8話
目覚ましの音よりも早く目覚めた秀雄は自分の右腕に石があることを確認し、やはり夢ではなかったと口の端を引き上げる。
今日は午後からしか授業はとっていなかったが、大事な用事がある為大学へ行く準備を済ませ通勤ラッシュが落ち着いた時間を見計らって家を出た。
理由は勿論、教授の顔を拝む為。
自分を一度は否定し、己の方が優れたことをやってのけるといって見せた教授が、どんな面を提げて自分の前に現れるのか。
秀雄はそれを想像しただけで口が緩み、秀雄の気持ちに反応してか石達はシャリンと涼やかな音色を立てる。はっきりと自分の耳に聞こえてくる音に慌てて右腕をつかんでみたが電車の音がうるさいのか辺りで自分を眺め気にしているような人は居ない。
(この音、何とか止めることは出来へんのか。誰かに気付かれたら厄介やで)
手で押さえ込んでも変わらず聞こえてくる音にどうしたものかと思いながらも、四つの石を指の間から眺めて秀雄は微笑む。
(まだあと四つもあるんや)
太陽の光を浴びて自分の今の気持ちをそのまま表すようによりいっそう輝く石。
秀雄はその光が自分自身の未来の確実な成功を祝福してくれているかのように見えた。
大学に着いた秀雄は寄り道をすることなく、まっすぐ自分を「不」と評価した教授の元へ向かう。
ノックをして入った扉の向こうで教授は秀雄のレポートを手に良く来てくれたと秀雄をソファのほうへ誘導し、レポートを手渡した。「不」と書かれていた評価にはバツ印が付けられ、その横に「優」の文字が見える。
「いや、すまんかったなぁ。君が出て行ってからもう一回ちょっとレポートを見直させてもろたんやけど、いろいろ見落としてた場所もあったみたいでな。いや、見直してよかったわ。これは確かに君にしか書けへん他の連中が真似することなんて無理なレポートやで」
「恐れ入ります」
自分を褒める教授の態度に秀雄はありきたりな返事をしたが、内心は見下した様に教授を嘲っていた。
しかし、そんな優越的な気分だったのもはじめだけ。優秀だといわれれば言われるほど何を当たり前のことを言っているんだと秀雄は気分を害し始める。さらに教授は自分の素晴らしいレポートについて「さらにこうしてみてはどうか」という提案までしてきたものだから機嫌は一気に悪くなった。
長々と続きそうな教授の話を用事があるからと早めに切り上げさせてその部屋を後にしたときには、ドアを入ったときのあの爽快感はまるで無くなり、苛立ちが秀雄を支配する。
(全く、馬鹿は何をさせても馬鹿やな。俺が優秀やて? 何を分かりきったことを。今更それを俺に言う必要があるんか?)
いつものように口の中で文句を言い、下を向いて歩く秀雄の視線に足が映りこんですぐに体がぶつかりバランスを崩して壁に寄りかかった。耳には女性の「きゃっ! 」という小さな声が聞こえ、壁に寄りかかりながら声がしたほうを見れば、ゼミの後輩の鈴木京子が廊下にしりもちをついて痛さで顔をゆがめている。
小柄でありながら、出るところは出てしまるところはしまっている、スタイルの良い彼女はゼミの中ではマドンナ的な存在で、愛らしい顔に似合わないスタイルが他の学年でも話題になっており、ゼミには彼女を見るだけの者がわらわらと沸いて出るほど。
「ご、ごめんなさい」
いつも一体何処からその声は出ているのだろうかと首を傾げるほどに可愛らしい声で謝ってきた彼女に、秀雄は慌てて手を差し伸べながら「こちらこそ、ちゃんと見てへんかったから」と謝る。
京子が秀雄のゼミに入ってきたときから、秀雄は京子をひそかに想っていた。
控えめで可愛らしく、そして頭も良い。秀雄は京子こそが自分につりあう女であり、自分と京子は付き合わなければならないとも思っていた。
(そういえば、あの女店主は何処と無く外見が京子に似てたな。まぁ、中身は似ても似つかへんけど。京子はあんなに妖艶ではないからな)
京子に差し伸べた右腕に輝く石を眺めながら秀雄はそう思ったが、京子の手が自分の手に重ねられた瞬間、慌てて京子を引き寄せ腕輪を見せないようにと抱きしめる。
驚いたのは京子。
何の前触れも無く抱きしめられたことに一体何が起こったのかと素っ頓狂な声を出しながら、秀雄の胸に両手を付いて思い切り秀雄を押すようにして離れた。
顔を真っ赤にしながら恥ずかしげに秀雄を見つめ、徐々に距離をとって首をかしげる。
「あの田所先輩、私、そういう気は」
「あぁ、ごめん。力が入りすぎちゃっただけで、俺だってそういうつもりは無かったよ」
「そ、そうですよね、はぁ、驚いた」
ほっとしたように息を吐いて京子は微笑んだが、まだ少し警戒するように距離をとりつつ教授の部屋の扉を指差し秀雄に聞く。
