第2話 朱の花
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山間を抜ける乾いた風に波立つ野原の花々。
時は夜半。見渡すは四方を夜色の山に囲まれた小さな集落。今では僅か数戸の建物が侘しく点在するだけになったこの土地で、黒鬼の一族は細々と血脈を繋げてきた。
器と呼ばれる稚児は無事に十の歳を数える少女へと育った。
淑やかに笑む姿は幼さを面に残しながらも美々しい。この、黒鬼の後嗣である当代の姫も、やがては立派な黒の女となり時を待つことになる。そうして必ずや大願成就を……。
緋花は嘆息する。もうどれくらい、この光景を見続けてきただろうか。
長いながい時の経過を思う。偲べば悲しいことばかりを思い起こさせられるが、緋花に与えられた時間の全てが不幸で埋められていたわけではない。この場所で生を授けられて幾年、記憶の中には確かに幸福な時間もあった。故に彼女は、今宵の話を聞き流すことが出来なかった。
何者の動く気配もない平静を保った闇夜であった。
傍らでは、風に吹かれた枝葉がサワサワと密かな音を立て、夏虫たちが慎ましやかに鳴き声を奏でる。
普段なら緋花も共に優しい風を歌うところであるが、今夜は繊細さの欠片も持たぬ天然ものとは一線を画した。彼女は共にと誘う雑音に構うこと無く聞く耳を澄ませ会話を拾った。
――そう、たとえ、聞こえてくる話が終焉を告げる悲報であったとしても緋花は聞かずにはおられなかった。
「
老婆の声は掠れながら震えていた。
「
驟雨と呼ばれた男は声色を変えること無く淡々と答えた。
この驟雨という物の怪について、どうやら今は亡き古の大陰陽師と何かしらの縁を持つ者と理解はしていたが詳しくは分からない。
その彼に真偽を問うた者、墨衣とはこの黒の一族の長を務める老女で名を
生みの親である黄櫨の低い声を聞き緋花は胸を痛めた。憂える。あの娘はこれからどうなるのだろうか……。ただでさえ、器と呼ばれる者の寿命は人ほどに短いというのに、それにもましてあの娘は身体が強くないのに。
後嗣の娘は、これまでも度々、病を罹っては床に伏せていた。
彼女は慮った。今生に黒鬼の力を受け取ることさえ出来れば少しはマシになるのだろうか。
それでも――、
黄櫨の声は絶望により湿っていた。元より希望など持てぬ一族であるが、
空気がことのほか重苦しかった。
緋花はこれまでの数多の血脈を数えた。――雨様の没後千数百年。何故、この者らはこのような事を繰り返さねばならないのか。あの娘にも、その前の者達にも何の罪もないというのに。
彼女は痛みをはらんだ悔しさを抱きながら黒鬼らの歴史を振り返った。
史上の出来事について詳細は知らない。草の者である緋花はこの地を離れることが出来なかったから。なので戦場で起こったことについても、知り得ていることは伝聞でしかない。なれど、実際に目の当たりにしたように思い起こすことは容易かった。生きてきた千数百年の間に聞きかじった話を繋げていけば大凡の物語を紡ぐことが出来るのだ。
――雨の陰陽師の右方と称された黒鬼一族の没落。
今から遡ること八百年前、雨の陰陽師に従っていた者の子孫の間で戦が起きた。その戦に破れた黒鬼一族の長は、死に際に呪いを掛けられ力を封じられてしまう。これが黒鬼衆の惨めの始まりとなる。
残された者達は全国各地へ散り散りに逃げ命を繋いだ。この里の長をする黄櫨も落ち延びた者のうちの一人である。ただし黄櫨は特別であった。彼女は族長に後嗣を託された者であった。
当初は反転攻勢を唱え武器をもって挑んだ者もあったようだが、呪いによって奪われた力なくしては反撃も叶わず。多くの者が無様に破れ、恨みを抱きながらこの世を去ったという。
やがて一族は、方々に身を隠しながら力を取り戻すことを考え始める。だがしかし、途方も無い時間と労力を用いても黒鬼の魂魄と共に封じられた力を奪還するには至らなかった。それ程に敵の呪術は強力であった。
呪いに囚われた魂魄は、今も時折訪ねてくる猫の怪異のうちに収められていた。猫の話によると、六つに分けられた魂魄を集めること自体は造作も無いことらしい。ただし、集めた上でいざ呪いを解こうとすれば、左方に属する神器を所持する彼女であっても、これは至難であるということであった。
