赤ちゃんまで巻き戻り、それを繰り返す少女

卯月目

赤ちゃんまで巻き戻り、それを繰り返す少女


 小学校入学後、私――小桜未希こざくらみきがクラスに馴染むまでにそう時間はかからなかった。持ち前の明るさで人を惹きつけ、人の笑いのツボをすぐに理解し、気がついたら私の周辺にはいつも誰かがいた。

 小学校卒業後、私は他県の進学校へ通うことになった。そこでも私はすぐにクラスに溶け込み、一週間も経たないうちに、私を中心としたグループは形成された。

 ここだけ見れば、自分でも、誰もが羨むエピソードのように思う。だが現実問題、この背景には、常に勉学のことが絡みついていた。

 物心がついた頃、私は母に「議員になるのよ」と険しい顔つきで命令された。特別その職業に何かこだわりがあったわけではない。とにかく家族は、私を高収入職に就かせたかった。それゆえに時間が空けばいつも勉強をさせられ、趣味と呼べるものも見つからないし、友達とも遊べなかった。学校以外に外出した記憶もほとんどなかった。

 漠然と勉強だけさせられ、自分の意思はどこにもなく、ある日精神を病んだことがあったが、その頃の私はそれを自覚することはなかった。勉強中、ふと涙が込み上げてきた時も、進路の話になると酷い吐き気に襲われる時も、全てはモチベーションの問題だと思っていた。


 転機となったのは、中学三年生の頃、クラスの友達が交通事故で入院し、複数人でお見舞いに行った時だった。

 初めて病院という建物に入り、保健室のような独特な香りと、気持ちの悪いくらいに落ち着いた雰囲気、そして、診療所とは比較にならない規模の大きさに魅せられ、漠然と病院というものに興味が湧いた。

 その好奇心は、一日ですぐに頂点にまで達した。普段下校を一直線に縛られている私なのだが、お見舞いということで、ある程度の時間を与えられており、適当な理由を付けて私はそれを延ばすと、病院内を歩いて回った。

 運命のようなものを感じていた。ここには私の人生の無の部分を有に変えてくれる何かがあるのだと、謎の確たる自信があった。

 まず惹かれたのは、廊下の隅に点々と乗用のおもちゃがあったこと。これは子供の不安を和らげるためのものだろう。素晴らしい工夫だと感じた。

 そしてもう一つ惹かれたのは、手術室に行くまでに泣いてしまった子供を、看護師が抱きしめてあげたり、笑わせてあげたりして、病気への不安を取っ払おうとしていたこと。涙で酷く歪んでいた表情が笑顔に変わっていく様は、私にすさまじい変革をもたらした。

 私もこんな風に、病気に不安になっている子供を笑顔にさせてあげたい。不安に常に寄り添ってあげたい。そうしてようやく私の夢は完成し、人生は彩りを見せ始めた。


 色々苦労して、何とか看護師が高収入職として認められ、その道に進むことになった私だったが、それでも学生のうちは虚無感を拭うことが出来なかった。結局、いつかは役に立つと促され、私はその後も変わらず勉強を続けてしまっていた。


 そのようにして時は経ち、私は地元の寒蘭病院に半年前、入職した。

 やりがいはとても感じていた。朝と昼で三回ほど受け持ち患者と話したり介助したりするのだが、そうやって患者の不安に身近で寄り添える時には、特にそう思える。

 だが、どうしても病院内にいると、難病を抱えて不安がっている患者の話を耳に挟んでしまう。そういう時、私はどうしてもやるせなさに襲われる。日勤は終業時刻が十七時頃だが、それを大幅にオーバーしてでも、不安な患者がいるのなら笑顔にさせてあげたい。看護師としての仕事は激務で、もちろん疲労感なども溜まっている。でも、それ以上に辛いのは、やっぱり患者の不安に寄り添ってあげられないこと。日々、想いは高鳴るばかりだった。

 ある日の夕方、私はタイムカードを切ろうとした手を止めた。日に日に募っていたやるせなさが爆発してしまいそうで、私はカードを切り終えたのち、特に気にかけていた難病患者の元へ向かった。

 ドアをノックし、扉を開ける。ベッドの上で、首を垂らして不安そうに考えごとをしている、七歳の男の子がいた。

 彼は私の存在に気づくと、「誰ですか」と警戒した様子で、顔を強ばらせて問うてくる。私は持ち物からタイムカードを取り出し、彼に身分を証明する。しかし、依然として態度は変わらなかった。

