第20話 眠れぬ夜
修学旅行二日目の夜。夕飯のすき焼きを食べ終えたあと、一気に昼間の疲労感に襲われた茜は、部屋の隅で静かに本を開いていた。とはいえ、一冊だけ持ってきた文庫本をなんとなく開いているだけで文字を追う気力はない。
今夜の宿泊先は旅館の六人部屋だ。柚香となずなはもちろん同室だが、普段あまり話さない生徒たちも同じ部屋なのでどうしても少しだけ緊張してしまう。
なずなは部屋長会議に出席しているのでいまは部屋にいない。柚香もテニス部の子たちと一緒にお土産を見せ合って盛り上がっている。けれど、無理に話の輪に入らなくても居心地が悪くはならない。それはこのクラスの良いところだなと思う。
(そういえば、直林賞の結果、どうなったのかな……)
今日は夏癸の作品がノミネートされている、直林文学賞の受賞作が発表される日だ。
スマートフォンでこっそりとニュースサイトを確認するが、速報は出ていない。まだ選考会の最中なのだろう。結果がいつ出るか気になるが、このあとは入浴時間になってしまうのでしばらくスマホを触ることができない。
「早坂戻りましたー。このあと二十分後に二組の入浴時間なので、準備しておいてください。大浴場入れない子は部屋のお風呂使ってだって」
「はーい」
「なずな、お疲れー」
部屋長会議から戻ってきたなずなが伝達事項を告げると、柚香以外の女子たちはおざなりな返事をした。なずなは部屋の中を軽く見渡すと、部屋の隅にいる茜に気付いてこちらに向かってきた。
「茜ちゃん、お風呂の前に榎本先生が部屋に来てだって」
傍らにしゃがんだなずなにそっと耳打ちされる。すぐに何の用件か思い至った。
「わたし、ちょっと行ってくるね」
「一緒に行こうか?」
「ううん。一人で大丈夫」
心配そうに訊いてくれたなずなに軽い笑みを返して、そっと部屋を出る。
ひとつ下の階にある保健室扱いの部屋を訪れると、榎本が一人で出迎えてくれた。
「自主見学お疲れ様。どこに行ったの?」
「えっと、貴船神社と晴明神社です。あと清水寺も」
「随分遠くに行ったのね! 移動とか大変だったでしょ?」
「はい。でも、前から行ってみたかったので楽しかったです」
「それならよかった。……と、渡すものがあるんだったね」
はい、と榎本は膨らんだ白いビニール袋を差し出した。うっすらと学校指定の紺色が透けているが、見なくても中身が何かはわかっていた。昨夜、おねしょをして汚してしまったジャージと下着を榎本に預けて洗濯してもらったのだった。
「……ありがとう、ございます」
「ちゃんと綺麗になったから、安心して」
受け取るのを一瞬だけ躊躇してしまったせいか、榎本は安心させてくれるように柔らかく笑みを浮かべた。
「もし今夜も不安だったら、先生のとこに来ていいからね」
「はい。ありがとうございました」
改めてお礼を言って、ぺこりと頭を下げる。
粗相で汚してしまった衣服を洗ってもらったという羞恥心はどうしても拭えなくて、茜は少しだけ足早にその場を去ってしまった。
部屋に戻るとなずなが一人で待っていてくれた。どうやら他の子たちは先に大浴場へ向かったらしい。荷物について突っ込まれたら少し困ると思っていたけれど、そんなことはなくて安心する。
「柚香たち、下の売店覗いてからお風呂行くって」
「そうなんだ。なずなちゃん、待っててくれてありがとう」
「いいよいいよ」
急いでお風呂セットを入れたビニールバッグを用意する。着替えのジャージは予備として持ってきたものを引っ張り出した。せっかく榎本が綺麗にしてくれたけれど、昨夜失敗したときと同じものを穿いて寝るとまた失敗するのではと思ってしまった。
「茜ちゃん、トイレ行っておかなくて平気?」
「……行ってくる」
