第19話 二日目、自主見学

「あ、椎名さん。いまちょっとだけいい?」

「はい……?」


 朝食を終え、部屋に戻る途中でふと担任の橘に呼び止められた。柚香となずなには先に行ってもらい、彼女に手招きされるまま人気のない廊下の隅で向かい合う。


「よく眠れた? 体調は悪くない?」

「大丈夫です」

「なにか困ったことがあったら、私でも榎本先生でもいいから、遠慮せず言ってね」


 榎本から事情は伝わっているのだろうけれど、おねしょをしたことについて直接的には触れられなくて安心する。はい、と頷くと橘はそれ以上昨晩のことについて言及することはなく、すぐに解放してくれた。


「茜、大丈夫だった? 先生なんて?」

「大丈夫だよ。ちょっとお話しただけ」


 部屋に戻ると柚香から心配そうな視線を向けられた。二人ともすでに荷物をまとめている。あと二十分で集合時間なのであまりのんびりしてはいられない。

 今日は一日、京都で班別自主見学だ。


***


 奈良のホテルから京都駅まではクラスごとに貸し切りバスで移動し、そこからは班行動だ。男子二人と柚香は神社や寺にあまり興味がないらしく特別に行きたいところもないというので、見学コースはほとんど茜となずなで決めてしまった。

 京都には二人が共通して好きな小説にまつわる場所がいくつもある。もちろんすべてを巡るには時間が足りないので、迷った末に行き先を選んだのだった。


 京都駅から地下鉄とバスを乗り継いで一時間と少し。最寄りのバス停で降りて五分ほど歩くと、最初の目的地である貴船神社の本宮に到着した。

 鳥居をくぐり、朱塗りの灯篭が両脇に並んでいる石段を上って境内に入る。平日ということもあり参拝客の姿は少ない。静かな境内には神秘的な雰囲気が漂っていた。


「わぁ……」

「ここが貴船……!」


 茜もなずなも少しの間、感動に打ち震えていた。

 大好きな物語に登場した場所に、いまこうして立っている。京都なんて物凄く遠い場所だと思っていたのに。内心でひそかにテンションが上がる。


「茜、なずなー、参拝しないの?」

「する!」

「おみくじも引きたい!」


 柚香に促されて慌てて本殿に足を向けた。時間は限られているので、あまり一ヶ所でのんびりしてもいられない。

 参拝を済ませてから社務所でおみくじを引く。

 貴船神社では水の神様を祀っている。ここのおみくじは水占といって、水に浮かべると文字が浮かび上がってくるものだ。昨日の鹿みくじは引かなかった男子たちも、物珍しさに興味を持ったのかおみくじを引いていた。


「大吉だ……!」

「あたしも大吉!」

「私また中吉だよ……」


 おみくじに浮かんだ文字を見て、茜は思わず顔を輝かせた。昨晩見た夢のせいで班行動には少し不安を持っていたが、なんだか幸先が良い気がしてきた。

 自由に汲めるご神水も少しだけ口にする。水の味なんてよくわからないかもしれないと思ったけれど、普段口にしている水よりも口当たりが柔らかくて美味しく感じた。


「ほかにも行くんだっけ?」

「うん、奥宮と結社も! ちょっと歩くけどいいよね?」

「いいよ。行きたいんだろ」


 大樹からの問いかけになずなが応える。せっかく来たのだから、すべての社殿を見ていきたい。

 本宮の境内を出て歩き出したところで、視界の端にトイレの建物が見えた。移動中に一度トイレ休憩を取ってもらったけれど、茜はすでに尿意を催し始めていた。できればそろそろ寄っておきたい。隣を歩く柚香にそっと声をかけた。


「あの、柚香ちゃん」

「ん、どしたの? トイレ?」


 言おうとしたことを言い当てられて、思わず頬を赤らめた。こくんと小さく頷く。


「ちょっとトイレ行ってくる! 先行っててもいいよ」

「あ、じゃあ、私も行くー」

「俺らも行っておく?」

「うん。出たところで待ってるから」


 柚香が声をかけると、結局全員トイレに行く流れになった。なんとなくほっとする。

 用を足してすっきりしてから、合流して歩き出した。緑豊かで静かな山中、近くを流れる貴船川のせせらぎが耳に入ってくる。みんな、賑やかにお喋りをするような気分にはなれないのか、自然と口数も少なくなっていた。


(素敵なところだなぁ……いつか夏癸さんと一緒に来られたらいいな)


 思わずそんなことを考えてしまう。

 奥宮へ向かう道の途中に中宮である結社があるのだが、本宮、奥宮、中宮の順序で参拝すると願いが叶うと伝えられている、らしい。

 どうせならその通りにしようと、先に奥宮への参拝を済ませてから、来た道を戻って結社を訪れた。

 ここには縁結びの神様が祀られているらしい。願い事はもちろん、ひとつに決まっている。


(夏癸さんとずっと一緒にいられますように……)


