各家族。

御手洗孝

第1話

 「其れ」が「其処」にあるといういつもの光景。


 例えば。

 猛暑の中自宅に帰ってきたアナタは、体中を濡らす不快感を拭う為、まっしぐらに風呂場へ行き、洋服を洗濯機の中に放り投げてシャワーの蛇口をひねった。少し熱めのお湯が纏わりついていた水分を流していったが、まだ不快感は残る。いつも通り、意識せずに手を伸ばした先に自身の体をきれいに洗浄してくれる、通常ならばあるはずのものが無く、不快感が残る濡れた体のまま、アナタは途方に暮れてしまう。


 例えば。

 普段はそれほど重要だと思っていなかった指に怪我を負ってしまった。いつもは気にすることも、気になることも無い指のはずなのに、妙に生活が困難で、アナタは改めて自らの指の存在を知る。


 他愛が、無い。

 故に、たわい無い。


 「其れ」は当たり前の日常の中では気付く事が出来ない。




 数十年前に分譲された住宅街の一角。

 ごく普通のサラリーマンと専業主婦、そして娘が一人のありきたりな家庭。

 家族は三人、広くもなく狭くもない住宅の表札には平松という苗字が掲げられている。

 一人娘の真由美は小学校五年生の頃から父親との距離を置き始め、高校生になった今では洗面所という小さな空間に一緒にいるだけでも嫌だと、嫌悪感を露にする。

 そんな娘に苛立ちながらも本人に対して面と向かって怒ることも咎める事もしない清史はこの家の主。

 先に使っていたにもかかわらず、洗面所を追い出された清史はやれやれとため息をつきながら、せわしなく動き回る自分の妻にいう。

「おい、あれはどうにかならないのか? 毎朝毎朝、親に向かってする態度じゃないだろう」

 二人分のお弁当を包み、朝食を食卓に並べている妻、登紀子は夫の言葉に「えぇ、そうですねぇ。また言っておきますよ」といつもと変わらない上の空の返事をした。

 毎朝の出来事であり、文句を言い、それに返事が返ってくれば満足する清史は食卓に座り新聞を広げる。

 平松家の日常は常に違っているようでありながら、ほとんど変わらぬ毎日の光景だった。

 じめじめとした梅雨のうっとうしさがまだ残っていた六月の末。

 清史が出勤し、続けて真由美が登校。朝の慌しさから少し解き放たれ登紀子がゆっくりと作業ができる時間。清史が出しっぱなしにしていった新聞を片付けながらふと、新聞の折込広告に目が行った。

「あら、へぇ」

 片付けの手を止め、広告片手に食卓の椅子に腰を下ろした登紀子は少し微笑みを浮かべて、ふぅと小さく息を吐く。

「いいわねぇ。あぁ、そういえば、今度お休みをとれるって言っていたわね」

 ふふっと少し顔を赤らめながら微笑んだ登紀子は広告を綺麗に折って、戸棚のガラス戸の中に閉まった。

 登紀子は専業主婦である。

 見た目は肝っ玉母さんといった感じで、貫禄のある姿かたちをしているが体は弱い。

 体が大きく貫禄があるため、登紀子の体の弱さを知らない人からは、丈夫な体で頑丈そうだというまったく正反対の誤解を受けやすかった。

 頼まれると断れない性格でもあり、働いていた頃は無理をしすぎて薬漬けといってもいい毎日を送っていた。そんなこともあり、清史と結婚してからも数度働きに出るものの、体調を崩して辞めてしまい逆に迷惑をかけてしまう事が多く、真由美を出産してからは働きに出ることは無くなる。

 特にお金に困っているというわけではない。不景気とはいえ、ありがたいことに清史の給料が減らされることもリストラに合うこともなく、以前に比べれば昇給は少なくなっていたが清史一人の稼ぎで何とかなっていた。とはいえ、決して裕福というわけではない。清史の稼ぎからローンを返し、日々の生活も贅沢を都度しなければ十分食べて行けるという程度。毎日家計に悩みながら老後のための貯えも少しはしているが、多少の心配は残る。自分の体が丈夫であったなら二馬力で働くのが一番いいのはわかっていた。しかしそれはかなわない。

 働きに出ることをやめた登紀子は、専業主婦として自分は決して贅沢はせず、毎日の自分の家での仕事に一生懸命になろうと決めたのだった。

 朝は家族の中の誰よりも早く起きてお弁当と朝食を作り、清史と真由美が出て行けばテーブルに置きっぱなしの食器や新聞などを片付けながら少し休憩。

 掃除洗濯、天気がよければ布団を干して庭の手入れをする。豪邸ではないとはいえ、掃除を隅々までふくよかな体の登紀子がやるとなると骨が折れた。

 何かとせわしなく動き回って、やっと、昼間の一、二時間ほど自分の時間をとることができ、そうしてほっとしたのも束の間、広告をチェックして安い食材を買いに自動車を運転し出かけ、その後は夕食の準備をしたり洗濯物を取り込んだりと再びやることが山積みになる。夕食が終わればその片付けが待っているし、風呂を入れて、就寝前には清史が散らかしたリビングなどの片付けもこなさなければならない。

 これが平日はまだいいが、清史と真由美が休みの日になると昼ごはんを作ったり、何かしら突発的なお願いをされたりと更に忙しくなるのだ。

 しかし、そんな日々の忙しさの中に追われていても登紀子にとっては主婦という仕事はありがたい仕事でもあった。

 専業主婦は、外に働きに出て決められた時間に命令されたことをしなければならない会社員勤めとは違い、自分で自分の時間を調整することが出来る。それは体調と相談しつつできることでもあり、体の弱い登紀子にとってはありがたいことなのだ。そしてそれこそが専業主婦の特権だろう。

 外の会社勤めと専業主婦。

 仕事の内容はかなり違い同じような位置で比べるのは少し違うだろうが、大変さは変わらないと登紀子は思っていた。ゆえによく言われる専業主婦は暇で良いという内容はあまり好きではない。

 専業主婦は家事や家族のためにやって当たり前と思われている面がほとんど。

 どんなに家族のために一生懸命働いてもそれをほめてくれる人も給料をくれる人もいない。そう考えるとやりがいが感じられないように思うが、登紀子は口には出さなくても家族はきっと自分のやっていることを理解し、感謝してくれているに違いないと思っていた。だからどんなに大変だろうと少しの体調不良ぐらいは根性でがんばって家事をこなすようにと心がけてやっている。

 そうして、いつも通りの主婦業をせわしなくやっていれば一日の経過はあっという間で、夕方には真由美が帰宅し、その後、数時間のちに清史が帰宅するのだ。

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