3章 開眼

第13話 夢中の灯火

       -13-


 黒の姫について子細を聞いたのは、父親が身罷みまかるちょうど一年前のことだった。父親は不治の病に冒され余命幾ばくもない状態だった。

 晩夏の夜更け。

 アパートの一室で孤独を抱え暗闇を見つめる。

 息が苦しいのは、残暑にも衰えぬ熱波のせいばかりではない。

 気力を果たし壁を背に膝を抱えて下を向く。

 砂埃が貼り付いてザラつく肌、制服に斑を残す血飛沫の染み。

 血塗られた制服は戦いの記憶を留めたまま乾いていた。鼻孔から離れぬ鉄の匂いは笙子のものではない。蒼樹ハルが流した血の残滓である。

 ……リリ、リリリ。

 微かに聞こえてくる虫の音が笛を闇へと誘った。

 取り巻く闇の中に独り立つ。何も見えない、僅かな音も聞こえなかった。

 その無機質な闇の中で、笛は求めるように手を伸ばした。

 程なく遠く先の方に淡い光が灯った。

 笛は父の気配を感じ取り、明かりに導きを求め背を追いかけた。

 全力で駆けた。それでも、どんなに息を切らせて急いでも灯火には届かない。

 追い求めて焦燥する足と、離れていく大きな背中。

「父様、待って!」

 張り裂けそうな喉が叫び訴える。だが背中は振り向くこともせず、どんどん離れていった。

 灯火が消えると一人その場に取り残される。彼女は再び暗闇に閉じ込められる。

 胸を締め付けるような寂寥感。笛は再び覆い被さる闇から圧迫を受けた。

 薄ら寒いその場所で孤独を抱えたまま迫る闇に溶かされていく。笛は成り行きに身を委ねた。虚無感に身を包まれて嗤う。――このまま、何もかも捨ててしまおう、黒鬼一族のことも、姫のことも……。

「父様……」

 乾いた唇が無意識に呟いた時だった。不意にあの夏の出来事を思い浮かべる。父の言葉が脳裏に蘇る。「笛、道は己で切り開くもの、辿り着くためには自分の足で歩くしかないのだよ」

 笛は歯を食いしばった。もうあの頃の自分ではない。負けたくない。

 意を決して立ち上がる。笛は必死になって暗黒世界の中を走った。何かが顔を叩き、何かに足を取られる。いつしか、笛は迷いの森の中をさ迷うように駆けていた。

 笛は走りながら考えた。止まってはいけない、と、ひたすらに走った。

「……私は、いったい何をしたのか、何をすれば良かったのか」

 恐怖が笛を追い立てる。ふつふつと湧き上がる自責の念。

 なぜ、なぜ、なぜだ……。

 あの時、貫いた太刀に感じた手応え。ついにと、達成感を得た。だが、やり遂げたと安堵したのも束の間のことだった。充足からくる震えは一転して恐怖に変わった。

 なぜあのようなことが……。

 あれは黒の姫を苦しめていた化け物。傀儡であるはずの緋花が、敬愛する主人の姿に変わるなど……。

 笛は首を左右に振る。無理だ、あり得ない。何人たりとも、あの様なことを予見出来るはずが無い。あれは回避できない事故だった。

 ……事故だ。

 そう、何度も何度も自身に言い聞かせていた。

 笛は肯定したかった。事実、緋花は消失した。これで朱の呪いは消えたはずだ。

 実際、笙子も傷を負ったが死ななかった。結果、無事に雨の一族に救われたならば大団円ではないか。

 笛は納得したかった。自分が成し得たことは間違いではないはずだ。――それでも、何故だか分からないが心から霧は晴れない。

 足が止まると心も閉塞する。再び、深く、深く、沈みながら闇に溶かされていく自分の輪郭。笛は歯を食いしばり、振るえる拳を握る。

「私はいったい何を、してしまったのか」 

 眼を開き顔を上げると、僅かに開いたカーテンの隙間から薄い光が差し込んでいた。

 ――月の光、か。

 傍らに置かれた太刀に目が留まる。笛は、雨一族の男の言葉を思い出した。男は太刀を眺めて紛い物だと断じた。しかしありえない。そんなはずはないと首を振る。それは、「小烏丸を手に取れ」と教えた父の言葉を信じているから。 

