第31話 小夜月の夢

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 翌朝。

 かすかな衣擦れの音で目が覚める。眠りは浅かった。出陣の朝に至ってなお、殺す覚悟を決められない。意を決したはずなのに未だ迷いの霧は晴れなかった。

「ハル様、ご気分は如何でございますか」

 水差しを手にした騒速が優しい眼差しを向けてきた。

 ハルは寝台の上で身体を起こし自分の両手を見つめた。妖気体だと聞かされていたものの、ハルの身体は生来の肉体となんら変わりがない。体温があり、物に触れることも食を味わうこともできる。馴染む五感は生身以上の感度を有してさえいる。

 騒速が、少しは休むことが出来たのかと尋ねながら水飲みを差し出す。問題ないと答え、ハルは器に口を付けた。勢いよく喉を通過する冷水が心地よく身体の内に染み込んだ。

「騒速、不思議な夢を見たんだ」

 ハルは夢を事実と認識していた。

「不思議な? でござりますか」

 騒速が細い眉を持ち上げてハルの顔を覗いた。

「そうだよ、不思議な夢。なんで不思議かというと、それが僕の夢ではない他人のものだということがハッキリと分かっているからなんだ」

「ハル様の夢ではない夢?」

「僕は見たんだ。これはきっと小夜の夢だ、いや夢と言うよりは記憶を覗いたといった方がいいかもしれない」

 祟り神となった娘と、娘を不憫に思う父親。彼らの過去に何があったのか、雨の陰陽師に纏わる一連の出来事に彼らがどう関わっているのか。藤十郎は部外者とうそぶくが正しくはないだろう。むしろ中核にいるのではないかと思うのは直感でしかないが、存外、的は外していないはずだ。

 小夜の抱えている問題と、後嗣らの確執には何かしらの接点があるはずだ。

 藤十郎は雨の陰陽師について子細を知る者だった。あの時、学校に姿を現したのは偶然では無い気がする。彼は何らかの情報を掴み、ハルを巻き込んだ雨一族と黒鬼一族の諍いに乗じて動いた。理由は当然、小夜を救うためだ。この事態の行き着く先にはきっと小夜を救う手立てがあると考えるのが自然な流れだろう。

 ――この一連の出来事を画策したのは誰だ? 長の黄櫨か、それとも尚仁か。

 数百年も続く遺恨。雨一族と黒鬼一族の思惑が現代で再び交錯している。

 先の黒鬼事件の黒幕は雨一族だった。八百年前の戦も首謀者は明白。雨一族は、火種をでっち上げて右方、黒鬼一族と狛神達を討った。

「騒速、教えてくれないか、核心にある雨の末裔と黒一族の遺恨とは何? 雨一族はどうして執拗に黒鬼一族を忌むの?」

「雨の一族は、血の正当を欲したのです」

「正当? 下らない。そもそも雨は不世出と伝えられていたんだよね」

「しかしながら、彼らは、黒を恨んだ」

「恨む? ……正当を欲して」

 ――揚羽か。

 雨と雨音女の間に生まれた娘の存在は、彼ら雨一族の血脈を真っ向から否定する。揚羽は正当後継者を名乗る雨一族が最も忌むべき存在である。

「そうか、八百年前の戦は雨音女の地位が月桂にあることを遺恨として起こった。いや、正確には月桂が残した血筋を巡って起こされたといっていいのか」 

「如何にもでございます。渦中に二人の女の影あり。事の発端は、月桂と潮の関係性。潮は雨音女になれず、月桂は妻になれなかった。潮も月桂も蟠りなど抱いておらなんだと承知しておりますが、悲恋ののち情念は、いつしか一族の怨念となり確執を生んだのです」

「なるほどね。大凡の話は理解出来た。でも腑に落ちないことがある」

「それは?」

「八百年前の戦、血筋こそが遺恨というのならば黒鬼だけを誅すればいい。狛神にまで濡れ衣を着せて討つ必要はないだろう。それに、左右の戦が起こったのは雨の陰陽師が没してから数百年後というけど、これもおかしな話だ」

「ハル様は、八百年前の戦の動機に疑いを持たれていると」

「そうだね、事が揚羽ら子孫に対する意趣返しというのならば、雨の陰陽師という箍が外れて間がないときの方が理解しやすい」

「それは、そうでございますね……」

「あまりにも時間が経過しすぎている。そのことに何か意味があるとは思えないだろうか? 何故に数百年後だったのか。たとえば、その間、黒鬼一族に手出しが出来ない理由があったとすれば?」

「その理由とは?」

「騒速、それをいま、僕に尋ねられてもね」

 肩を落として溜め息をつく。ハルは首を傾げる騒速に苦笑を返した。

 子細については当事者らに聞くしかない、ハルが目を細めると、騒速はハルの顔を興味深そうに覗き込んだ。

「八百年前の戦のあと、黒鬼一族は山奥の隠れ里に潜んだと聞いたけど、それが何故今になって動き出したのかというのも気になるよね」

「黒は雨様より遺言を託されていたと驟雨殿に聞かされております。今になっての動き、それは雨様の遺言に従っているのではないでしょうか」

「その遺言って?」

「さて、その内容までは……」

「騒速も聞かされてないのか。まったく、君らの生みの親ときたら。物知り顔でいつも高みから見物して愉しんでいる。あいつのあの態度って、ホント、むかつくよな」

 驟雨の露骨な本性を垣間見た。ハルは歯がみをしながら、くしゃりと髪を掴んで項垂れた。

「騒速、遺言の中身は分からないけど、それでも手掛かりはあるよ」

 気を取り直し顔を上げると、騒速が口を引き結び居住まいを正す。ハルは、学校で起きた事を掻い摘まんで話した。

「つまりはこういうことでしょうか、黒の後嗣、笙子という者が鍵。黄櫨は緋花という妖花を使い、ハル様の元に鍵を届けた」

「尚仁さんと仙里様を囲いながら、姫を救って欲しいと訴える。黄櫨の思惑はまるで分からないけど、雨と目される者に鍵を送った理由は思いつく。それはおそらく遺言に纏わるものではないだろうか」

