雪のトンネルの中で

:DAI

雪のトンネルの中で

 スポーツで志を立てた人なら、誰でも一度は憧れる大きな舞台がある。


 オリンピック。4年に一度開催される世界最高峰の大会。


 世界大会それ自体は、決して珍しくもない。どんな競技でも毎年の様に開かれているけれど、オリンピックだけは明らかに雰囲気が違う。世界大会には無い不思議な魅力に溢れている。


 普段スポーツに馴染みの無い人達ですら自分の国の選手達を応援し、メダルの獲得数に一喜一憂し、大して知りもしない競技のアスリート達であっても、そのパフォーマンスに熱狂する。


 私はそんなオリンピックがどこか運動会に似ている気がしてならない。スポーツの祭典と言うだけあって、純粋に競い合うのではなく、お祭りの雰囲気に近くて、みんなで楽しむ世界で一番大きな運動会のような、そんな感じ。


 思い返せばスポーツが大好きだった私は、運動会を楽しみにしていた子だった。スポーツ以外からきしだった私にとって、運動会は日頃浴びることのない脚光や声援を受けることができる数少ないイベントだったからだ。


 尊敬の眼差しを向けられたり、結果を出して褒められるのはとても気分がよかった。未だにその気持ちよかった感覚が忘れられないのか、私はよりスポーツにのめり込み、いつしかオリンピックに憧れ世界を目指すアスリートに成長していった。と、いっても私の憧れの舞台は、夏のオリンピックではないのだけれども。


 茹だるような夏の日に、私は雪の無いゲレンデにいる。


 見渡す限り、雑草が生い茂った雪の無いコースを横目に、ブーツを履き、ウェアを着て、板を担いだ私は汗を流しながら僅かに舗装された管理用の道路を通って坂を上がっていく。


 坂の上に見えるのは、斜面に沿うように建てられた大きな倉庫のような建物。人工雪を撒き、真夏でも雪の上を滑れる室内ゲレンデ。国内最後の室内ハーフパイプ施設だ。


 私の聖域にして、戦場にして、最高の遊び場。


 私はこの場所でスノーボード、ハーフパイプ種目で冬のオリンピックを目指している。


 ハーフパイプとは何か、と聞かれれば、私は逆さまにした雪のトンネルを滑る競技と答えている。いつもこの説明をすると一瞬頭をかしげながらも、その後どこか納得がいったような顔をされるので、多分これで伝わっているはずだ。


 スノーボードの中でも花形競技とされるハーフパイプだが、年々競技人口は減り、今ではハーフパイプ自体滑った事の無いスノーボーダーがほとんどだ。


 バブル経済の時代にスノーボードは全盛期を迎えていたが、当時はどこのゲレンデに行ってもハーフパイプは置かれていたし、大きなゲレンデでは何個も置かれて、大いに賑わったとか。


 ところが景気が悪くなっていくと、高額な維持費がかかるハーフパイプはどんどん潰されていき、今では国内でハーフパイプが滑れるゲレンデは、もう数えるほどしかない。そもそも昔に比べハーフパイプを滑る場所が無いのだから、そりゃ競技人口も減っていくばかりだ。


 周りを見渡しても、その昔ハーフパイプ全盛期にバリバリ滑っていたであろう四十代と、オリンピックに出るために英才教育を受けている十代がほとんどだ。見事に私のような二十代はいない。


 同世代に仲間がいないことは寂しさを感じるが、世代が違っていても同じスノーボーダーとして通じ合えるので、私の友人はすっかり大人から子供までなんでもござれだ。


 夏真っ盛りに、わざわざ滑るために全国からハーフパイプ好きが集まるこの場所は、そんなみんなの情熱を感じずにはいられない。


 滑るために、生活や仕事をスノーボードに合わせた大人達。学校も行かず毎日練習に打ち込む子供達。それに加えて、オフシーズントレーニングで来るプロのスノーボーダー達。


 そんなレジャーとかけ離れた環境に身を晒し、晴れの舞台に上がる事を夢見て、今日も今日とて練習に明け暮れ清楚可憐とは縁遠い汗臭い日々を送っている。


 そんな女らしさを感じられない日々の生活だが、私自身はとても気に入っている。しかし、同世代の友達は次々に結婚や出産をしていき、私の活動費用はご祝儀へと変わる一方で、早くあなたも落ち着きなさいと事ある度に諭される。


 結婚や出産の報告と一緒に添えられる幸せそうな写真を送られるたびに、どこかモヤモヤした感情に包まれるのは確かだ。本音を言えば、嫉妬もしているし、羨ましくも思っている。


 女の幸せと、夢の実現を天秤にかけ、後者を選んだ以上しかたない事なのだと納得はしている。世の中どちらも手に入れている人もいるが、不器用な私にはとても真似できそうにない。


 ふと気付けば、スタート待ちの列が混んでいる。


 誰かが滑っていて怪我をしたらしく、ハーフパイプの底で倒れているのが見えた。どうやら、高く飛んだはいいが、壁の縁に落ちてしまい、パイプの底へと弾かれながら落ちたらしい。ピクリとも動かず、施設のスタッフや、近くにいた他のスノーボーダーがすぐに駆け寄り、担架で外へと担いでいく。


