第10話
はじめに、何の気なしに言ったはずの自分の言葉に酷く傷ついたという内容が書かれていたが、どんな内容だったのか、思い出そうとしても思い出せない。
思い出せないほどたいしたことではないことに「傷ついた」といわれてもよくわからず、その後に続く内容は驚かされることばかりだった。
……私は貴方や真由美がよりよく毎日を過ごせるようにと一生懸命に主婦業に励んできました。
貴方は知っているかしら? 同じことの繰り返しであったとしても毎日毎日休みなどなく続けられる主婦業の大変さを。
外に働きに出ている人と主婦とを比べることはできないけれど、無給で無休の日々の働きに貴方や真由美はどれだけの感謝をしてくれているのかしら?
私は急にむなしくなったの。そして、それではいけないと思ったわ。
だから、私は今まで働いて来た分の有給休暇をいただこうと思います。
家には四万円を置いていきます。光熱費などは引き落としだから当面の生活費ということになりますね。
それで一ヵ月半は余裕で過ごせるはずです。私はその金額よりも少ない金額で過ごすようにと毎日努力し、実際過ごしていました。それで足りないということは絶対に無いはずです。上手くやりくりして見せてください。
真由美だってもう高校生です。日々手のかかることは無いでしょうし、私ばかりに任せずにたまには娘と対面してみてはいかがです?
貴方一人ではどうしても駄目だというなら、派遣社員として貴方の下で働いている日向さんをこの家に呼んでもいいですよ。彼女なら貴方のことを知り尽くしているでしょうから、かいがいしくお世話をしてくれるかもしれませんね。私が何も知らないと思ったら大きな間違いです。知っていて知らぬ振りをしていることもあるんですよ。
それでは、十九年分の有給休暇、しっかりいただきますので後のこと、よろしくお願いします。くれぐれも火の元だけは注意してくださいね。
「いったいあいつは何を考えているんだ!」
思わず叫んでしまっていた。
なんとも自分勝手な手紙であり、勝手な言い分を並べて、さもそれが当然のように締めくくっているのだから仕方が無い。
さらに日向クンの名前を出してこともあろうか俺を脅すような内容。
あいつはいったい誰のおかげで屋根のあるところに住み、食事をし、金を使えていると思っているんだ。
疲れて帰ってくればこの状況。
腹も減り苛立ちはさらに増すような気がして、とにかく登紀子がいないのならば今晩の夕食は真由美に作らせようと真由美に言えば、生意気にも自分のことは自分でやれなどと抜かす。
誰のおかげで学校に行き、好きなものを買い、勝手に遊んでいられると思っているんだ。
「……父さんのそういう態度が嫌で母さんいなくなったんじゃないの?」
娘の一言に俺は思わず手を上げていた。
今まで娘や妻に手を上げたことは一度も無い。
反射的に自分に向かって放たれたその言葉に手を上げていた。
頬を押さえ自分を睨み付けてくる真由美の瞳は、見る間に涙であふれ始めていたが、俺は俺に向かって向けられた娘にあるまじき発言、図星を衝かれてしまったその言葉に、振り上げたこぶしをおろすことはできずいい加減にしろと怒鳴りつける。
食い縛った唇と殺されるのではないかと思うほどの殺気立った瞳を向け、真由美は一言も発することなく自分の部屋へ走り去った。
その場に立ち尽くした俺の耳に聞こえてきたのは扉の閉まる大きな音。
「くそっ、全部登紀子が悪いんだ。勝手なことをしやがって……」
背広を脱ぎソファーに投げつけながら腰を下ろした。
頭の中はぐちゃぐちゃで、いったいどうしてこうなったのかと自問自答する。
登紀子の手紙の内容では俺の言葉が原因であり発端だとなっていたが、いったい俺のどの言葉にあいつが反応したのかは書いておらず、自分でもいったいどんな言葉を登紀子にかけ、登紀子をこんな行動に追いやったのかどんなに考えても全く思い当たらなかった。
頬に手を当て、自分を睨み付けた娘の瞳はまるで登紀子に責められているかのようで、そのことと登紀子の手紙の内容が頭の中を回り考えが整わない感じがする。
大きなため息をついた。
実際問題、登紀子はここには居らずどこに行ったのかもわからない。
登紀子の両親はすでに他界していて実家は弟が継いでいる。まさかそんなところにノコノコと家庭で問題があったからと帰っていくような女じゃないだろう。
「そうだ、携帯電話だ」
すぐに自分のスマートフォンを出して登紀子の携帯電話にかけてみる。すると、なんと携帯電話の呼び出し音が寝室から聞こえてくるではないか。
「……持って行かなかったのか」
わざとなのか、それともすぐに忘れ物をする登紀子だからただ単に忘れていったのかは分からないが、連絡がつかないことには違いない。
ふと思いついたのは登紀子が差し出してきたチラシだった。
「そういえば、旅行がどうだとか言っていたな」
面倒なことを言い出したと、そのときは少し見るだけにとどめていたが確か大分。
今考えてみればあの場所は、忙しくて海外へ行く暇も無く申し訳程度で行った新婚旅行代わりの旅行の行き先。
「あそこに一人で行ったのか」
登紀子がたった一人でやることといえばそれくらいだろう。
あいつは俺が居なくては何も出来ないやつだ。
捨ててしまっているかもしれないと思いつつも、リビングの棚という棚を探してやっと見つけたチラシ。
宿らしき電話番号に電話をしてみるが、そのような人は泊まっていないし予約もしていないとあっさりいわれてしまった。
このチラシの場所で無いとするなら、もう俺には登紀子がどこに行ったのかなど見当がつくところは一つもない。
受話器を置いて考えたが、あれだけの文章を書いて置いていくくらいだ。
今すぐ死のうとかそんなことを考えているわけではないだろう。
だったら何も探す必要は無いのかもしれない。どうせ行くところは無いんだ。ここに帰ってくるだろう。
下手に騒ぐことはせずに当面は登紀子がおいていった四万円で生活していくのが利口なやり方。
何より、勝手に出て行った登紀子を慌てて探すなど、まるで登紀子が居なくてはダメだと自分で言っているようで癪に触って仕方がない。
いったいどのくらいの期間登紀子は出て行き、いつ帰ってくるのかわからないが、この金額で一ヵ月半はいけると言ってのけている様子から、一ヶ月は帰ってこないつもりなのかもしれない。
お金の管理はすべて登紀子がやっている。
まぁ、金に限らず家のこと一切登紀子がやっているので俺には何がなにやら全くわかっていない。
登紀子がどうのの前にそちらのほうが困ったことになりそうだ。
「どうしたもんだろうな」
呟いて、これからのことを考えねばと思っていた俺の腹が大きく鳴り響いた。
こんなでもやっぱり腹は減るのかと、妙な感心をしながらインスタントラーメンでも食べるかと台所に向かった俺はそこで呆然と突っ立った。
綺麗に片付けられた台所で、俺はインスタントラーメンがどこにあるかもわからなかったのだ。
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