 父は生き様の全てをひっくるめて誠実だったと言える。不器用さは実直と背中合わせだった。融通が利かないということは自身に嘘をつかない性分の現れだった。その様な無骨で愚直な父のことが笛は大好きだった。

「お前は、本当に母親によく似ている。大きくなればなるほどますます似てくる」

 そういって父親はよく笑った。

「当たり前だよ。親子なんだから」

 返す言葉はいつも同じだったが、そのとき笛は、いつもと同じように幸福感に包まれていた。

 母に似ていると話す父の顔には決まって幸せそうな笑みが浮かんでいた。そこからは父の愛情と共に母の有り様も感じ取ることが出来た。

 笛の記憶に母親の姿はない。母親は彼女が物心がつく前に死んだということだった。母の死が事実であると確信している。父は決して嘘をつく人ではないから。

 笛は母親のことを求めなかった。知りたいと思ったことは何度もあったが胸の内にしまった。あの父が母について何も語ろうとしないのならば、そこには余程の事情があるのだろうと察していたから。だから、一度も母親のことについて尋ねることをしなかった。

 もちろん日常の中に淋しさはあったが、母無しによる空虚はなかった。笛は母の存在を確として心に留めていた。

「――もういいよね。父様、これでいいんだよね」

 手元に目を落とす。父親の言いつけによって手に入れた、それは言わば遺品。その太刀を見つめて呟くが、剥き身の太刀は無機質な沈黙を返すばかりで期待には応えてくれなかった。

 笛は与えられた役目を果たした。偽物は死んだ。これにより雨の二刀は解放された。これから太刀は新たに主の選定に入るはず。鏡にしてもそうだ。二柱の神もそうなるだろう。経緯は褒められたものではないが、これで雨の伝承は正規の道程へと軌道修正されたはずである。

 間違えた天意は、今度こそ真に雨の陰陽師たり得る正当な後継者に降りる。

 鏡の所在はもう知れている。神と鬼と太刀、雨の脇侍も左右共に全て出揃っている。ならば次は、選ばれし者が過去の遺恨を捨て去り新たなる未来へと進む番だ。

 残す条件は雨音女か。今生に出現した乙女は既に鬼籍に入っていたが、これは問題にはならないだろう。雨の陰陽師となる者の側には自然と資質を有する者が現れるというのだから。乙女は雨に選ばれた者のことをいうのだから。

「――笛、雨音女がお隠れになったそうだ」

 六年前だった。肩を落として父は話した。

「それでは父上、雨様はもう出現なさらないのですか?」

 父に合わせて話しながら十歳の笛は軽い調子で相づちを打った。この時は、雨音女の訃報を他人事と聞き流していた。事態の重大さが理解出来なかったのだ。

 笛にとって雨音女の話は、お伽話として聞いていた恋の物語でしかなかった。

「笛、雨音女はな、雨に導かれて雨様を見つけるのだと伝えられている。そうして恋をするのだと」

「……恋?」

「あ、うん。そう、恋だよ。恋とはね、とてもその人のことを好きになることなんだよ」

 狼狽を交えながら恋心を説明する父親。娘は、ほら頑張って、と心の中で応援した。

 父親は娘の顔を見ながら照れくさそうに雨恋の話を続けた。その顔が可笑しくて可愛くて笑いを堪えるのが大変だった。

 十歳の少女は父親が思うより早熟で大人になっている。学校で聞く恋バナは雨音女の逸話よりも刺激がある。お伽噺など然程面白みもない。しかしながら、父の口から語られる雨音女の話は、笛にとって大切な父との思い出と共にあった。