「何の用ですか?」

「明日が手術だって聞いたから、どんな様子かなって見に来ただけ。どう? 怖い?」

 彼はゆっくりと、ぎこちなく頷いた。

「じゃあ、遊ぼう」

「遊ぶ……?」

「うん。手術ならきっと上手くいくから、今は楽しいことをしようよ。夜まで付き合うからさ」

 震わせていた両手を取ると、彼は「本当に?」と目を輝かせる。「もちろんっ」私は精一杯笑って返した。

 その後、私は彼が就寝するまで、仕事から戻ってきた親御さんと一緒に遊び尽くした。車椅子生活を余儀なくされていることは知っていたので、ジェンガ、トランプ、ゲームといった方法で彼を楽しませた。

 この一件以来、私の中のやるせなさは解放された。そして次の日以降も、業務後、色んな患者の元へ足を運び、話を聴いてあげたり、遊び相手になったりした。

 患者の数が多いので、仕方なく私は、業務後のこの活動を、子供にのみ制限した。精神的にまだ未熟なので、もっと寄り添ってあげたいと思ったからだ。

 そんな日々が半年ほど続くと、いつしか病院の子供内でコミュニティが出来上がり、業務後、毎日特定の病室に集まってみんなで遊ぶようになっていた。

 病院生活が退屈でも、病気が不安でも、この時間になれば、みんな笑顔になってくれる。私はこの空間を愛していた。


 二十二時。子供と遊び終え、事務室に戻ると、先輩の福瀬ふくせさんがソファでくつろぎながらタバコを吸っていた。こちらに目を向け、少し目つきの悪い微笑みを向けて煙をふっと吐き出す。

「福瀬先輩、ここでタバコはやめてくださいよ……」

たちばな先生みたいなこと言わないでよ~。それより、今日も行ったの? 子供たちのところ」

「あー、はい」

「ふ~ん。すごいわね……」

 先輩はポニーテールの長いしっぽと、メロンさながらの巨乳を揺らして起き上がり、灰皿にタバコを押しつける。

 また一本取り出して、口に咥えた。

「あなたも吸ってみる?」

 先輩が悪い笑みを浮かべてタバコを揺らす。

「冗談でもやめてください」

「いや、大マジよ。あと大麻もね」

「それも大マジなんですか!?」

「ふふっ。夜中の病院でそんなにデカい声出さないで。冗談に決まってるでしょ」

 先輩が初めから悪ノリなのは気づいていたが、少々オーバーリアクションが過ぎたらしい。ぺこりと頭を下げて、帰りの身支度を始めた。

「それにしても、あなたもすごいわねぇ……。毎日こんな時間まで子供と付き合って……しかも、休日も遊びに行ったらしいわね」

 先輩は感心……と言うよりかは、私がなぜここまで出来るのか、単純に疑問に思っているようだった。

「先輩、趣味ってありますか?」

「アタシ? ジャニーズかな」

「どれくらい熱中出来ます?」

「それは、時間が許す限り。って……」

 私の発言の意味を察したのか、先輩は後頭部を掻いて薄く微笑んだ。

「それと同じって言うの? 本当に良い人ね」

「いえ、たまたま趣味がこれだったってだけです。特に手術前の子とかには、例え休日でも安心してもらいたいんです」

「ふふっ。でもまあ、病気の子供を笑わせることが趣味な人なんて、早々いないわよ。本当、良い人ね」

 二回目は謙遜しないでおいた。

「ところで」

 閑話休題。先輩は一呼吸分の間を置いて、おもむろに口角を上げて言った。

「そんな子供好きのあなたに、任務を与えよう」

「え、何ですか?」

 先輩はタバコの先端で、窓の向こうの第ニ病棟を指した。

「あそこの四階、十〇十号室に雨森由紀奈あめもりゆきなちゃんって子がいるの。ある珍しい難病を患っていて、ずっと病室から窓だけを眺めている子でね……。治療にもなるかもしれないから、一度話してみてほしいの」