「翔ちゃん、じゃなかった。嵐先輩、中に居てはりますか?」
「いや、さっきまで俺は部屋に居たけど嵐の姿は見てへん」
「そうですか。私は教授の部屋から出てきたからてっきり一緒にいるかと思ったんやけど。それじゃ、別の場所におるんやろか」
「教授の部屋から俺が出て来たからって、どうして俺が嵐と一緒に居るって思うんや?」
「だって、田所先輩のレポートを認めたのって嵐先輩で、それを教授が聞いてもう一度確認してみるとか言いはったんでしょ?」
初めて聞く事柄に秀雄の眉間には皺が刻まれた。
しかし、京子は嵐のことばかりが頭にあり、すぐそばに居る秀雄の表情や機嫌の変化など気付かず、また気にすることなく頬を紅く染めながら感嘆の息を吐く。
「ほんま、嵐先輩って凄いですよね。誰よりも優秀でかっこよくて、あの偏屈で頑固な教授が認めているのって嵐先輩だやもん。でも、教授のとこにもおらんのやったら別んとこ探さんと。すみません、失礼します」
京子は適当な笑みを浮かべて苦々しく顔をゆがめる秀雄の表情を見ることなく、秀雄の右側を少し距離を開けてすり抜けていった。
嵐 翔一は秀雄の同級生であるが年齢は秀雄より一つ下。秀雄は一年浪人している為、同級生でありながら年齢が一つ下というのは珍しくない。しかし、その中でも嵐は秀雄にとっては特別な存在だった。
入学式のとき、早々に帰ろうとする秀雄を呼びとめ、無理やりサークルめぐりに連れて行かれたことから始まり、何かにつけて嵐は秀雄の近くに居た。
容姿端麗で才能もあるとくれば女子が放っておくわけがない。いつでも何かしらの女が嵐の近くに居たが、嵐は必ずといって良いほどそういう女子を無視して秀雄の傍によってくる。
爽やかで、いやみの無い性格の嵐。
そんな人物が誰よりも自分を気にしてくれれば普通は自分のことではないのに誇らしく思ったりするものだが、秀雄は心の底から嵐のことが嫌いだった。
京子が立ち去った廊下を京子とは逆の方向に歩きながら秀雄は唇を噛み締め口の中で言葉を反響させる。
(くそ! あの女、あいつは二つの間違いを犯した! 一つ目は嵐の事をわざとらしく翔ちゃんと呼び、ヤツの話を自慢げにしたこと。知ってんで、付き合ってるんやろ。ゼミで美男美女のカップルだって噂されとるんを俺が知らんと思ってるんか。全て隠し通すのではなく少しずつ情報を流すことで皆の関心を自分に向けさせている。『嵐と付き合っている自分』をアピールしたいってバレバレや。結局はあの女も俺にはつりあわない単なる女だったって事や。そう、だからこそ許せないのが二つ目の間違いや。俺を馬鹿にして良いのは俺より優れた人間だけ。俺を汚いもののように避け、さらには俺の前で嵐の自慢をする。まるで俺が劣っているかのように)
静かに廊下を行く秀雄は前方をにらみつけるように真っ直ぐに見つめ、足音も立てずにゆっくりと進む。そして、その秀雄の耳には、右腕にはめた石達がまるでねだるように澄んだ鈴のような音を響かせていた。
午前中に授業は無い。
しかし、秀雄は構内でも広い講堂にやってきて、一番後ろの右端の席に腰を下ろした。これからこの教室で何の授業が始まるのかは分からない。だが、騒がしい食堂や休憩室にいるよりはるかにましであり、構内をうろついて嵐に出会ったりしたらたまったものじゃない。
秀雄はぼんやりとした思考の中、右手首を左手でそっと握り締める。冷たい石の温度が手から血管を伝い、血液とともに自分の体の中を駆け巡っていくようだった。
(京子、嵐なんかと付き合うからあんな馬鹿な女になってしまったんや。俺と付き合えばきっとまたあの賢く可愛らしい京子になる。そうや、あの女を俺のものに)
自分に不釣り合いな馬鹿な女、そう思っていたが、柔らかく暖かい女の体を感じてしまうとどうしても欲が出てくる。「京子を自分の女に」その願いは強い輝きとなって周りの空気が揺らめいた。そしてその輝きに焼き付けられたように秀雄以外の周りの風景が全て停止してしまう。動いていたはずの人も、声も、空気の揺らめきすら止まってしまい、まるでセピア色をした写真の中に閉じ込められてしまった様。秀雄は立ち上がり辺りを見渡しあせった。
「なんや、一体何が起こってんねん」
自分は動けるのに周りの全てのものはセピア色をして陽炎のように揺らめく景色の中。
周りの変化に驚きどうしたら良いのかと焦る秀雄の右手首から何かがひび割れる音が響き、秀雄はまさかと自分の右腕を見た。
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