 雨様と乙女との恋の物語、それが雨恋あまこいの語り。

 雨乞いの儀式とは、竜門を開き、天意を受け、免状を賜るというもの。そうして雨がこの世に降る。これは黒の一族の中でも中心にいる者だけに伝えられていた秘事であった。

『――天啓を受けた者は、脇侍たり得る者を見つけ契る。これが導きというものだ。やがてその者は千里眼を得て右と左を整えることになる。こうして資格を得た者は、全てが揃いし後に、鍵を用いて竜門を開き免状を受け取る』

 唐突に笛の頭の中に男の声が浮かび上がる。ハッとして顔を上げた。

「何故だ?」

 笛は暗い部屋の中で眉根に深い溝を作った。なぜ物の怪風情が黒が秘めてきた伝承を知っているのだろうか。あの男はいったい何者なのか……蒼樹ハルの命を狙っていたようだが……待て、それにしてはおかしい。なぜ連れの大百足は私に向かって牙を剥いたのだ。

 次々と胸の中に湧いて出る疑問。

 雨の陰陽師とは何だ? 正当後継者とは如何なる者をいうのか。

 頭の中にキーワードを並べて事象を整理する。雨に成るために必要なことは、資格を得ること。雨になろうとする者は、左右を整え……、待って。

 必要なものは、鏡と、左右の者達と、雨音女。

 いま、足りないものは、雨音女、いや、揃えるべき物はまだある。

 雨一族の男は、笙子のことを鍵と呼び、見つけ出したとほくそ笑んだ。

「どういうことだ? ……鍵?」

 雨たる者は、全てを揃えた後に天啓を受ける。その後、鍵を用いて門を開く。雨の陰陽師になるための最後の条件が、鍵。――その鍵が笙子、なのか。 

 分からない。笙子は右方頭首の血筋ではあるが、それがどうして鍵と呼ばれているのか。笙子だけが鍵たり得るのか、それとも、代々の黒の後嗣が皆そうなのか。

 笛は伝承を手繰った。八百年を遡りあの呪いの発端となった戦の記録を探った。

 雨様の死後に雨の陰陽師の出現は無い。誰一人として雨にはなれなかった。それは、黒様が鍵を秘匿し生誕を阻んだためなのか。

 あの敗戦の後も黄櫨は何百年ものあいだ朱により後嗣を隠してきた。

 長きに渡る黒鬼衆と雨一族の確執。その原因は……もしかすると、鍵を巡ってのことなのか。黒鬼衆は何らかの意図を持って雨の末裔から鍵の系譜を隠してきた。根本はそこなのか。

「代々の血筋を隠さねばならなかった理由は何だ。雨一族の中から雨の陰陽師を輩出させない為なのか。でも、なんで?」

 笛は、蒼樹ハルを殺した男のしたり顔を思い浮かべた。

「――私は、填められたのか……」

 もしかすると、とんでもないことをしでかしたのかも知れない。

 思い至った勢いのまま立ち上がりバスルームへと走った。栓を全開まで捻り水を出すと、笛は勢いよく打ち付ける冷水に頭を突っ込んだ。

 忽然と姿を現した黒鬼の姫。笙子は死人のように眠っていた。真に黒の呪いが解かれたのならば、笙子も黒としての力を取り戻しているはずであるが、そのような気配は微塵も見えなかった。笙子は確かにそこに存在していたが生死は不明。まるで人形のようであった。

 黒鬼衆の長、黄櫨が緋花を蒼樹ハルに面会させたことの意味は何だ?

