オールド・パル

「お客様はドアから入ってくるものですよ」

 小さな堪え笑いが耳元で聞こえ、マスターの視線は後ろから自分の肩に絡みつく腕に注がれる。

「客なら、だろう?」

 首筋から耳、そして頬に抜けていく麝香の冷たい香りはマスターの眉を歪ませた。

 黒色の髪に赤色の瞳。

 タキシードを身に纏った青年。

 優雅で柔らかな身のこなしは一見紳士のように見えるが、口元に浮かぶ微笑は邪悪さをかもし出す。

「客でないならお帰りを」

「相変わらずの物言いに、同じ台詞。よく厭きないね」

「貴方が厭きもせず同じ登場をするからでしょう」

「趣向を凝らした登場をしたところで、君の反応が同じなのは想像が付くからね。君が別の反応を示してくれるって言うのなら喜んでいろんな趣向を考えるけど?」

「……結構です。気持ちの悪い」

 絡み付く腕を無理やりに引き剥がし、左に一歩ふみでて青年との距離をとったマスターはこれ見よがしに体を手で払った。

「あからさまだねぇ、そんな汚い物に触れたみたいに」

「触れたみたい? みたいではなく、触れたのでこうして払っているのですが。私のもっとも嫌いな麝香の匂いが付いたら大変でしょう」

「嫌い? へぇ、まだこの香りが嫌いかい?」

「えぇ、大嫌いです」

「そう、それは残念」

 嫌いだと即答したマスターの様子に、少し瞳を伏せ、顔に影を作りながら青年は小さなため息をつく。

 距離をとり、自分の残り香を手で払ったマスターを横目にカウンターを出た。

 静かな中にも軽快さを感じるジャズの曲、指で少し調子をとりながらカウンターの端から一席一席を眺め、にっこり微笑む。

「埃一つない、なかなか綺麗にしているじゃないか」

「四六時中この店で、客が来なければ暇をもてあましておりますので」

「褒めてやっているのに相変わらず可愛げがないねぇ」

「貴方が私を褒める? これは妙な。天変地異が起こらなければ良いですが」

 憎まれ口ばかりを吐き出すマスターの目の前の椅子に腰掛けた青年は、にやにやと楽しげな微笑を向け、耳に届くジャズの音楽に合わせてカウンターを指先で叩いた。

「なんです?」

「いや、別にぃ」

「そうですか、では奥歯に挟まった物を吐き出さないように注意してください」

「あれ? 聞かないの?」

「残念ながら、私には貴方の考えが良く分かるようになってしまいました。どうせ、聞いてほしいからそんな態度をとっているのでしょう?」

「よく分かったね。なのに、聞いてくれないなんて悲しいなぁ」

「聞いてほしいなら言葉にすれば良いでしょう。この距離です、聞きたくなくても聞こえます」

「そりゃそうだろうね。でも、やめとくよ。俺の考えなんて手にとるように分かるんだろう? 凄いね、以心伝心。俺達はつながっているってことだねぇ」

「何ですか、その不気味な表現は」

 ぶるぶると背中に走った悪寒に身を震わせたマスターを相変わらず笑顔で見つめる青年は、すっとマスターの後ろにずらりと並べられた酒瓶を指差す。

 ゆったりと十三席とられた長いカウンターの端から端までの長さと同じだけの長さ、そして天井からマスターの腰の高さまでの酒棚に隙間なく並べられた酒瓶はウィスキー一つにしても様々な銘柄がそろえられている。

「結構余裕があったはずなんだけど、ずいぶん増えたね。勤勉な証拠かな?」

「美味しく、その方にあった物を提供しようと思えばこれくらいは当たり前ではないでしょうか」

「カクテルのカの字も知らなかった君がそんなことを言うようになるとは驚きだねぇ」

 じっとマスターの瞳を見つめて言う青年とマスターの視線が絡むことはない。

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