 手を合わせて、胸の内で静かにお願いする。

 どうすればいいのかいまはまだわからないけれど。

 大人になっても、夏癸と一緒にいられるように。神様の力を少しだけでも借りたいと、茜は思っていた。


 結社での参拝を終えてバス停まで戻る途中、近くのカフェで昼食を摂ることにした。付近には川床料理のお店もあるが、さすがに中学生には敷居が高すぎる。

 席に案内されてメニューを見る。真っ先に決めたのはなずなだった。


「私は抹茶パフェ!」

「わたしは……抹茶パンケーキで」


 茜もあまり迷わずに決める。二人の注文に、柚香が口を挟んだ。


「デザートじゃん! ご飯食べないの?」

「そんなに食べられないもん。私のお昼はパフェでいい」


 唇を尖らせるなずなに同意するように茜もこくこくと頷く。

 男子たちと柚香は丼ものを注文し、しばらく待つと注文の品が運ばれてきた。

 茜の目の前に抹茶パンケーキが置かれる。二枚並んだパンケーキの上に、抹茶アイスと小倉餡、ホイップクリーム、黒蜜がトッピングされている。

 なずなが頼んだパフェもボリューム満点だった。抹茶わらび餅や寒天、コーンフレークが重なったパフェグラスの上に、抹茶アイスと白玉に小倉餡、絞った生クリームの上にさくらんぼがトッピングされている。


「茜ちゃん、一口交換しない?」

「うん。どうぞ」

「いいなー、あたしにも一口ちょうだい!」

「うん。いいよ」

「仕方ないなぁ。じゃあ、柚香のもちょっと食べさせて」


 嬉々として抹茶スイーツを食べ始めた茜となずなだったが、全部食べ切らないうちに手が止まってしまった。小食な二人にはいささかボリュームがありすぎたようだ。

 二人の食べ残しは柚香の胃に収まり、無事完食することができたのだった。


***


 次の目的地は晴明神社だった。移動時間はまたもや一時間程度。貴船神社が遠かったので、どうしても時間がかかってしまう。

 ここも二人の好きな小説に縁のある神社だ。なずなはとくに、それ以外でも陰陽師・安倍晴明のことが好きらしい。


 参拝を済ませてからあちこち写真を撮っていたなずなが、ふとスマホを横持ちにしたまま立ち止まった。何かを見つけたのかと思ったが、ちらりと目に入った画面はゲームアプリのようだった。

 見学中にゲームなどをするのは禁止されているが、先生が見ているわけでもないのでここは目を瞑っておく。なずなが妙に真剣な表情をしているので声をかけるのもなんだか躊躇われた。


「……っ!」


 何度か画面をタップしていたなずながふと目を丸くした。「やった、晴明様……!」と小さな声で呟く。


「ちょっと追いお賽銭してくる!」

「え? いってらっしゃい……?」


 再び本殿に向かうなずなを呆然としつつ見送る。おいお賽銭ってなんだろう、と疑問に思っていると、離れたところにいた柚香が戻ってきた。


「あれ、なずなどうしたの?」

「スマホのゲーム? でなにかあったみたいで……おいお賽銭? してくるって」

「あー、そういえば晴明神社でガシャ回したいって言ったなー。SSR引いたんじゃない?」

「えすえすあーる?」

「なずながやってるソシャゲでね、いま安倍晴明ピックアップしてるんだって。あたしも誘われて始めたけど、最近全然触ってないなー」

「ぴっくあっぷ……?」


 よくわからない単語ばかり出てきて頭の中にはてなマークが浮かぶ。

 茜もスマホは使っているが、アプリは必要最低限のものしか入れていない。柚香やなずなにお勧めされてパズルゲームなどをやってみたこともあるが、余暇は読書に当てたいのでほとんど触っていなかった。

 ソーシャルゲームの存在もなんとなくは知っているけれど、実際にプレイしたことはないので何もわからない。


「茜はソシャゲとかやんないからわかんないよね。あ、戻ってきた」


 なずなが踵を返してこちらに戻ってきてから、柚香が訊ねた。


「欲しいの引けたの?」

「引けた! ばっちり!」

「いくら課金した?」

「大丈夫無課金だから! いや、おにいに頼んで十連分だけギフトコード恵んでもらったけど、それだけだから……!」


 茜にはわからない会話を続ける柚香となずなだったが、「そろそろ移動しないと」と椋が話しかけてきたので、次の場所へ向かうことになった。


 最後は定番の清水寺だ。

 人気のスポットだけあって、いままでで一番修学旅行生や観光客が多い。人混みに辟易しながらも見学を終え、残った時間は京都駅近くでお土産を買うことにする。

 清水寺の周辺にも土産物屋はたくさん並んでいて、実際いくつか買い物もしたけれど、あまりかさばるものを買うと移動中邪魔になるのでメインの買い物は最後にと決めていた。

 たくさんのお店が並ぶ地下街へ行き、待ち合わせ場所と時間を決めて男女で別れる。


(夏癸さんのお土産、なにがいいかな……?)