茜が入浴準備をしている間にトイレを済ませていたなずなに訊ねられ、部屋に備え付けのトイレで急いで用を足す。我慢しているつもりはなかったけれど、思った以上に激しい水音が響いた。慌てて音消しをする。
なずなが声をかけてくれなかったら、入浴中に尿意に襲われて大変だったかもしれない。
***
大浴場での入浴を済ませ、真っ先に部屋に入った柚香がテレビをつけたかと思うと「あー!!」と声を上げた。
「茜、テレビ見て!」
呼ばれて、テレビ画面に目を向ける。そこに映っていたのは、珍しくスーツに身を包んだ夏癸の姿だった。直林文学賞受賞、とテロップが映し出されている。
「すごいね! よかったね!」
「う、うん。ほんとに……」
はしゃいだ声を上げるなずなに対して、現実を飲み込みきれないまま頷きを返す。
夏癸の作品が、大きな賞を受賞した。そうなったらいいなと思っていたけれど本当に叶ったのだ。テレビ画面の中で喋っている夏癸を見ていると、じわじわと実感が湧いてきた。
(夏癸さんに、早くおめでとうって言いたいな)
明日にならないと会えないのがもどかしい。けれど――心の底から喜ばしいと思う気持ちと同時に、ほんの少しだけ、夏癸を遠い人に感じて寂しく思ってしまう。物理的に距離が離れているせい、だろうか。
何となく心ここにあらずな状態のまま、消灯までの時間を過ごす茜だった。
(……眠れない)
布団に入って小一時間。昼間の自主見学で身体は疲れているはずなのに眠気が一向に訪れなかった。ごろんと寝返りを打って静かにため息をつく。
(また、おねしょしちゃったらどうしよう)
布団に入る前にきちんとトイレは済ませたのに、どうしても不安が消えなかった。
さすがに二日連続でということはないと思いたいが、絶対にしない自信はない。今夜の部屋は昨夜と違い、柚香となずな以外の生徒も同室だ。
万が一失敗してしまったときに、隠し通すのは難しい。中学三年生にもなっておねしょをしてしまうと知られたら、一体どんな反応をされるのだろう。
「……っ」
うっかり嫌な想像をして、泣きそうになってしまった。
頭を振って消そうとするけれど、一度思い浮かんでしまったことはすぐには消えてくれない。こんなとき、夏癸が傍に居てくれたら、きっとこの不安を打ち消してくれるのに。
――夏癸に会いたい。せめて、声を聞きたい。
昨日の朝に見送ってもらって、明日の夜には家に帰れるというのに。
無性に寂しくて仕方なくなってしまった。
枕元に置いてあるスマホをそっと手に取る。時刻は日付が変わったばかり。夏癸はまだ起きているだろうか。
居ても立ってもいられなくなり、茜はそっと布団を抜け出した。
二十二時の消灯以降はスマホの使用が禁止されている。財布だけを手に持って、静かに部屋を出た。
夜でも明るい旅館内の廊下に人気はなく、静寂に包まれていた。
エレベーターに乗ってロビーがある一階まで降りる。見回りの先生に見つかったらどうしよう、とびくびくしながら移動したけれど、幸いなことに遭遇はしなかった。
ロビーの片隅にある公衆電話の前に立つ。存在は知っていたけれど、使うのは初めてだ。
財布を開くと十円玉が入っていなかったので、受話器を手に持って百円玉を投入した。ドキドキしながら、暗記している携帯番号のボタンを押す。全ての番号を押し終えると、呼び出し音が聞こえてきた。
(夏癸さん、出てくれるかな……)
呼び出し音が続く。
公衆電話からかけているから、誰からの電話かわからなくて出られないのだろうか。それとも、もう眠ってしまったのだろうか。
不安に思いながらもコール音を数回数えていると、ふいに通話が繋がった。
『もしもし、茜?』
「っ、なんですぐわかったんですか……?」
『わかりますよ。どうしました? 眠れないんですか?』
「……うん。あ、あのね」
夏癸の声を聴いただけで、安心して、少しだけ泣きそうになる。
ほんの少し躊躇ったのちに、茜はそっと口を開いた。