 蒼樹ハルが雨なのか? ――否だ。ありえない。

 彼はこの夏、ついに解法を成し遂げたというが、実際に黒様を解放したのはあくまでも神器、騒速の力であろう。彼は在り来たりの人間だ。彼には力など見えなかった。

 あの笙子は本物だったのか? ――是だ。見紛うことはない。

 朱の呪い、カゴメとは何だ? 鍵とは何だ? 自分は何に動かされていたのか? 何のために働いていたのか? 誰が、何のために、どんな理由で……。

「分からない。八百年の長きに渡り隠してきた『鍵』をどうして、今になって。黄櫨様は如何なる理由で姫を世に解き放ったのか」 

 雨の陰陽師とは如何なる者か、鍵とは何か。

 雨一族は欲していた「鍵」を手に入れた。これにより雨乞いの儀式が可能となった。一族は、ついに雨の陰陽師を迎え入れる事が出来るようになった。

「いや、まだだ。鍵を手に入れても竜門は開かない。まだ全て揃ったわけじゃない」

 笛は雨一族の中に雨音女の姿を見たことがなかった。だからといって、その存在の有無を問えばどちらにも根拠を持たない。

「雨音女は資格を得るために取り揃えるものの一つでしかない。それは言わば添え物。彼女の存在を隠すことに意味など無いだろう。乙女はいない」

 その結論は直感でしか無かった。それでも雨音女は未だ不在であると思えていた。

 そういえば、蒼樹ハルは、話の中で一瞬だけ、戸惑いを見せながら笙子を見ていた。彼は笙子のことを雨音女と勘違いしたようだった。

 そんな彼に、笙子は乙女ではないと教えた男がいた。

 男と蒼樹ハルとの途切れた会話。続きを聞き逃したことが悔やまれる。この娘は、と笙子を見て男は語り始めた。何を話そうとしていたのか、どんな曰くを知っているのか。

 ――これは、あの男に聞くより他はないのか。

 笛は上を向いた。まだ、自分には成すべきことがあるのではないか。それが何かは今はよく分からないが、やらねばならない気がしている。

『緋花は忌むべき者だ。長の屋敷に眠る黒様の太刀を手に入れ、主を、そして自分を護れ。これは八百年続く悪しき因果。お前のその手で黒の業を断ち切れ。きっとそれがお前の定めなのだ』

 父の遺言を思い出していた。手掛かりはきっと父の言葉の中にある。本来ならば何故そうしなければならないのかという理由も含めて事情を語っておくべきところではあるが、父は話さなかった。余程の事情があったに違いない。話すことを厭うて、だから最後の最後まで、今際の際に至っても訳を話さなかった。

 父親は滅びに向かう一族の中にありながら定めに流されるを善としなかった。独自に何かを探っていた節があった。父はきっと黒と雨一族の因縁について何かを掴んでいたに違いない。それが何であるのかを考えて思い当たることがあるとすれば……。

「そうか、雨音女か」

 雨の陰陽師に成るための、最後のピースである乙女。雨音女などただの愛玩の者にすぎないと思っていたのだが、どうやら違うようだ。雨音女が死んだと話したとき、父はこの世はもう終わりだと言わぬばかりに落胆していた。

 バスルームから出た笛は衣服を濡らしたままで窓辺に立った。その場所で鞘に収められた太刀を手に窓から夜空を見上げる。

「これほどまでに美しい月が出ていたとは……」

 笛は、全てを語らなかった父親の行いに温情を感じていた。

 いま、目の前に解くべき謎がある。これは道標だ。

 奮い立つ。雨一族の手から笙子を救わねばならない。嘆いている場合ではない。この手で因果を紐解き父の遺言を全うする。その為にまず父の背中を追おう。手掛かりはあの大百足と男、そして雨音女。未だ姿が見えぬ「乙女」こそがこの謎を紐解くための要となっているはず。

 必ずやこの手で黒の業を断つ。笛は小烏丸の柄を握り締めた。

 先ずは笙子を奪還せねばならない。雨一族が雨音女を見出すよりも早く鍵を奪還する。

 深夜、窓から遠くを眺めれば、密やかに寝静まる町並みがみえた。

 自分の足下にある世界とはまるで異なる平和な景色を眺める。そこで笛はふと目を奪われた。何かが、ふわりふわりと舞ながら視界を横切っていく。

「……黒揚羽?」 

 笛は胸の内に畏れを抱かされていた。

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