第8話 禍への知る辺
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残暑の午後。
停滞する暑気を窓から流れ込む風が音なく払いカーテンを揺らす。二人きりの教室はどこか寂しげだった。
見つめる先で朱髪の少女が目を開いた。
ふと疑問を持った。彼女も鬼の血を引く者なのだろうか。
でも……。
「雨さま?」
「あ、ああ……」
それならば……、先程耳にした「救う」の言葉と今聞いた「雨」の呼称、抱いた嫌な予感はどうやら勘違いではないようだ。
「突然押しかけてごめんなさい。私、雨さまにお願いがあって来ました」
少女の縋るような眼差しがハルに切実を訴えた。成り行きに対して反射的に息を呑む。ハルは自然に身構えてしまっていた。
「君は……、君も雨の陰陽師にゆかりのある者なのかい? どうやら君は人ではないようだけど」
あやふやに尋ねたのには理由があった。目の前の妖怪と思える少女の本性が見えなかったからだ。仙里は妖怪である。茜は呪力を扱い人知を超えた超常の力を発現させるが彼女の本質は人間であった。この少女については……、
今のハルは人と
発せられる妖気はちゃんと見て取れるのに何故だか少女のことを妖とは言い切れなかった。彼女は見た目は完全に人であるのに存在は明らかに人間ではない。それで少し迷うことになっていた。
「私は緋花、黒の里から来ました」
「ヒバナ?」
「緋色の花と書いて緋花です」
「それが、君の名前なの?」
以前ハルは妖怪が仙狸と名乗ったときにその呼称を名前だと勘違いしたことがあった。その出会いが鬱屈させる今の境遇の発端となっている。妖怪に対するときに軽々しく名を扱ってはいけないということも学んでいた。
「名前?」
少女がちょこんと首を傾げた。
「君は、妖怪だよね? 僕はね『緋花』っていうのが君の、その、種族の名前なのか、それとも君自身の名前なのかを尋ねているんだよ」
「雨さま、私達に名などありません。緋花というのは私達全てをひっくるめて言い表したものです。それに私は、私達の群れの一部分でしかありません。ですから私のことは緋花、と呼んでくださって結構です」
少女はハルの意図するところを汲み取りニコリと笑った。無邪気なその笑顔に誘われてハルも思わず笑みを返してしまう。
「緋花、さっき君はお願いがあると言ったけど」
「はい、雨さまにお願いがあります」
「それに、黒の里って。……それは、もしかして右方の黒鬼と何か関係があるのかい?」
「雨さま、どうかお力をお貸し下さい。黒の姫様を救って頂きたいのです」
「黒の……姫を、助ける?」
既に黒鬼の呪いは解かれている。あの日、仙里の中に収められていた呪いの魂魄は大刀の力によって浄化された。八百年もの間、呪いに囚われていた黒鬼も解放され昇天したはずである。全ては終わったはず、なのに何故、今更このようなことになるのだろうか。
再び祈るように胸の前で手を組む緋花を見る。少女の切なる思いをハルは複雑な思いで見ていた。救いを求める者がいるのならば、それが人であろうと妖怪であろうと変わりなく助けたいと思う。その気持ちに偽りはない。だが実際は、助けたい思いだけではどうにもならないことを黒鬼の一件において思い知らされていた。
目に映す緋花のはにかみに、救えなかった少女の哀笑が重なる。ハルは激しい心の痛みに堪りかねて胸を押さえた。腕の中で儚く消えていった少女の姿が脳裏に生々しく蘇っていた。
「雨さま? どうかされましたか」
「あ、いや、何でもないよ」
悪い予感がしていた。また雨の陰陽師に縋る者が現れた。否応なしに情況に取り込まれつつあるのではないか。
人の世界の外側から現れ、手前勝手に難題を押しつける。繰り返す波のように続く妖怪がらみの出来事、これは、もはや呪いといえるのではないか。
ほとほと嫌になった。ハルは今でも心の内で「雨の陰陽師」を否定していた。雨と呼ばれることに抵抗があった。
そもそも陰陽術など知らないし、伝説の太刀とやらも扱えない。おとぎ話とも思える遠い過去に超常の力を発揮した男の話など知ったことではない。その代替になろうとも思わない。
「雨さま……」
「ごめんよ。僕にはどうすることも出来ない」
答えると、少女の目が戸惑いと共に見開き、可憐な唇から細い嘆きが漏れた。
「そんな、雨さま」
「ごめんよ」
「お願いです。お願いします。どうか助けて下さい。これは雨さま以外は果たせぬことなのです。黒の者達の、彼らの最後の希望を叶えて下さい」
「僕は君達を救える力なんて持っていない。雨さまでもない。たまたまなんだ。僕は雨の陰陽師の縁者達と出会って黒鬼の事件に関わってしまっただけの者なんだ」
ハルは肩を竦めた。きっと今、みっともない顔をしているのだろう。不甲斐ないし、情けない。けれど仕方がない。ハルは自分の非力を自覚している。これまで幾度も死線を掻い潜ってきたが、それはただ運が良かっただけのこと。怪奇に対して為す術など持たない。
こんな自分を見て仙里はなんと言うだろう。
ふと、仙里の揺るぎのない瞳を思い出す。仙里はいつも弱ったハルを鼓舞した。
