そうか、あの時の気持ちは失望だったのか。
淡々と歩みを進める。風に流される雲のように行き先は他人任せである。心の中に朧気に抱く疑義は解消するべくもない。ならばもう、求めたとて仕方が無いことなのだろう。
雨声は与えられた使命を果たせといった。
新たな使命は後嗣として黒を再興させること。この世に雨の存在如何を問わず、笛は黒の頭目としての道を行く。揚羽と共に。
笛はくすくすと笑った。愉快だったのではない。笑い声は、むしろ不愉快に縛られてしまった己の立場を嘲っていた。父の思いを成就させることも出来ず、雨の陰陽師を見殺しにした愚かな自分が、黒一族の後嗣として頭首の座を目指している。笑い種にもならない。
――私はどうしようもない馬鹿だ。
自分の行いを肯定できないもどかしさ。笛の思考は迷路に嵌まり込んでいた。
「なにがそんなに可笑しいのか」
雨声の声を耳に捉えて足を止める。あっ、と小さく声を漏らす。知らぬ間にカエルの背に追いついていたことに驚きつんのめった。
「もう、急に止まらないで下さいよ、いったい何なのですか?」
不意に慌てさせられ小言を言う。危険はないはずでしょう、と眉をひそめる。
「――静かにせよ」
雨声が肩越から視線で注意を促した。笛は直ぐさま腰を落として抜刀の構えを取った。
「何かあったのですか?」
小声で問う。気を周囲に巡らせて警戒するもこれといって危険は感知出来なかった。
「出来るだけ地に伏せて気を抑えるのじゃ」
雨声が命令する。笛は言われるままに身を伏せ警戒した。半信半疑のまま静を保つ。何をそんなにと思いながら暗闇を凝視していると離れたところでガサッと太い枝が
「あれは……」
「しっ! 気を抜くな。まだじゃ」
雨声は注意を払いながらやってきた獣の後方を眼光鋭く見据えていた。
雨声に頷きを返し息を呑んで潜むと、少しの間を置いてまた周囲の木の枝が揺れた。今度は四つの気配を感じ取った。
目だけをぐるりと動かして広範囲を索敵する。四頭は等間隔に距離をとって移動していた。枝から枝に渡り、その都度首を上下左右に動かす獣。そのうちの一頭が近づき笛の真上にある枝で動きを止める。笛は息を止めた。
――猿か。
初見だが聞いたことはある。角を生やした猿のことを。
気配を殺しながら猿鬼を観察する。どうやら彼らの縄張りに入り込んだようだ。奴らは群れで行動する上に人並みの智慧ももっている。笛はこれは厄介なことになったと行く先を案じた。同時に夜陰に紛れて移動していたことの意味も理解した。
「斥候か」
獣の背を見送りながら雨声が息を抜く。
「斥候?」
「しかしこれはどうしたことか」
「雨声様、どうかされましたか。いま斥候と言われましたが」
「本来、あやつらは夜行性ではない。しかも今しがたの動き、あれは露払いの動きじゃ」
「露払い?」
「あれはまさしく行軍の露払い。然らば後には群れの本隊がくる。じゃが……解せぬのう」
カエルが顎をさすりながら目を細めた。
「何が解せぬのですか?」
「我らの向かう先に猿鬼どもの根城があるのは知っておるのだが、それは今ほどやつらが来たのとは真逆の方角、根城に帰るのに斥候もなにもないじゃろうて」
「何かあったのでしょうか?」
「うむ、分からぬのう」
雨声がツルリとした顔に皺を寄せて考え込む。
「こちらは揚羽様の加護で守られ尚且つ夜陰に紛れております。そのように難しい顔をされなくても大丈夫ではないですか? 現に今も間近に迫られながら気付かれませんでしたし」
「笛よ、奴らを侮ってはならぬ」
「はあ……」
笛は首を傾げた。雨声は何を警戒しているのだろうか。
「笛よ、今宵はこの場にてやり過ごすぞ、直に本隊が来る。それを見て以後を計るとしよう」
「この場に留まる? それほど警戒されるのならば、もう少し離れては?」
「侮るな、と言ったであろう」
「あれは猿鬼というものでしょう。初めて見ますが、見たところ然程のこともない。あの様な者の十や二十は今の私でも何とでも出来ますが」
笛はカチリと鍔を鳴らして見せた。
「……まったく、血の気の多いことじゃ」
雨声が口をへの字にして見上げてくる。
「すみません」
「今更じゃがの、笛よ、ここは怪異の世界、あちらとは勝手が違う」
「はい」
「確かに、申すとおり十や二十なら造作もないじゃろう、じゃが、千を超える群れならばどうじゃ? いかなお前でも多勢に無勢、数で押されればどうにもならぬ。我らは軽々に危険を冒してはならぬ。お前を失うわけにはゆかぬのじゃ、分かるな」
「……はい」
「それにじゃ、ことは単純ではない。今回の一連のことには様々な思惑が絡んでおる。大願成就は易くはない。慎重に慎重を喫してもお釣りは来ぬ」