「……その難病っていうのは?」

 治療になるかもしれない、と言われるといまいちピンと来ないが、とりあえずその病の正体を知りたかった。

 先輩は「それがね」と前置きすると、少し寂しそうな目で答えた。

「遡行型の身体呼応症候群しんたいこおうしょうこうぐん。簡単に言うと、成長した体も、人格も記憶も、全てが赤ちゃんまで戻ってしまう病気で、一度戻ったら治まるのだけれど、新たな人生を歩んだ彼女は十二年後、また遡行を始めるわ。遡行するタイミングは、それを患った歳になったら始まるもので、あの子は十二歳だと断定されたから十二年後ってわけね。だからあの子は、赤ちゃんに戻って少ない時間を生きて、また赤ちゃんに戻って生きて……。それをループしなければいけないの。寿命がやってくるその時まで、大人にもなれずにね」

「……」

 身体呼応症候群。授業でも習ったことはなく、名前を小耳に挟んだことがあるかないかの認識だったが、その説明には思わず絶句した。

 思い返せば、聞いたことがある。この病院に、かなり珍しい不治の病を抱えた患者がいると。その子のことだろうか。

「治療法とかっていうのは、確立されてるんですか?」

 先輩は残念そうに首を左右に振った。

「病気の進行を抑える手術とかは出来るみたいだけれど、それ以外は、本人の現実への執着心を濃くすることね」

「現実への執着心?」

「そう。観た景色、触れたもの、感動とかを日々更新し続けて、ちょっとでも遡行に抗うらしいわ。でもね、あの子……一日中ぼーっとして過ごしているし、友達もいなければ、両親だって他界しているの。このままだといつ、おんぎゃあ、おんぎゃあって泣き出すか分からないわ……」

「なるほど。じゃあ、治療になるかもしれないっていうのは……、その子と話して、現実への執着心を芽生えさせることが出来れば、ってわけですか……?」

 先輩は頷くと、背筋を伸ばして説明する。

「外国にいる専門の先生が、現実への執着心を高めさせるために、愛想の良い看護師でも付かせてみろって言ってね、私、一回それを引き受けたの。あえなく惨敗したけれどね。でも、あれだけ患者に親身になれるあなたなら、出来るかもしれないわ」

 私は身支度を終えるとドアノブに手をかけた。

「だから、一度話して――」

「行ってきます」

 先輩の言葉を遮り、私は事務室を後にした。


 この病院の上限階数は四で、病棟も二つしかない。第ニ病棟の四階の十〇十となると、最果ての場所だった。

 エレベーターに乗り、廊下を歩くことおよそ五分。『雨森由紀奈』と表記された目的の病室に辿り着いた。

「失礼します」

 優しくドアノックを行う。寝ている可能性を考慮して、声は小さめに抑えた。

 中から反応はない。ゆっくりと扉をスライドして病室を映した。

「……!」

 瞬間、私は別世界に迷い込んだかのような錯覚に陥った。

 至って普通の六畳間の病室で、特に目立った何かが飾られているわけでもない。むしろ、かなり殺風景な方で、日常で扱うものさえ見当たらない。

 異質なのはここからだった。

 まず、電気が付いていなかった。ベッドに付属された豆電球も点灯しておらず、この室内を照らし上げるのは、大きな窓いっぱいに光を放つ星たちだけ。

 ただ、これだけだと、単に由紀奈ちゃんが寝ているだけだったり、外出中だったりと、あらゆる可能性が考え得る。

 しかし、確かに彼女と思わしき人間の姿はそこにあった。ベッドから体を起こし、私という人間に目もくれず、先輩の言う通り、ただただ窓の外を眺めているだけの少女の姿が。

 私はその光景がものすごく不安だった。彼女の中のどす黒い何かが見え隠れしている気がする。反射的に電気を付けた。

 一瞬目がくらみながらも、その視線がまず行きついたのは、雪のように白く、透き通った肌。そして、ようやく私の存在に気づいたのか、彼女はこちらに振り向いた。

 その時、この人はモデルなんだ、なんて意味の分からない確信が自分の中で無意識についた。一切の無駄な肉がなく、全てが造り物のように整った美しい輪郭だった。顔つきは、年齢の割にはかなり大人びているような印象で、美しさを構成する中で、一切の阻害がない容姿端麗の彼女は、ゆっくりと私を見上げた。