その時々に、どのような意図があったのか、辛辣かつ挑発的に話した彼女の本心は分からない。ただ、彼女の直線的な言動は常に事態の本質を突きハルの迷いの霧を払ってくれた。
「たまたまだなんて」
「ある日、僕は仙里さまに出会った。そして
「それでも! ……それでも雨さまは二刀を従えた。二柱も新たな主としてあなたを認めたではありませんか。それに何より、あなたは『雲華の
「成り行きだよ」
「成り行きだなんて、それは違います。あなたは呪いを解いて黒様を助けた。そんなこと誰にでも出来る事ではありません。あなたは、あなたこそが――」
「あれは、騒速がやったことだよ。僕の力ではない」
「……雨さま」
「やめてくれ」
「…………」
「僕を雨と呼ばないで。僕は蒼樹ハル、雨さまなんかじゃない。僕は僕だ。僕は普通の高校生なんだ」
「……雨さま」
少女から萎える声を聞く。ガクリと肩を落とし俯く姿が痛々しかった。お願いだからそんな悲しい声を出さないでと心の中で語りかける。ハルは口を噤み少女の思いを断ち切るように席から立ち上がった。
「ごめんよ」
ハルが項垂れるように頭を下げたその時だった。誰かに名を呼ばれた気がした。
『……見つけたわ、ようやく』
また聞こえた。音ではない。直に心に触るような、これは声だ。
感覚が受け取ったその声は喜んでいた。
声のする方を向くと屋外に凄まじい妖気が立ち上る。命の危険を背中に走った電流のような刺激が教えた。すかさず窓から外を覗う。同時に世界が暗転した。次に起こったのは地響きと振動だった。立っていられないほどの揺れに襲われハルは必死に窓にしがみついた。
「蒼樹ハルだな」
今度は背後から名を呼ばれた。振り向くと着流しに雪駄を履いた奇妙な男がこちらを真っ直ぐに見ていた。歳は三十代半ばといったところだろう。蒼白の整った顔立ちに切れ長の目。淡泊な微笑みを浮かべたその顔は、男の冷酷さを如実に示しているようだった。
「誰だ?」
「探したぞ、蒼樹ハル」
「何故、僕の名を呼ぶ。僕はお前なんか知らないんだけど」
尋ねるが男はフッと笑みを浮かべるだけで答えなかった。人ではない、こいつは危険だと直ぐに分かった。
「雨さま!」
側に駆け寄ってきた緋花がハルの前に立ち両手を広げて男を睨んだ。
「雨、か……」
「一介の妖が、雨さまに向かって狼藉など許されぬぞ」
緋花は背にハルを庇い、構えを取った。
「お前、……草のものか」
「侮るなよ」
「雨に従う草の者、そうか、しかし」
「雨さま、お逃げ下さい。ここは私が。私が何とか時間を稼ぎます」
緋花が男を睨み付けギリと奥歯をならす。
「ボクイの式ごときが勇ましいことだな」
男は、嘲笑を持って緋花を見たあとで捨てるように目を伏せた。
「悪いけど、僕は『雨』ではないし、この子も僕に従っているわけではないよ」
溜め息に続いて言うと、ハルは緋花の前に出て彼女を後ろに庇った。
「ほほう、ここは流石といっておこうか。俺の気に耐えるどころか目力を向けてくるとは、蒼樹ハル、やはりお前は雨の陰陽師たり得るな」
「……。僕は雨じゃない。これ以上はもう妖怪に関わりたく無いと思っている。それでも、どうせ逃がす気は無いのでしょう。ここに現れた用件を聞きましょうか」
「話が早くて助かる。では言おう、俺が欲しているのはお前だ。お前の血を頂きにきた」
「血、ですか。それはつまり僕を殺すと?」
「そうだな。浴びせるほどの大量の血を欲している。ならば結果、そうなるな」
「何のために?」
「聞いてどうする。素直に分かりましたと死んでくれるのか?」
「…………」
「故などはこちらの事情、聞かずとも良いだろう」
「あなたも、雨の陰陽師に何かしらの
「縁などない。お前に怨も恨もない。だが必要とはしている。お前はただ、俺のために死んでくれればいい」
淡々と話す男の口調から冷徹を感じ取る。そこには明確な殺意が見えた。それなのに何故だろうか、相手から悪意は受け取れなかった。
死を告げながら荒ぶる様子もない。無駄もなく実直に語る男は物静かに佇みながら並々ならぬ力量を感じさせる。ハルは、いきなり襲われずに済んでいることを幸いだと思った。
「はいそうですね、って承知するわけがないだろう」
「それは、そうだろうな。だが、結果は変わらない」
男にはゆとりがあった。自分には無い。勝てるのか……いや、逃げられるのだろうか。
ハルは、チラリと緋花に目を向けた。出会ったばかりで縁もゆかりも無い者だが安易に巻き込むことは避けたかった。
「用事は、僕にあるのですよね?」
「そうだな」
「では、彼女のことは」
「用はない。ついでに言えば、他の人間にも用はないので人払いをしておいた」
「わかりました」
男の言葉により世界が仄暗く暗転している理由を理解した。教室の様子はそのままだったが、ここはもう普段の教室では無い。
「緋花、ここから離れてくれ。黒のことは僕にはどうすることも出来ない」
「雨さま!」
ハルは、じっと口を噤んだ。その後、僕は雨さまではないよ、諦めてくれ、と話して緋花の背を押した。
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