 日常であれば騒然とする光景だろうが、ここにいる皆の反応は落ち着いたものだ。決して冷酷で他人に無関心なわけではない。見かけ以上に危険なハーフパイプ。上達すればするほど、怪我した時のリスクは跳ね上がる。


 つまり、命がけになっていくということ。


 僅かなミスで命を落とす結果に繋がるかもしれない。それだけ、ハーフパイプは繊細かつ高度な技術と恐怖に打克つメンタルが要求される。私は、ひょっとしたら今日が最後の一日になるかもしれないと薄ら頭の中で考えている。死神に寄り添われながら練習している気分。


 次は自分の番かもしれないと頭の片隅で思っているからこそ、私もみんなも目の前の光景を受け入れている。


 そんな危険極まりないスポーツを、なぜ私は好きになってしまったのだろうかと、時々思うことがある。


 確か、あれは大学生の頃の話だ。


 当時の私は、特にやりたいこともなく、漠然と過ごす自堕落な学生生活を送っていた。でも、心の中では人生をかけるだけの何かに出会い、それに情熱を注ぎたいとも思っていた。


 その何かを求めていた最中、たまたま友達に誘われてやってみたスノーボードに、たった一日でドハマりした。


 生まれて初めての白銀の世界と雪の上を滑るという非日常感に私はすっかり魅了されたが、それ以上に私をスノーボードに引き込んだのは当時世界で常勝不敗を誇った、一人のスノーボーダーの存在だった。


 比類無い実力で名立たる大会で金メダルを独占し続けた彼の滑りに、雷に打たれたような衝撃を私は受けた。これが私の進む道なのだと、直感が叫んだ瞬間だった。


 彼の滑りに触発され、私はスノーボードの虜となり、現在に至る、というわけだ。でも、スノーボードが好きになったのは、憧れだけが理由じゃない。常々、私はスポーツの醍醐味は自分の体を変幻自在に駆使し、パフォーマンスを発揮することだと思っていた。ところがスノーボードはスポーツと一線を画す性質がある。本質的にはアートに近いと私は思っている。


 例えばダンスのように、激しく体を動かしてはいても、その目的は競争ではなく表現だ。明確なルールに則った上で競い合うのではなく、自分の個性をダンスに反映し表現する。私達スノーボーダーはそうした個性をスタイルと呼ぶ。


 最高のコンディションで最高のパフォーマンスを発揮し、私のスタイルを遺憾無く表現する。それを体感する最高の瞬間。その最高の瞬間を味わうために、私は滑り続けているのかもしれない。


 練習を終え、蝉の鳴き声を浴びながら、草が茂った雪のないゲレンデを降りていく。冷えた空間から、真夏の炎天下に晒され練習で張りつめていた気持ちが一気に溶けていくようだ。


 愛車の軽ワゴンの元に戻りバックドアを開ければ、狭いスペースに置かれた寝袋の他に、最低限の生活道具が詰め込まれている。この車が私の移動基地にして、二つ目の我が家だ。


 練習では常に遠征する必要があるので、宿泊費や滞在費を浮かすために、こうして車で寝泊まりをするわけだ。我ながら実に涙ぐましい努力。これも滑るために全てを犠牲にした乙女の在り方の一つだ。


 同類の乙女仲間から温泉に誘われる。車上生活では温泉は欠かせない。お陰で、温泉のありがたみというものをすっかり忘れてしまったが、これはこれで果たして贅沢な事なのだろうかと話題になり、大笑いしてしまった。


 茹だるような夏の日の夜。夜空を見ながら秘湯に遊ぶ。練習漬けの日々に訪れる癒しの瞬間。


 ふと、彼女の首元に視線が吸い込まれる。


 綺麗な肌にとても似合わない、痛々しい手術跡が鎖骨にハッキリと残っている。練習中に頭から落ち、なんとか受け身を取ろうと手を着いたら折れてしまったと彼女は教えてくれた。まだ、術後一年経っていないらしい。ハッキリと残っている傷跡を見て、思わず顔が酸っぱくなってしまうが、かく言う私も、右の足首に同じような手術跡がある。


 私はかなりの臆病者でもあり、前進怪我防止のためにプロテクターも装備しているが、怪我する時はするものだ。これも、スポーツの常。


 例えどれだけのリスクを背負うことになっても、私は滑り続ける。私の中にある静かな熱狂はマグマのように沸々と沸き続けている。


 いつかは墜落し、選手生命を断たれる日が来るのかもしれない。いや、ひょっとしたら、それ以上の事故も起こりえる。それでも、私は私の体が動かせなくなるその時まで、雪を求め、滑り続けるのだろう。


 薄暗く冷たい雪のトンネルの中で、私は夢に恋い焦がれ、これからも滑り続ける。最高の瞬間。その最高の瞬間を感じるために。

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