 無表情だった。無反応だった。そして、彼女が無感情にも思えてしまった。

 訂正しよう。彼女の美しさを構成する中で、一つだけ阻害物が見つかった。

 それは、表情のパーツを一つも変えることなく、ただ機械のように窓へ向き直る一連の動作に、死人のような目。

 本来、人間が出すべき精力と言う名のオーラが、一切感じられなかったことだ。

「……やっ」

 気軽に挨拶を試みる。ゆっくりと彼女の元へ近づき、傍の椅子に腰をかけた。

「何見てるの?」

「……」

「あー、星の群れ?」

 彼女の視線の先を想像して、勝手に話を進める。

「……」

 彼女は肯定も否定もしなかった。

 私は彼女の顔が見える方へ椅子を持っていき、視線の先を追う。

 ずっと、ずっと山の奥。あるいは、どこを見ようとしているわけではないのかもしれない。

 ただ、時が流れるのを待っているだけなのか。

 私は前者の希望に懸けて話題をすり替えた。

「山って良いよね」

「……」

「特に山の奥」

「……」

「夜の山が好き? もしくは、明るいうちの方が良い?」

「……」

「私はどっちも好きだなぁ~。田舎の山の自然って、無条件に心が洗われる気がしてさ~。でも、夜の山を一人はちょっと怖いかも。感傷に浸れるのは確かだけどね」

「……」

 また、彼女は何一つ反応することはなかった。

「そうか、そうか……」

 私は椅子を元の位置に戻し、腕を組んで首を垂らす。

「お休み」

 そう言い残して、目を瞑った。

 訪れる静寂。彼女は物音一つ立てない。

 だが、このツッコミどころ満載の状況下に身を置けば、何らかの影響で彼女の精神が死んでいない限り、きっとツッコミが来ると思った。

「帰ってください」

 予想通りだった。

「ねえ、私の名前は、小桜未希。君は?」

 流れに乗って会話を試みる。

 彼女は迂闊だったと言わんばかりにため息を吐いて、

「…………雨森由紀奈です」

 そう名乗った。

 彼女は決して私に顔を向けることはなかったが、確かに今、私と彼女はコミュニケーションを取った。それに、表情は見れなかったが、ため息を吐いた辺り、彼女の中には確かな感情が眠っていた。

 私はそれがたまらなく嬉しくて、思わず上がってしまう頬を矯正させることが出来なかった。

 声の反応がなかったからか、彼女はゆっくりとこちらに振り向く。同時に、私のニヤけ顔を見て少し眉をひそめた。

「……はぁ」

 微かにため息が聞こえ、反論するように、私は有り余る嬉しさを彼女に伝えた。

「だって、会話が成立したじゃ~ん」

「あなたは究極に友達がいない人なんですか」

「そうそう。友達いないの。だから、友達になってくれない?」

「嘘吐きとはなりません」

「えぇ~? 友達の定義って、人それぞれだから、本当に私に友達がいない可能性だってあるんだよ?」

「屁理屈を並べるなら、もうあなたとは話しません」

「あ、すいません……」

 凹む私を見て、彼女はまた一つ小さなため息を吐いた。

 再び沈黙が訪れると、再度彼女は窓に目を向ける。

「何見てるの?」

「……誰の差し金何ですか」

「え?」

「普通はこれくらい会話すれば、もう看護師は業務に戻るでしょう。なら誰かに、私と話せって言われたんですよね? 誰ですか?」

「うーん……」

 ここで嘘を吐いても仕方がないので、素直に「福瀬先輩」と答えた。

「はぁ……。あの人、まだ私のこと気にかけてたんですね」

 彼女は依然、外を眺めたまま続けた。

「半年前、しつこく私に付きまとって来たんですよ。病気の進行を抑えるためにって。でも、一度、私がものすごく拒絶したんです。私のことは放っといてって。それ以降、あの人だけでなく、病院の関係者のほとんどが、業務以外で私に絡むのをやめました」

「……そんな過去が」

 あえなく惨敗した、と先輩は言っていたが、その内容を聞いてみると、少し胸が痛む話だった。

 それよりも、一度本気で怒られたくらいで、なぜ病院の人間は彼女に構わなくなったのだろうか。

 何か脅しでもかけたのだろう。これ以上付きまとうなら、なおさら病気は諦める、とでも。

「……ってことは」

 この時、私は今の自分の立場が先輩と重なっていることに気がついた。

 まさか彼女は、間接的に私に消えろと言っているのか?

