第15話 在りし日の風景

「なつきおにいちゃん、えほんよんで!」


 土曜日の昼下がり、昼食を終えたばかりの茜がお気に入りの絵本を抱えてくる。

 椎名家の昼食に誘われていた夏癸は二つ返事で引き受けた。

 膝の上に乗ってきた茜の髪を優しく撫でる。毛先に緩い癖のある髪を、耳の上で二つに結んでいるのが可愛らしい。


 茜に絵が見えやすいように本を広げ、ゆっくりとお話を読み上げる。女の子が大切な宝物を探しに行く話だ。

 初めて絵本を読むのをせがまれたときはたどたどしく読み上げることしかできなかったが、何度か読み聞かせを経験したいまでは、茜と一緒に物語の世界に浸るように文章をなぞることができる。


「わたしのたからものって、なんだろう。からっぽのてをみつめて、おんなのこはくびをかしげました」


 柔らかな絵柄で描かれた可愛らしい女の子の台詞を、男子高校生の低い声が読んでいるというアンバランスさに少しだけ可笑しくなるが、小さな背中のぬくもりを感じながら絵本を読むこの時間はたまらなく愛おしく感じる。

 茜の表情を窺うと、食い入るようにページを見つめていた。夏癸がこの絵本を読んであげたことは何回かあるのだが、そのたびに茜は夢中になって聞き入っている。


 ゆっくりとページをめくる。女の子は街を歩きながら色んな人や動物、物に「あなたのたからものはなあに?」と聞いて回る。

 そのたびに女の子は、「すてき!」と笑顔になったり、「それがたからものなの?」と不思議そうな顔をしたりする。

 優しい物語を声に出して読みながら、夏癸はふと室内の様子をひそかに見渡した。1LDKのアパートはそこかしこに生活感が溢れていて、彼が生まれ育った無駄に広い家とは違う、温かな家庭の空気が漂っている。


 茜の父親である隆文はキッチンで洗い物をしていて、母親の葵は寝室を兼ねた隣の和室で洗濯物を畳んでいる。家族でもなんでもない夏癸がこの空間にいるのは異質ではないのかと思ってしまいそうになるが、穏やかな空気は彼の存在を違和感なく受け入れてくれる。この心地良い存在に出逢って、どれほど救われたことだろうか。


「おんなのこは、いしにつまずいてころんでしまいました。ずきずきとひざがいたくなって、あかいちがにじんでいます。おんなのこは、わんわんとなきだしてしまいました」


 物語は終わりに近付いている。ページをめくろうとすると、ふと、茜の肩が小さく震えていることに気付いた。両手でぎゅっと膝を抱き締めている。寒いのだろうかと思い訊ねようとすると、突然、下半身に生温かい感触を覚えた。

 思わず視線を下に落とす。デニムの生地にじわじわと液体が滲んでいた。液体は、茜の小さなお尻の下からゆっくりと広がっていく。


 思考が一瞬停止した。

 ぴちゃぴちゃと、床を叩く小さな水音が妙に耳についた。隆文も葵も、茜のおもらしにはまだ気が付いていないみたいだ。夏癸は無表情の下で非常に混乱していた。

 ええと、これは。どうしたらいいんだろうか。

 熱の広がりが止まる。温かいと思った液体はすぐに冷たくなり、肌に張り付いて不快感を与えてくる。茜をちらりと見ると、居心地が悪そうにもじもじと身体を揺すっていた。その目に涙が溜まっていることに気付いて、思わず口を開く。


「……葵さん。茜ちゃんが漏らしました」

「え? あっ、やだ、うそっ!」


 こちらに目を向けた葵は、目を丸くして慌てたように立ち上がった。畳み終わった洗濯物の中からタオルを一枚掴み、駆け寄ってくる。葵に抱き上げられた途端、茜は堰を切ったように泣き出した。顔が林檎のように真っ赤になっている。