「雨音女の再誕を聞き、胸を躍らせて幾ばくか、ようやくだ、……ようやく黒様の思いが叶うときが来ると、なのに」
「黒の願い。黒だけに伝えられた雨殿の遺言か」
老婆が嘆き、男が知ったふうに応えた。
「朱に染めてまで隠してきた血筋。黒鬼の矜持を捨て去り、人ほどに弱体となっても己が定めの為にと宿命を受け入れてきた子らの思いもついにここに果てるのか……」
「終わりか」
「終いじゃ。もう持たぬ。最後の希望である後嗣の娘に残された時間は多くない。殊にあの者は身体が弱い。おそらくは子を持つことは叶わぬであろう」
「そうか、ついに限界を迎えるか」
驟雨がサラリと破滅を口にした。その言葉の後に黄櫨が声を発することはなかった。
しばらくの間、葉擦れの音と虫の音だけを聞く。
花畑の中で、胸に締め付けられるような痛みを感じながら緋花は風に吹かれた。もう何事も考えることが出来なくなっていた。
そうして、どれくらい時間が過ぎただろうか。その空白は短いようにも長いようにも思えた。
「――雨様」と、老婆が溢したのと同時に驟雨が口を開く。
「しかしのう、墨衣よ、限界というのならばそれはなにも黒に限ったことではないであろう」
「はて、異なことをいう。それは?」
「これまでも、先代が再誕されることなどないと申してきたが」
面白がるようにして意味深なことを口に出した驟雨。その言葉を受けた黄櫨の疑義の感情が屋敷の外まで漏れ出してくる。
「さればよくよく考えてもみよ、右方だの、左方だのといっても所詮は先代との縁。先代は遠い昔に死んだ。先代が亡き後にもその縁に縋るはそもそもに可笑しきことではないのか」
「そのようなことは……。であるが驟雨殿、それを言ってしまえば元も子もないでは――」
「お前達には先代の遺言がある。なのに何故に今更、雨殿を探すのだ。それにだ、雨音女が隠れたからといって全てが終いとは限らぬであろう」
「さりとて、我らは既に手立てを持たぬ。唯一極楽に通ずる蜘蛛の糸を必死で手繰って生きてきた我らにいったい何が出来るというのか……。のう、驟雨殿よ、教えてはくれまいか、雨様は、親方様は我らに何をせよというのか、このように非力な我らに何が残されているというのか」
細い声だった。形骸に縋るような老婆の嘆きは、どこに受け止められることもなく夜に吸い込まれた。
「そのようなことは知らぬ。黒が滅ぼうが、縁者らがどうなろうが興味はないでな」
「……そう、であったな。お前は、いや、お前だけではないな。あの猫もか」
「猫? おお、あやつか。ここであやつが話に登るか。して、あやつは何を」
思いがけずといったところか、愉快と言わぬばかりに驟雨は言葉尻を踊らせた。
困惑したのだろう、語調を受け取った老婆は短い呻きのあと押し黙った。
「黄櫨よ、あの仙狸はなんと?」
再び胸躍らせるように驟雨は促す。
「黒鬼が騒ぐ、今回は骨を折るやもしれぬ、と……」
老婆は声を曇らせ訝しげに猫の言葉を伝えた。
「あやつが骨折りとは。ククク、これは面白いことを聞いた」
「面白い?」
「いや、なに、気にするな。こちらのことよ」
黄櫨は絶望を嘆いた。聞き耳を立てていた緋花も同じように泣いた。
黒にかけられた呪縛を解放しうるのはただ雨の陰陽師のみ。今宵、その雨を探すことが出来るこの世で唯一の者の訃報を聞く。これで蜘蛛の糸は切れた。黒に残された時間は全て空虚のものとなってしまった。
「そういえば黄櫨よ、黒一族の者の中にも定めに抗う者がおるようだが?」
「……おるにはおる。諦めの悪い男が一人だけ。じゃがこうなってしまえばもう如何ともしがたいであろう。その者、
老婆の湿り声はそこで止んだ。
――時が過ぎる。雨音女の喪失からおよそ六年が過ぎた。
この夜もまた花畑から恨めしく夜空を見上げた。
緋花はその黒い夜の中にほのかな光の輪を見つけ、黒の命運が定まったあの夜の出来事を思い出した。
一面の漆黒の中に淡い光の輪郭を持つ黒い月が浮かぶ。その様子はまるで、覗かせる闇の中に何物をも吸い込んでしまうような穴があいているように見えていた。
脱力した緋花は萎れるようにして下を向いた。やるせない新月の夜だった。
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