「様々な思惑?」
溢すように尋ねる。内心には記憶の断片が溢れ出していた。自分が何に動かされていたのか、その正体を探った。笛は過去の事象を合理的につなぎ合わそうとした。
「来るぞ!」
雨声が小声で緊張を伝えた。その声にハッとして伏せる。
笛は歯がみする。会話が途切れたことが惜しい。様々な思惑とやらが全て明らかになればもう少し気持ちの整理も出来ただろうに。
――くそっ、また後回しか。
笛はザワつく胸を押さえ付け、無理に気持ちを切り替えようとした。
やがて……、金属がガチャガチャとすり合う音を耳が捉える。それが行軍の音であることは問うまでもない。笛は消化できない気持ちのまま身の安全を最優先にするべく警戒した。
音が近付いて来た。遠くに無数の橙色が見える。光は松明であろう。
連なる明かりと音と獣臭。隊列の意気は揚々と高い。
森の中に浮かび上がる猿鬼の列。大小様々であるが統制の取れた軍勢だった。怪異がこのように陣立てして行軍するなどありえない。それは幻を見せられているのではないかと思うほどの圧倒的な光景だった。
「あ、あれは……」
雨声が小さくおののく。雨声の漏らした声に重なるように笛も「あっ」と声を漏らした。
もうどれくらいの数を見送っただろうか。それは、数多の猿鬼が通り過ぎ、陣容も中程に差し掛かったと覚しく強者の群れを認めたときだった。
笛が見つけたのは、あのグラウンドで蒼樹ハルと対峙していた男と黒百足だった。
――何故だ。何故このようなところに、しかも猿鬼と共に。
男と黒百足は群れの中にある主人を守るように動いていた。
「むむ……聖人殺しとは」
「雨声様、聖人殺しとは何のことですか? もしかすると、あの男のことでしょうか?」
ひそひそと尋ねた。しかし雨声は苦虫をかみつぶしたような顔をしたまま黙して応えなかった。
雨声に聖人殺しと呼ばれた男。何かの曰く付きであろうとは思っていたが、その二つ名を聞けば理解できた。あの日、何故に蒼樹ハルを狙ったのか。その理由は彼に付けられた二つ名が示していた。――聖人である蒼樹ハルを狙った。そういうことか。
「墓守に、聖人殺し……、それに、錦を纏ったあれは……、あれは白眉ではない。じゃがあの猿面は……、猿翁が動く? 何故に……」
雨声が独り言を呟く。笛はその声を逃さず拾った。
墓守……は、おそらく猿鬼どものことだろう。聖人殺しは黒百足を連れた男で間違いない。錦を纏った猿面の者は……謎だが、猿翁なる者が使わせた者であることは理解出来た。見ている陣容はおそらく異様なものだったのであろう、雨声の困り顔をみれば、意図せずこちらに不味いことが起こった事は想像するに難くない。
雨声は言った。一連の出来事には様々な者の思惑が絡んでいると。
笛の頭は、猿鬼の行列を横目に警戒しながら、複雑に絡み合う事象の整理を試みた。この出来事は、黒の後嗣を巡って起きている。その中核にあるのは「鍵」だ。
鍵は、雨の陰陽師に纏わる何かの封印を解くもので、そこには雨一族が喉から手が出るほど欲している何かがあると当たりを付けている。
次に、この出来事に絡んでいるのは……。
黒一族、黒の娘の揚羽、後嗣の自分、雨一族と蒼樹ハルら、そして聖人殺しと黒百足。
始まりは八百年前に遡るが、事態が大きく動いたのは、あの日の、あのグラウンドでの出来事から。緋花と聖人殺しが蒼樹ハルに接触して、自分が介入し、雨一族の陰陽師が今生の雨を殺した。
あの時の、彼の言葉を額面通り受け取るならば緋花と自分の思いは同じだったといえる。
緋花とはなんだ? 朱の花の呪い、カゴメとはなんだ?
もともと緋花は根を生やした草の妖。自力で移動することは出来ない。緋花を動けるようにしたのは他ならぬ黄櫨だ。ならばあの緋花は黄櫨の指図で動いていたはず。
「やはり、緋花は命を受け、黒の姫を救う為に彼を頼った、ということになるのか」
――何百年も鍵を隠しておきながら、今になって最重要である鍵をのこのこと里から出した。黄櫨は何を考えてこのような突飛な行動に出たのか。その思惑の先に何を見ているのか。
強く唇を噛む。次々と疑念が湧き出たまま、またしても思考が迷路に嵌まり込む。
笙子の放出と笛の放任。黄櫨にとって、黒の一族にとって「鍵」とは何なのだろう。器である笙子と中身の笛を朱の呪いで分けていた理由も分からない。
――自分は何に動かされているのだろうか。笛は、強く眉根を寄せた。
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