嘲笑う鏡

鼓ブリキ

 *

 家に戻るとソイツはいた。にやにや笑いながら。

「よう、また仕事でミスしたな」ソイツは僕に向かってそう言った。

「皆もう気付き始めているんだ。仕事に不慣れだからじゃなくて、ただ単にキミが仕事が出来ないんだ、ってな。キミの無能は部署全体に迷惑をかけ、さらに上の人間からも不興を買う。失敗体験を積み重ねてキミは仕事へのモチベーションを無くし、またやらかす。全く、ステキな悪循環だ。教科書に載せたいくらいにね。

 望んで就いた仕事じゃないから、やりがいも楽しみも見つけられない。でも今の職場以外はどこもキミを採らなかった、面接官は口にこそ出さないが――ああいや、一回だけはっきり言われたんだったな、って。

 まあ実際、向いてないんだろうよ。せっかくお勉強して、大学を修めたって、その知識と経験は目下何の役にも立たない。『課題を見つけて、解決策を模索し、それを人に伝える姿勢を学ぶ事に意義がある』なんて高邁な精神はキミにゃ重すぎる。キミの得意な事は何だっけ? 本を読む事、地に足のついてない事を考える事。詰んでるね。いっそ大学から出なきゃよかったのに――ああ、それもダメか。キミは教授や同級生ともうまくやっていけない半端者だった。成績だって大した事なかったし。大学こそコミュニケーションスキルが必要だ、社会人以上に。

 ヘッセの『車輪の下』を思い出すねえ。勉強は出来たけど、学府ギムナージウムに馴染めずに逃げ出して、哲学なんてまるきり理解出来ない連中の下っ端として働いて、川に飛び込んで死んだハンス少年。自分を圧し潰すべく迫り来る車輪を阿呆みたいな顔して見上げているのが今のキミというわけ。もっともキミは学力も並程度だった点でハンスより質が悪いけど。

 若いうちにボードレールだの坂口安吾だのにかぶれると碌な事にならないって、偉い人はもっと教育すべきだよね。キミみたいなのが出来ちゃうからさ。

 『自分が世界にとって何の役にも立たないかもしれない』という考えを『実存的不安』というのなら、今のキミは『実存的苦痛』とでも言うべきかな。自分が世界にとって現在進行形で何の役にも立っていないという苦痛。誰に話しても理解されないさ、俺は別だよ。俺はキミの事はようく分かってる。何の助けにもならないだろうし、そんな気もないけどね。

 結局、歯を食いしばって耐えていくしかないんじゃない? 激務と、そのくせ割に会わない薄給でも、こんな情勢じゃ転職も覚束ないだろう。ネットで『仕事が辛い』とか『仕事に行きたくない』とか検索しても出て来るのは転職仲介業者が『仕事が嫌なら辞めちまえ』と煽るページばっかりだ。辞めたって構わないけど、俺は一緒に行ってやるわけにはいかない。分かってるだろう。キミは苦痛を他者と共有出来ない。真実に辿り着いても孤独は消えない――キミの好きな歌の歌詞。ふふっ、そういや最近は音楽も碌に聞いてないじゃないか。

 幸い明日は休日だ。辛い仕事も辛い人生も忘れて享楽的な一時を――」

 僕は蛍光灯のスイッチに手を滑らせた。

 部屋が明るくなる。

 ソイツはもういなかった。

 夜の闇と対照的な明るい部屋の中、まだカーテンを閉めていない窓ガラスに、疲れて引き攣った顔をした、アイツにそっくりな僕が映っていた。

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