10話

 石のひび割れは細かく無数に走り、周りの人々の時間は止まる。

 秀雄は知っていた。

 もうすぐ最後の亀裂が走り石は砕け、自分の願っても居ない願いがかなえられると。

 しかし、それでも秀雄は心の中で「違う、違うんや」と呟き続けた。

 最後の亀裂が甲高い音を響かせて、腕にあった紅蓮の玉はその身を粉々に砕く。

 まるで赤い血が辺りに噴出しているように砕け散った破片をただぼんやりと眺めていた秀雄の心には、新たな不安が押し寄せ胸の鼓動を早めていた。

 呆然とした空間に居た秀雄は徐々に自分の鼓動で覚醒していく。

 頭の中がゆっくりと静かに、不安という激情の波が引いていけば状況を理解できるようになった。

 強く願うこと、つまりそれは強く思うこと。

 石にとって願いと思いの違いは全く無く、強く思ったことは願いに同等なのだと考えていた秀雄。

 そんな秀雄の脳裏にもう一つ、女店主が言った一言がよみがえる。

「石は常にその願いや思いを忠実に偽り無く言葉のままに実行する」

 思いが願いとして叶えられた今、石は自分の言葉を偽り無く言葉のまま実行するのだろうか。

 自らに起こった事実を確認しながら秀雄は体を震わせる。

(俺は今何を願った? 何を思った?)

 セピア色に停止した景色の中で微笑を浮かべて隣に存在する嵐を見つめ、俺は自分が思った願いの意味が何をさすのか、分っていながら分らない振りを必死でしていた。

 飛び散った破片が空気に溶け込んだ時、歪んだ景色は元へと戻る。

(目の前に居るこの嵐が煙のようにこの場から消えてしまうんやろうか? それとも……)

 秀雄は自分の願いがどのように叶うのか分からない中、石の力は万能ではないと妙な理屈をつけてずっと嵐を見つめ続ける。

 しかし、辺りの景色が動き始めたとき、秀雄は力をこめてまぶたを閉じていた。そのときの秀雄の中にあった感情は恐怖のみ。

 自分とは違い、誰からも知られ誰からも信頼をえている彼がここで煙のように消えたら皆はどう思うのだろうか、先ほどまで一緒だった自分のせいだと思うだろうか。見えない景色の中でいつも通りの雑音が耳に入ってきた。

(変化が無い、どうなってんねん)

 瞳を閉じたまま秀雄が首をかしげかけた時、肩に暖かい手が置かれ、聞き覚えのある声が耳に入ってくる。

「秀? どうかしたんか? 目なんか閉じて具合悪いんか?」

 紛れも無い嵐の声に秀雄は驚きながら瞳を開き、そこにはいつもの嵐が心配そうに覗きこんでいた。

「いや、具合は、悪くないから大丈夫や。嵐こそ、なんとも無いんか」

「どうしたんや。僕はさっきからずっと変わらへんやろ」

「そうか、そうやな。うん、変わってへん」

 いつもは傍に居ると鬱陶しいとしか思わない存在の嵐だったが、今は傍に居ていつも通りの姿があることが良かったとも嬉しいとも思える。嵐は妙な態度を見せる秀雄を心配そうに眺めていたが、秀雄は小さく胸にたまったものを吐き出すように長い息を吐いた。

(石は願いを叶えられへんかったんや。やっぱり願いと思いは違うっちゅうことなんや)

 石が一つ無駄になってしまったような気がしたが、思いが願いとなって石が叶えてしまわなくてよかったと秀雄が安堵した時、ちょうど授業終了のベルが鳴り響く。人気がないだけあって、内容など無い誰もが無駄話に夢中になるような講義だった。

「それにしても、秀がこの講義を取ってるとは思わんかったわ」

「こんな講義取ってるわけないやろ。午後の授業まで時間があるし、たまたま通りかかって空席があったから居ただけや。っていうか『この講義』って、有名なんか?」

「講義が有名ゆうか、これは出席さえすれば単位くれる授業やねんけど、その内容の無さで単位欲しいって思ってる連中でもとらへんって有名なんや」

「当然やな、あんなにつまらない講義は初めてやった」

「せやろ? 僕もそう思う。やっぱり秀は僕と考えが良く合うわ」

 楽しげに笑うその顔も普段ならば「何が合うや、貴様と俺を一緒にすんな」と苛立ちの対象になっただろうが今はそれほどでもない。

 願いが叶わず側に存在していることが良かったとも思う。ただ、秀雄はほんのわずかではあるが砕けてしまった先ほどの石のことが気になっていた。

 右手首を見れば残りは二つとなっていてオーロラ色の紐が鋭く輝き、確かに三つ目の石が砕け散ったことを物語っている。

 前の二つは石が砕け時間が動き始めれば願いが叶っており、女店主も必ずと言っていた。

(世の中に必ずなんか無いんや。人の存在有無まで石は叶えることはできへんかったに違いない。でも、そうすると何で砕けて無くなってもうたんやろ)