「実は、昨日……お、おねしょ、しちゃって。今日もしちゃったらどうしようって思ったら、全然、眠れなくって」
不安を吐露する茜に対して、返ってきた夏癸の声は優しかった。
『大変でしたね。それは眠るのも怖くなっちゃいますよね』
「うん……急に電話しちゃってごめんなさい」
『構いませんよ。昨日は片付けとかなんとかなりました?』
「うん。柚香ちゃんが先生呼んできてくれてね――」
昨夜の顛末を簡単に説明する。榎本が対処してくれたことを話すと、「それならよかった」と夏癸の柔らかい声が聞こえた。
『どうしても部屋で寝るのが心配でしたら、保健室に行っていいんですよ。先生もそう言っていたんでしょう?』
「……でも、迷惑にならないかな」
『大丈夫。茜が安心して眠れることのほうが大事ですよ』
「そっか……ありがとう、ございます。あっ」
ふと、大事なことを伝えていないことに気付いた。もう少しで通話が切れる合図のブザー音が聞こえてきたので、慌てて百円玉を追加する。
『茜?』
「あ、あの、受賞おめでとうございます!」
『ああ、ありがとうございます。もしかして、テレビ見ました?』
「うん。夏癸さん映ってて、びっくりしちゃった」
『ちょっと恥ずかしいですね。変なこと言っていませんでしたか』
「全然、そんなこと……かっこよかったですっ」
そう口にした途端、ふぁ、と小さなあくびが漏れた。
受話器越しに夏癸にも聞こえたのか、ほんの少し笑みを含んだ声が返ってくる。
『眠れそうですか?』
「うん、たぶん……。夏癸さんの声聞いたら、安心しました」
『それならよかったです。じゃあ、おやすみなさい』
「うん、おやすみなさい」
電話を切って、そっと受話器を置く。
ほんの少しの時間だったけれど、夏癸と話せて胸の奥が温かくなった。
今夜はもう大丈夫だと、そう思える。
忘れないようにきちんと財布を持って踵を返すと、ふいにエレベーターの扉が開いた。びくっと肩が竦む。中から出てきたのは、学年主任で生徒指導担当の
ジャージ姿の彼と、ばっちり目が合ってしまった。
「こら、何組の生徒だ? こんな時間になにをしているんだ?」
「は、はい。二組の椎名です。ごめんなさい、眠れなくて、おうちの人に電話していました」
生徒たちから不評の強面に問いかけられて、つい身体が強張る。
彼のことが嫌いなわけではないのだが、時々発する大きな怒鳴り声が怖いのでどうしても苦手意識を持ってしまっている。夜中に部屋を抜け出しているのを見つかったからには、叱責は免れないだろう。
「スマホじゃなくて公衆電話でか?」
「はい」
「そうか。……用が済んだなら、早く部屋に戻りなさい」
厳しいお説教を覚悟したけれど、あっさり解放されて思わず拍子抜けする。
「はい。失礼します」
小さく頭を下げてエレベーターに乗り込む。扉が閉まった途端、安心して身体から力が抜けた。
(びっくりしたぁ……)
まさか楠田先生に見つかるなんて。
驚いたけれど、大したことがなくてよかった。最小限の注意だけで済まされたのは何故なのか、理由はわからないけれど。
静かに部屋に戻り、念のためにともう一度トイレを済ませてから、入り口近くの一番端に敷いてある布団にそっと潜り込んだ。途端に、隣の布団で目を閉じていたなずなが、ふいに顔を寄せてきた。囁き声で口を開く。
「茜ちゃん、どこか行ってたの?」
「うん。ちょっと夏癸さんに電話しに」
「眠るの心配?」
「ちょっと……でも大丈夫だと思う」
囁き声で返して、茜は表情を緩ませた。
「そっか。なにかあったら遠慮しないで起こしてね」
「うん。ありがとう、なずなちゃん」
おやすみ、と言って目を閉じる。ほどなくして、静かに寝息を立て始める二人だった。
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