第7話

 舞台に向かって差し込んだ二つのライト。その光は舞台の両端、下手と上手に別れ、それぞれの男と女を映し出した。

 下手の女は俯いて舞台の下を眺め、そんな女を男は横目でじっとりと見つめて低く篭った声で呟く。

「何故だ、何故! わからない、こんなに僕は見つめているのに君の瞳に僕は映らない。僕の天使は僕を見ようとしない……」

 男の言葉に女はフイッと違う方向を眺め、ハァとため息をついた。イライラとじれったい想いだけが募る男の足がピクリと動いたが、彼女に近づくことができない男はその場で地団駄を踏む。

「君は僕だけを見つめていれば良いんだ。それで君は幸せになれるんだ。なのに……、何故」

 女は立ち上がり黒い髪をサラサラとなびかせて、静かに歩いて行き、その後ろを男が追いかけた。

 何日も何日も、女が劇場に現れれば男は女を追いかけ、女の背中しか見えない日々は男を苦しめる。だが、男は女に声をかけることも、前方に回り込むこともできなかった。

「僕は意気地なしじゃない、他の女なら難なくできる。でも彼女には出来ない。僕は背中をみたいんじゃない。瞳を、鼻を、そして唇を、ジッと見つめたいんだ。でも、彼女は決して僕に振り向いてくれない。そして彼女は小さなマンションに消えていくんだ」


 女は男が見つめていることも、後ろから自分をつけてきている事も知らず、毎日、街にある大きく古い劇場のすぐ近くまで足を運んでいた。

 数週間前のこと、家に帰ってきた男に、あの劇場で今度公演される舞台の、ヒロインの相手役に抜擢されたと言われる。

 男は女が仕事に出かけた後、家を出る。役柄が決まってから、男は毎日練習があると夜遅くまで劇場に行っていた。

 女はそんな男の演劇に打ち込む姿を少しでも見たくて劇場へと足を運んでいたが、目の前に劇場の入り口が現れると、どうしてもそこから先に行くことができない。

 男に来るなと念を押されていた。女にとって、男の言葉は絶対であり、逆らうことなどできなくなっていたのだ。

 入り口近くまで来て足を止めていると、必ず開演のベルが鳴る。男の舞台の開演のベルではなかったが、その音を聞いた女は一歩、二歩と後退り、劇場を瞳に移さないように足早にその横を通り過ぎる。

「彼との約束を破っちゃいけないわ。早く帰って夕食を作っておかないと。今日もきっとお腹をすかせて帰ってくるだろうから」

 男の事を考えるだけで女の頬は熱くほんのりと色づき、自然と口元に微笑が浮かぶ。女は人ごみを掻き分けるようにそそくさと自宅へ帰って行った。


 女がマンションに消えて数分後、ボンヤリと光りが灯るのは二階の左から二つ目の窓。

 男は女が入ったマンションの道路を挟んだ向こう側の木陰から、じっとその窓を眺める。いつもなら部屋の明かりがつき、彼女が帰ったことを確かめてから自分のアトリエへと帰るのだが、その日は何故か瞬きすら忘れる程、女の部屋を眺めていた。

 男が女の部屋を眺めてどれ位の時間が経っただろう。

 一人の男が彼女の入ったマンションに入っていった。街灯に照らされた男の顔を見た男はハッとする。

「見覚えがある。あの男……。そうだ、今度の僕の脚本に舞台監督が起用した男」

 役者が決まったと舞台監督に言われて、顔合わせに呼ばれた際に見た顔が、女のマンションに入っていくことに男は鼓動を早めた。

 演技はそこそこ、まだまだ自分の舞台に立てるような役者じゃない、男の演技を見た男はそう思う。しかし、脚本を仕上げた時点で自分の仕事は終わっていると、男は舞台監督の人選に何も言わず承諾していた。その男が今、目の前で女のマンションに入ったのだ。

「何故、奴がここに? まさか……。いや、違う。思い過ごしだ」

 男は浮かんでくる嫌な予感を頭から消そうと必死になる。苦しいほどに胸が詰り、その場にしゃがみ込みながら見上げた男の目に映ったのは、二つの影。女の部屋カーテンが揺れ、隙間から見えたのはあの男。

 男は理解した。

 彼女が劇場にやってきていたのはあの男に会う為だと。そしてあの男こそ自分から天使を奪う男だと。

 睨み付けたその窓で二つの影は一つの塊りとなり、重なり合った影はゆっくりと沈んで見えなくなる。

 部屋の電気が消え、男は愕然とし、目を見開いて真っ暗な窓を凝視し、その場に崩れるように座り込んだ。

「あぁ、恐れていた事が現実になろうとしている。今すぐに彼女に僕の素晴らしさを教えねばならない。僕と言う存在を彼女に刻まねば」

 地面に拳を叩きつけ、男はどうしたらいいのかと焦る。自分に誇れるものは一体何かあるかと必死で頭を働かせた。あの男のように容姿端麗ではない、男にあるのは脚本を書くと言う才能だけ。

「そうだ、舞台だ。僕の脚本で作られた僕の舞台がある!」

 男はすっくと立ち上がり、女の部屋の窓を眺め頷いてその場を後にした。


 女が劇場から帰り、数時間経ってからいつも通り男が帰ってくる。頬を染めながら迎えた女を男は抱きしめ、部屋の奥へと向かい、そっと額にキスをした。

「お食事は? 今日はね、貴方が大好きな物ばかり作ったのよ」

 男の胸の中に閉じ込められたまま女が言えば、男は女を抱きしめたままベッドに倒れこむ。女の服を脱がせながら男は女の耳元で、暫く劇場で寝泊りする事になったと、練習に打ち込まねばならない、ここが正念場なのだと囁き、女の唇を塞いだ。

 体の全てを男に包み込まれ、男の香りの中にある女は唇の隙間から男に言う。

「分っているわ。私の事は気にしないで、何時までも貴方を待っているから。貴方の成功が私の喜びなのだから」

 息が届くほど間近で見つめる男に女は微笑み、女の言葉に男も笑顔を返し、白い肌の曲線に唇を滑らせて、いつものように女に標を刻んだ。


 舞台上の男はジッと女の後姿を見つめる。悲しげだけれども何処か怒りに満ちた男の瞳。

 その瞳を見ることなく女は恍惚と洋服の上から心臓の辺りを手で押さえ浸るように瞳を閉じた。

 男は唇をかみ締めながら舞台の袖へと姿を消し、舞台は暗転。

 案内人はクククと口の端を引き上げて笑い拍手を送る。

「男と女、二つの想いは未だ交わる事を知らない……。言葉は一体何の為? 言葉の存在の意味を一番理解しているのは人間以外の動物かもしれない」

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