「はい。あなたもその気なら、容赦しませんよ」

「……」

 そのまさかだった。

「なるほど。……ちなみに半年前、先輩に怒った以外で何か言った?」

「これ以上付きまとうなら、なおさら病気は諦める、と」

「なるほど……」

 私の妄想と一語一句違いはなかった。

「なるほどね……」

 もう一度唸る。

「なるほど……」

 さらに唸る。

「うーん……」

 最後にもう一度唸って、呟いた。

「……詰んだね、私」

「はい。さようなら」

「……」

 一連の流れは若干コントっぽくなっているが、私が今、心に負った傷は割と深かった。

 どうすれば、先輩と同じ運命を辿らずにいける?

 この状況で、彼女に見放されない方法があるか?

 私がやらなければ、誰も彼女を気にかける人間はいないだろう。

 そうなれば、彼女はずっと外の景色を眺め続け、やがて病気が進行して赤ちゃんに戻ってしまう。

 看護師として、患者のそんな運命を見過ごすわけにはいかない。

 だが、どうすれば良い?

 向こうから私に興味を持ってもらうか?

 いや、彼女が持つのか? 毎日、窓の外を眺めているだけの、彼女が。

 私でなくとも、人に、現実に興味が湧くのか?

 彼女の印象、そして、先輩の話から、私には彼女が病気を完全に諦めているようにしか思えなかった。

「……さ、早く部屋から出てください。それとも、直接脅さなければいけませんか? 小桜さ――」

 その瞬間、私はやけくそに彼女の脇腹をくすぐった。

 彼女は勢い余って吹き出し、必死に私の腕を振りほどこうと試みながらも、必死に両手で顔を隠し、溢れた涙を手の甲で拭っていた。

 数秒後、私は彼女を開放させると、何事もなかったかのように真顔へ戻る。その光景が少しシュールで、思わず私も笑ってしまった。

「あははっ」

「わ、笑わないでください!」

「いや、急に真顔に戻らないでよっ」

「は、はぁ? あなたのせいですよね?」

 彼女はそこまでツッコミを入れたところで、一息吐いて布団に顔を押しつけた。

 数秒ほど肩を小刻みに揺らし、また、何事もなかったかのように顔を上げる。

「笑って良いかな?」

「笑ったら殺します」

「あ……」

 大人しくだんまりを決めると、ほどなくして彼女はもう一度布団に顔を預けた。

「もう……うざいです」

「もっと言って?」

「うざい!」

「ごめん……帰るよ」

「あーもう! もーー!」

 もはやツッコミを入れることなく、自分の中の葛藤と戦っているらしい。

 彼女はまた真顔で起き上がると、おもむろに天井を見上げた。

「はぁ……」

「さっきから何してるの?」

「……もう良いです」

「ん?」

「遊びは終わりです。束の間の幸福をありがとうございました。でも、ここを耐えたら、もっと幸福が待ってるので」

「……?」

 言葉の意味が理解出来なかったが、確かに彼女は今、幸福が待っていると言った。

 私たちは思い込みすぎていたのかもしれない。彼女には彼女なりの楽しみが、幸せがあったのだろう。とりあえず一安心した。

「よしっ。じゃ、今日はこの辺で。流石に帰らないとおばあちゃん怒るからね」

「そうですか」

「うん。じゃあ、由紀奈ちゃん。バイバイ」

 彼女は不愛想に「ええ」とだけ返した。

 病室を出て、壁にもたれて一息吐く。先輩が拒絶された理由が分からないくらい、彼女は私に心を開いてくれた。現に私は最後、彼女から「二度と来ないで」のような文言を受け取っていない。とりあえず、先輩のようなルートを辿ることはなくなったと見て良いだろうか。

「よし」

 出だしは順調と言える。あとはこのまま、私にもっと心を開いてもらって、現実への執着心を芽生えさせれば完璧だ。

「……」

 完璧。そう、完璧だ。今発見されている治療法としては、完璧だ。

 けれど、彼女はいつか赤ちゃんまで戻ってしまう。それを繰り返してしまう。

 仕方ないことだと思う。私が嘆いたところで、何かが変わるわけではない。

 受け入れよう。受け入れて、それでも必死に病気に抗う手助けをしよう。本人もそれを望んでいるはずだから。

 だが、今の私は知らない。この時にはもう既に、異変に気づくべきだったことを。


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【心開きすぎ問題について】企画に参加された方へ。全文を読んでいない段階でこの問題について指摘を下さる方があまりにも多いので説明致します。

 新人賞は全文を読まれることを想定しております。終盤にこの問題について納得のいくよう構成したつもりですので、この点に関しての指摘はその終盤を読み、その上で疑問に残るようであればして頂きたく思います。申し訳ないです。


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