 初めは三人でお菓子の売り場を見ていたけれど、選択肢が多すぎてどれにするか悩んでしまう。とりあえず定番の生八ツ橋と自分が食べたいと思ったお菓子を買ってみたけれど、夏癸に喜んでもらえるお土産かと考えるとピンとこない。

 他のお店は何があっただろうかとスマホでフロアマップを確認してみると、湯葉のお店があることに気付いた。これにしよう、と直感で決める。


「わたし、ちょっとほかのお店見てくるね」

「一緒に行こっか?」

「柚香ちゃんまだ買ってないでしょ? 一人で大丈夫だよ」


 買い物途中の柚香に声をかけて、少し離れたところにある店舗に向かう。店頭には多くの種類の湯葉が並んでいてどれにしようか悩んでしまったが、考えた末に四種類の乾燥湯葉が入った詰め合わせを購入した。

 夏癸は湯豆腐と蕎麦が好物だが、湯葉も好んで食べるので喜んでもらえたら嬉しい。


 良さそうなお土産を買えてほっとした途端、ふと下腹部の重さに気付いた。それまで尿意なんて気にしていなかったのに、急にトイレに行きたくなってしまった。

 きょろきょろと周囲を見渡して手洗いの案内を見つける。けれど、すぐに足を向けることは躊躇われた。手には食品の入った紙袋を持っている。それも夏癸に渡す予定のものを。これを持ったままトイレに入るのはなんとなく抵抗があった。


(柚香ちゃんかなずなちゃんに、持っていてもらおうかな……)


 二人に頼もうと思って元の売り場に戻る。けれど、柚香もなずなもいなかった。他の店を見ているのか、それとも先に待ち合わせ場所に戻っているのだろうか。

 ひとまず待ち合わせ場所に足を向けてみると、やはり二人の姿はなく、椋だけが一人で佇んでいた。


「椎名さん! 買い物終わったの?」

「うん。ほかのみんなはまだ?」

「まだ俺だけ。そろそろ戻ってくると思うけど」


 柚香かなずながいれば気兼ねなく頼めたけれど、さすがに椋には頼みづらい。

 どうしよう。宿泊先まで我慢しようかな。でも、宿に着いてもすぐにトイレに行けるとは限らないし、できればいまのうちに行っておきたい。

 迷いながら、椋とはとりとめのない雑談をぽつぽつと続ける。二人とも、早く戻ってきてくれないかな。今日は柚香となずなが気を遣ってくれたおかげでトイレの不安がほとんどなかったから、このまま失敗することなく一日を乗り切りたい。


「椎名さん? どうかした?」

「あ……ううん、なんでもないよ」

「ほかに行きたいお店あるなら行ってきていいよ?」

「え、えっと」


 平静を装っているつもりだったけれど、なんとなくトイレの方向を窺ったり、柚香たちが戻ってこないか見渡したりしているのが目についたのかもしれない。

 そわそわしていることを気付かれてしまって恥ずかしい。でも、この機会を逃してはいけない気もする。彼に告げるのは恥じらいもあるけれど、意を決して、茜は口を開いた。


「ちょっと、お手洗い行ってきてもいいかな……?」


 なるべくさりげない口ぶりで、そっと呟く。

 椋は二つ返事で頷いてくれた。


「うん、いいよ。荷物持ってようか?」

「ごめんね、お願いしますっ」


 彼にお土産を預けて、平静を装ったままトイレに向かう。十分に離れてから、人にぶつからないように気を付けて少しだけ小走りになった。集合時間に遅れないように戻らないといけない。どうか並んでいませんように。

 軽く祈りつつ女子トイレに足を踏み入れると、順番待ちの人数は少なく、すぐに個室に入ることができた。


(よかったぁ……)


 安心しつつ、背負っていたリュックをフックにかけ、下着を下ろして便座に腰かける。流水音が流れ出すのとほぼ同時に、しょろしょろと微かな水音が陶器を叩いた。

 そんなに我慢しているつもりはなかったのに、思ったよりも水音は長く続いた。ホテルまで我慢していたら少し危なかったかもしれない。

 すっきりしてから待ち合わせ場所へ戻ると、まだ椋の姿しかなかった。


「麻倉くん、ありがとう」

「ううん。このくらい、べつに」


 彼にお礼を言って荷物を受け取る。ふと時間を確認すると、すでに予定の集合時間を少しだけ過ぎていた。どうかしたのかなと少しだけ心配になったが、ほどなくして三人とも姿を現したのでほっとする。


「遅れて悪い。姉貴に頼まれた買い物してて」

「ごめん、私もどれ買うか悩んでて……」

「なずなに付き合ってたら遅くなっちゃった。茜、一人で大丈夫だった? 欲しいの買えた?」

「うん、大丈夫だよ」


 全員揃ったのを確認して、班長の椋が口を開く。


「じゃあ、行くか。門限に遅れないようにしないと」


 今日宿泊する宿は駅から徒歩数分の位置にあるけれど、ほんの少しだけ急ぎ足で向かう。

 柚香たちを待っていたらトイレに行くタイミングがなかったので、やっぱり行っておいてよかったと茜は内心で安堵した。

 こうして、二日目の自主見学は無事に過ごすことができたのだった。

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