5話

 この女店主にまた会う為ではなく、自らの願望が叶うと言う夢のような言葉に冷静さや恐怖心が無くなっていく。

「幸運を逃がして今まで通り、いつもの毎日に戻るというのなら私は止めはしない。貴方を留める権利は私に存在しないから。代わり映えの無い、苛立ちだけが待っている日常に戻ればいいわ」

 女店主の言葉は秘薬のように秀雄の耳から頭の中へと染み込んでいき、ゆっくりとその手を動かした。

 黒い紙に差し出された羽ペンで名前を書けば、それは白く浮かび上がる。不思議な光景であるにもかかわらず秀雄はそれをまんじりと見つめてペンを置き、右手で持ったナイフで左手親指を傷つけ血判を押した。

 ナイフによって傷つけられ痛みがあるはずの左手だが身体の全ての機能が麻痺しているのかそれほど痛みを感じない。

 女店主は妖艶な笑みを浮かべて手首を握ると未だじんわり滲み出ている秀雄の血を舌でなめとりながら指を口に含んだ。

 呆然と女店主の行為を眺める秀雄。蠢く舌の感覚が己の指先から伝わっているはずなのにあまり感じない。

「ご契約、ありがとうございます」

 女店主が指から唇を放せば滲み出ていた血は止まり、傷口すらなくなっている。自分の指先を眺めている秀雄を横目で眺めながら女店主は秀雄の目の前にやってきて契約書をひらつかせながらテーブルに腰を下ろした。

 秀雄は頭の片隅で内容の分からないものにとうとう契約してしまったと思う。だが、すぐにもう一人の自分が幸運を手に入れたんだ、あの酷い日常に戻ることはないと言い、秀雄はその通りだと納得したように息を吐きだす。

「さぁ、これで貴方は私と契約した。私は必ず望みを叶えそして貴方は望みを叶えさせなければならない」

「あんた、一体何もんなんや? 浅い傷やけど傷口もなくなるなんてありえへん」

「細かいことを気にする男は嫌われてよ。貴方の治癒能力が高いんじゃない?」

 微笑み、目の前に契約書をひらめかせる女店主は眉を少し上げ、秀雄を見下しつつ目の前で足を組んだ。

 秀雄は思わず視線がそちらに動いたが女店主の企みに乗ってしまっているような気がしてすぐに視線を戻す。

「はぐらかすつもりか? 傷まで消えてまうやなんて普通に考えてありえへんやろ」

「普通? 普通って何かしら」

「普通は普通や。治癒能力とかそんなレベルの話やない、こんなん魔法や」

「魔法? 面白いことを言うわね。期待に応えられなくて残念だけど私は魔女じゃ無いし傷が消えたのも魔法でもなんでもないわ。そうね、それこそ貴方の言う『偶然』なんじゃないの」

 話をはぐらかし続ける女店主に苛立ち始めた秀雄だったが、女店主は秀雄の苛立ちを気にすることなく妖しげに何度も足を組みかえ、胸の谷間を見せ付けて、女という性を前に前にと出してくる。

 それを瞳の中に映すほどに秀雄の脳内では女の裸体を想像し、完全には消えていなかった欲のくすぶりが再び赤くなり始めていた。

 それでも理性を総動員して女店主を睨み付ければ、女店主は契約書を人差し指と親指でつまみ、頭の位置まで高く掲げてふっと息を吹きかける。

 息がかかった場所から黒い紙は細かな粒子となって辺りを黒く煙らせた。

 一体何が始まったのかと怪訝な視線を煙に向ければ、女店主の顔の辺りに存在した煙の塊は意思があるように空中を漂いながら秀雄の目の前まで下りてくる。

 奇妙な生き物を払うように手を差し出した時、女店主は指を鳴らした。一瞬にして目の前にあった煙は消え失せて、秀雄の手首に七色に輝く虹色の糸で繋がれた五つの石が現れる。

 魔女ではない、そう言いながらも明らかに不思議な出来事をその場に起こす女店主に秀雄は手首を差し出しながら聞いた。

「なんやねん、これは」

「言ったでしょ、私は石屋よ。貴方の願いをかなえる石屋」

「それはわかってる」

「あら、だったら石屋から石をもらったらそれがどんな意味かぐらい分かるでしょ。さっきの契約、あれはこの石達との誓約なのよ」

 女店主は秀雄に近寄ってそっと耳元で囁く。

「貴方が本心から、心の底から願った願いはこの石がかなえてくれる」

「石が願いを叶えるやって? そんな眉唾」

「失礼ね、言ったでしょ、必ず叶えると。ただし、願いは一つの石につき一つのみ。つまり、今五つの石を持っている貴方の願いは五つしか叶わない」

「黒い紙が五つの石になった、っていうことはあの色の紙によって石の数が違うんか?」

「頭の回転が速いわね。そうよ、あれは石の色と数を決める物よ。黒は五つで最も多いの」

「最も多い。絶対に願いが叶う石が五つも」

 秀雄が「五つも」といったその言葉に女店主は唇の端を少し上げて意味ありげな微笑を浮かべ「そうね」と呟いた。

 そしてテーブルから離れ入口の扉を開く。

「貴方は石との契約を結んだ。この店には貴方が望む時に望むだけ訪問できる」

「望む時に。それって何時でも何処でもって言う事か?」

「ええ、契約期間中は貴方の望むままに訪れることが出来るわ。そして、貴方が手にしたその石は、貴方自身が心の底から本心から願った事柄を偽りなく言葉のままに叶えてくれるわ。あぁ、それと重要なこと」

「帰そうとしている今重要なことって」

「貴方の願いは必ず石が叶える、それが石に課せられた誓約。そして契約書に名前を書いた貴方にも同じように石に対して願いを叶えさせる義務が生まれている」

「義務?」

「そう。たとえ貴方の願いが三つしかなくとも石は五つ、五つの願いを貴方は必ず願わなくてはならない」

「確かに五つあるけど、期限は無いのだからそれくらい」

「あら、期限が無いって言ったのかしら? ちゃんとあるわよ」

 確かに期限が無いとは言っていない。しかし、期限があるとも聞いていなかった秀雄は驚きながら女店主を眺めた。

「期限はその虹色の糸の色が無くなり切れてしまうまで」

「酷く曖昧な期限やな。それは一体何日ぐらいの話なんや」

「さぁ、私が知るわけがないわ、これは貴方の契約ですもの。それと、過ぎてしまった『時間』は戻らないから気をつけて」

「時間?」

「物や者を変えられたとしても、時間だけは戻らない」

「どういうことや?」

「さぁ、それは体験してみればわかることよ」

 女店主は徐々にドアを開きながら今までで一番の笑顔を見せて腰を折る。

「本日はご来店いただきありがとうございました」

 秀雄は女店主に曖昧な期間のことや、もう一度ここに来るにはどうすればいいか、石に願いをかなえてもらうにはどうすればいいのかを聞こうと思った。

 しかし、女店主の挨拶は強制力があり、出て行こうなどと思っていないのに足は勝手に入り口に向かって歩き始める。せめて質問だけでもと口を動かすが言葉は出て来ない。

「是非、またのお越しを」

 背中から女店主の声が聞こえ、背後で静かに扉の閉められる音がした。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る