「雨一族が求め黒が隠してきた鍵、遺言とは鍵に由来する何かだと」

 騒速の力強い眼差しを受ける。 

「雨の遺言とは何か、僕はこれが全てを解き明かす文字通りの鍵だと思うんだ」

「そういえば、翠雨宮の最深部には雨様が封じた門があるとか」

「スイウグウ?」

「雨一族の本拠、雨の宮の最奥にある社のことでございます。――よもや鍵とは封印を解くための……その宮に、ハル様に残した何かが……」

「騒速、それは正解ではないかもしれないよ」

「はて、それは?」

「黒鬼事件のときに尚仁さんはこういった『雨の逸話は寓話に過ぎない』と。それから驟雨も言っていた『雨の再誕など無い』とね」

 ハルは真正面から騒速を見つめた。

「ハル様」

「騒速、悪いけど僕は雨じゃない」

「……ハル様」

 騒速は無理強いをしない。宴の夜もハルに雨たらんことを望まないと話した。しかし、口ではいっても内心は少し違うのだろう。騒速もやはり雨の陰陽師の陰を追っているのだ。

「騒速、よく考えてみてよ、雨は君達二刀を後世に残した。更には雲華も真神も狛神も。雨は自分に縁のある者を全て後世に残した。でもそれは僕がこの世に生まれてくるのを知ってのことじゃないんだと思うんだ。もしも後生に雨の後継者が生まれてくることを知っていたならば、こんなくだらない諍いは起きなかったと思うんだ。だってそうだろ? 新しい雨が血筋の中から出現しないことが分かっているのならば、系譜による正当を争う必要などないじゃないか」

 ハルが話すと、騒速は「確かに」と短く呟き頷いた。

「君らはあまりに先代に引っ張られ過ぎている。僕を雨の後継という色眼鏡で見すぎている。僕はただの高校生なんだよ」

「……ハル様」

「卑屈になっているのじゃないよ、騒速。僕はみんなのことが好きだよ。慕ってくれるのは嬉しいとも思う。家族を亡くした僕に新しい家族が出来たようにも感じているよ。でも、正直なところ気持ち悪さもあるんだ。だっておかしいだろう? 今ではさ、敵対した破笠さんら赤鬼達も僕を慕ってくれている。なんだって皆は僕をこれほどまで慕ってくれるのだろう?」

「ハル様、それは」

「僕が『雨』だからかい?」

「ハル様、それは違います」

 気丈な騒速が先に視線を外した。その僅かな動揺は図星を付かれたからに違いない。ハルは「ゴメンね、少し意地悪だったね」と心の中で呟いた。意を感じ取ったのだろう、騒速がハッとして顔を上げた。

「ハル様……」

 騒速が名を口にする。なにか物言いたげな口元を見てハルは首を軽く振った。

「騒速、僕の事は置いておこう、君は僕を雨様とは呼ばない。僕はそれで救われているところもあるんだ。当然として君が雨様を慕っている気持ちもそのままでいいんだよ。雨様は雨様、僕は僕。もし君がこんな僕にも寄り添ってくれるというのならば、どうか力を貸して欲しい。僕はもう逃げない」 

 ハルが笑みを向けると騒速は黙したまま目を伏せ頷いた。

「ハル様、今後は如何なされますか」

「流れに乗って動こうと思う。真に天意というものがあるのならば、足掻いたとて仕方ないとも思える、と言いながら僕は定めなんて信じないんだけどね。ともかく、このままではダメでしょう。僕の身体は小夜のお腹の中でいつ消滅してもおかしくないわけだしそこをまず何とかしなくてはね」

「土蜘蛛討伐の後に小夜月の呪いを解くということでよろしいのでしょうか」

「それでいいと思う。まだまだ分からないことが多いけど、小夜の呪いを解こうと動く先に、黒が秘匿し続けてきた遺言と鍵の話が関わってくると僕は踏んでいる」

「紫陽と仙里殿のことは如何なさいますか」

「大丈夫、仙里様には紫陽が付いているし、それも驟雨の企てなのだろう。黄櫨にどんな思惑があるかは知らないけど、虜囚を無下に扱うようなことは無いと思う。なに、この一件に黒の長が絡んでいるならば、どこかできっと対峙せざるを得ないさ」

 異界の地で妖怪もどきになりはてたせいか、必死の戦いを経たせいなのか、ハルの感覚は研ぎ澄まされていた。以前は薄らとしか感じられなかった力のようなものを今は知覚している。この感覚は目覚めというのに似ているのかも知れない。

 その鋭敏な感覚がハルに時局の切迫を知らせていた。猿翁は見抜いていた。ハルも同じように感じていた。見て取れる兆候、小夜に残された時間は僅かであろう。酷く嫌な感じの胸騒ぎがする。今度こそ取りこぼしは無しだ。ハルは深呼吸の後に強く拳を握った。

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