「もう~、おしっこ行きたくなったらすぐに教えてって、いつも言ってるでしょ~?」


 茜の濡れた太腿を拭いながら、たしなめるように葵は言った。けれど怒っている様子ではなく、泣きじゃくる茜の背中をぽんぽんと優しく叩いて慰めている。


「ん、大丈夫大丈夫、シャワーしてすっきりしようね」


 茜を浴室に連れていこうとした葵だが、夏癸のジーンズがかなりの被害を受けていることに気付いて、さあっと血の気の引いたような顔をした。


「やだっ、夏癸くんも汚れちゃった!? どうしよ、お風呂、先に」

「俺はあとで大丈夫ですよ。先に茜ちゃん連れていってあげてください」

「えっ、でも夏癸くんのジーパンってすっごいブランドものとかじゃない!? 早く洗わないとっ」

「そんなに高いものじゃありませんよ。全然大丈夫ですから」

「ごめんねっ、すぐ着替えさせてくるから!」


 葵はばたばたと浴室に駆けていく。そんな様子を横目で見ていた隆文が、ひょいっとフェイスタオルを投げてきた。優しげな風貌に苦笑を浮かべている。


「ごめんな、うちの娘が粗相して。とりあえずそれ使って」

「すみません。ありがとうございます」


 手に持ったままだった絵本をテーブルに置き立ち上がると、ぽたりと雫が落ちた。厚手のデニム地がぐっしょりと濡れてしまっている。

 フローリングの床には小さな水溜まりが広がっていて、隆文は持ってきた雑巾で濡れた床を拭こうとしゃがみかけたが、夏癸の姿を見ると思わずといった様子で噴き出した。慌てて口を覆ったが。


「……どうしたんですか」


 無意識に冷ややかな声が出た。


「いや、ごめん、悪気はないんだけど! なんか、夏癸が漏らしたように見えちゃって」

「やめてくださいよ。……自分でもそう思っていますけど」

「ごめん、ほんとごめん!」


 茜の座っていた位置的に、見事にジーンズの股座の辺りが濡れていた。下着にも湿り気は伝わっていて、自分が粗相をしたのではないかと夏癸自身も錯覚してしまいそうになる。

 タオルで拭いてみても軽く水気が取れただけで見た目にはあまり変化がない。夏癸は諦めて小さくため息をついた。嫌悪感はあまりない。保育園児におもらしされたくらいで怒るほど器量が小さくはないつもりだ。


「……もしかして、もううちに来るの嫌になった?」

「そんなことないですよ。ご迷惑でなければまた呼んでください」

「そっか、よかった」


 不安そうな顔をしていた隆文はほっと胸を撫で下ろした。


「茜、人見知りするのにお前にはすぐ懐いたよな。さっきの絵本お気に入りなんだけどさ、ママが読むのはいいのに俺が読もうとすると拗ねるんだよ、『なつきおにいちゃんのがいい!』って。だからまた頼まれたら読んでやって」


 もちろん、と頷いてテーブルの上に目を遣る。満面の笑顔を浮かべた女の子が描かれた表紙に茜が重なる。絵本の物語は「女の子の宝物は大切な家族だった」という結末で終わる。

 自分の存在を受け入れてくれたこの家族も、まるで宝物のように尊い。夏癸が彼らと本当の家族になることはできないけれど、この宝物のような家族を守れる存在になりたいと、胸の内でひそかに思う。


「お待たせ! 夏癸くん、お風呂使って!」


 茜の手を引いて、葵がぱたぱたと廊下を歩いてきた。着替えてきた茜はもじもじと恥ずかしそうに母親の後ろに隠れている。夏癸が顔を向けるとふいっと目を逸らされてしまった。


「こーら、茜! 夏癸お兄ちゃんにごめんなさいは?」

「ご、ごめんなさい……おこってる?」


 葵に促され、茜はおずおずと潤んだ瞳で夏癸を見上げてきた。夏癸はふっと口元を和らげる。


「怒っていませんよ。でも、トイレに行きたくなったら我慢しないですぐ行きましょうね?」

「はぁい……」


 恥ずかしそうに首を竦める茜の頭をそっと撫でる。


「夏癸、着替え俺の服でいいか? 洗濯もしちゃうから」

「あ、はい。ありがとうございます」


 夏癸とほとんどサイズの変わらない隆文から着替えを受け取り、シャワーを借りるため浴室へ足を向けた。


***


 目を覚ますと、見慣れた天井がぼんやりとした視界に映った。

 のろのろと身体を起こして首を巡らす。すぐ隣の布団で、身体を横向きにして目を閉じている茜が静かな寝息を立てていた。

 眼鏡をかけて、茜の額にそっと手を載せる。熱はだいぶ下がったようだ。

 穏やかな寝顔に安堵する。茜の無防備な表情を眺めていると、唐突に夢の内容を思い出した。


 まだ幼い茜と、彼女の両親とともに過ごすことができた短かった温かな時間。

 あの頃の小さな茜と比べると随分と成長したが、まだまだ子どもであることに変わりない。許されるならば彼女が大人になるまで傍で守ってあげたい。

 ――いつか、彼女が自分の傍を離れたくなるそのときが来るまでは、どうか一番近くで見守らせてほしい。

 胸の奥底でひっそりと決意しながら、夏癸は静かに立ち上がった。

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