 秀雄は大きく深呼吸をして席を立つ。

 酷く疲れているような秀雄の様子に嵐が再び「大丈夫か? 」と聞いてきた。

「ちょっと、疲れているだけやから別に気にせんでええ」

「そうか、ならええんやけど。そや、今から昼やろ? 大学の近くに美味しい店あるんや、それ食べたら元気出るで。案内するから行こ」

「ええわ、コンビニでおにぎりでも買って食べる」

「そないなこと言いなや。近くやし、そんなに高くも無いで。コンビニのおにぎりよりかは高いけど。第一、そんなんでお昼済ませたりするから疲れやすくなるんちゃうんか」

 いつもより秀雄がちゃんと返事をするせいなのか、嵐は楽しそうに次から次へと言葉を吐き出し、強引に秀雄の手を取って連れて行こうとする。

 秀雄もまた先ほど心の中だけで思ったこととはいえ、すまないことをしてしまったという自責の念がありあまり強い態度には出られずにされるがまま連れて行かれた。

 楽しげに笑いを挟みながら他愛の無い話をしてくる嵐にあわせるように相槌をうったり言葉を返して広い校内を歩いていく。

 山手に作られた大学は広く、普通に公道のような道もあり教授や生徒の車も行き来していた。

 車で移動する者にとっては大学構内の広さなど大したことはないかもしれないが、歩いて移動するものにはかなりの距離がある。

 構内の真ん中ほどにある、秀雄が利用するいつものコンビニを通り過ぎ、道幅の広い道までやって来た。

 いつもなら、これ以上歩くことはしないが、今日は更に歩いて外に行くことになり、秀雄は嵐についてきたことを後悔し始める。歩くことはそれほど苦ではない、それよりも嵐の話を聞かなければならないことが辛くなってきていた。

(もうええ加減に開放されたいわ。人混みに紛れて嵐だけ渡らせて俺は引き返えそう)

 秀雄がそう思っていると、嵐が身を乗り出すようにして道路の車の流れを見て呟く。

「中々車が途切れへんな」

「そりゃそうやろ、昼を食いに行くやつや、午後から授業を受けるやつ、教授の出入りもある。ここはメインの道路やから昼はひっきりなしなんは分かってたことやろ。だから、コンビニのおにぎりでええ言うたんや」

「でも秀と一緒って滅多に無いことやんか。せっかくやから、美味しいもん一緒に食べたいやん」

「小学生や女子や無いねんから一緒にとか鬱陶しいだけや。食事ぐらい一緒にせんでも一人で出来るやろ」

「またそんな言い方して。秀に足りへんのは協調性やな」

 呆れたような顔をして溜息をつく嵐。

 その嵐の態度に申し訳なかったなどという感情はどこかへ消え去り、どうして嵐はこうも自分を苛立たせるのだろうかと眉間に皺を寄せた。

(あかん、やっぱり俺は嵐が嫌いや)

 秀雄が再び苛立ちをあらわにし傍らで微笑む嵐を睨み付けた時、そこにいたはずの嵐の姿が消え、それと同時に激しいブレーキ音と一瞬の間をおいて甲高い女性の叫び声が辺りにこだました。

 一気にあたりは騒然とする。

 秀雄には何が起こったのか全く理解できず、叫び声が響く中、そこにいる人々が指差す方向を見た。

 すぐ足元では無くかなり離れた場所。

 一台の白い乗用車のその向こう、すでに出来上がっている人だかりの足の間から見えたのは、先ほどまで隣で笑い声を上げていた嵐だった。

 見覚えのある服に、見覚えのあるスニーカー。

 そして、見覚えの無い赤い水溜り。

 徐々に広がるその液体の中、嵐は体をありえない方向に曲げながら横たわっている。

 悲鳴と救急車を呼べと叫ぶ声、どうしたんだと事態を目の当たりにしていない人の足音と言葉、様々な音が入り乱れる中、秀雄は呆然と立ち尽くし、やってきた救急車に何故か自ら乗り込んでいた。

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