幻を抱きしめたい

兎舞

第一章

『貴女はこれから、愛も富も名声も手に入れるでしょう。』


 タロットカードを勿体つけてめくりながら、占い師は「さあ喜べ」と言わんばかりの笑顔を向けながら、總子へ告げた。

 しかし、占い師の予想とは裏腹に、總子は大きなため息をついて席を立った。

 客の反応に首を傾げ、可も不可も告げず去ろうとする客に、プライドを傷つけられた気がした占い師は声をあげて引き留めようとするが、總子はそのまま店を出た。

 見料は入るときに払っている。出ていくのは總子の自由だ。


 薄暗い占い館を出ると、五月の眩しい日差しが目を刺してくる。


(違う…)


 先ほどから、その言葉だけが總子の胸の中をぐるぐると旋回し、心だけでなく血流まで泡立たせているようだ。


(私は、富も名声もいらない)


 そう、總子が求めているのは、そんなものではない。


(私が欲しいのは、――――だけなのだから)


 總子は、目を閉じると涙が滲みそうになったので、慌てて顔を上げて往来の人混みに紛れていった。


◇◆◇


 牧總子、28歳。

 今まで異性と(同性ともだが)交際したことがない。

 いわゆる「年齢=彼氏いない歴」の持ち主である。


 でもそれは、恋愛に興味がなかったわけではない。

 女子校育ちだったわけでもない。

 読書が趣味だが、特別な嗜好があるわけでもない。

 特に男性嫌いというわけでも、ない。


 よく母が言う『縁遠い』質なのかもしれない。

 特別に恋愛を忌避するわけでもないが、かといって積極的に交際相手を求めるわけでもなく淡々と過ごして来た。


 両親も總子の性格を理解しているのか、そもそもがのんびりしているのか、「いい年なんだから」などと言って結婚をせっつく様子もない。


(私は、これでいいんだ)


 本人も周囲もそう考えて過ごしてきた結果だ。

 ずっと、このまま過ごしていくものと、總子自身も思っていた。


 なのに―。


◇◆◇


 いつもの通勤電車。

 總子の家は都心まで多少距離がある、「都会」と「田舎」の中間地点のような、微妙な立地だ。

 仕事場のある赤坂まで、毎朝満員電車を1時間ほど乗り継いで通っている。


 夏場は嫌いだ。

 車内の冷房などまるで意味を成さない。人間の数に対して冷房機能が非力すぎるのだ。

 暑いからみんなイライラしていて、ちょっと押したり押されたりぶつかったりぶつかられたりで、密着した空気が重くなる。

 そして、女性は。

 薄着になる分、特定層からは無防備に見えるのだろう。

 冬場に比べて被害が増える。


(ああ、これ、まただ…)


 20代も後半になれば、電車の痴漢は日常的な不運だ。

 もちろん赦すつもりも受け入れるつもりもないが、諦めさせる方法も逃げ方もそれなりに身に着けている。

 こちらが気づいていることを示すため、ほかの人には迷惑にならないように、わざと体の向きを変える。

 しかし都心へ向かう朝の満員電車では、完全によけきれるほど大きく動くことは出来ない。汚らしい手は相変わらず總子を追いかけてくる。


(もう、面倒くさいなぁ…)


 非常識な行動に出られる前にこちらから意思表示するしかない。

 少し細めのヒールを履いてきて正解だった。犯人の足の甲を確認すると、そこ目がけて踵を踏み下ろそうとした、その瞬間―。


「あんた何してんだよ!」


 車両中、いや隣の車両にまで聞こえるほどの、大きくよく通る声が響き渡った。

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