第14話 風邪の日
ピピ、と小さな電子音が鳴り、腋の下に挟んでいた体温計をもぞもぞと取り出す。三十七度八分と表示された数字を見て、茜は顔をしかめた。数字だけ見ると大した熱ではないような気もするが、平熱が低めなので結構しんどい。
ごろんと寝返りを打つと、乾いた咳が出た。喉が痛い。頭もズキズキする。昨夜からなんとなくだるさを感じてはいたが、完全に風邪をひいてしまったようだ。昨日、雨に打たれてしまったことも原因のひとつだろう。
「茜、開けていいですか?」
「はぁい……」
廊下から聞こえてきた声に力のない返事を返す。声が掠れて上手く出ない。襖を開けた夏癸は心配そうな顔で布団の傍らに膝をついた。
「熱、どうでした?」
あまり声を出したくないので無言で体温計を差し出す。渡された体温計を見た夏癸はほんの僅か眉間に皺を寄せた。
「少し高いですね。学校には電話しておきますから、今日は休みましょうね」
小さく頷いて、茜はそっと布団を捲った。重たい身体をなんとか動かして、ゆっくり起き上がる。
「茜?」
「ん、ちょっと……」
ふらふらと布団から立ち上がる。トイレに行きたい。昨晩から溜まった水分が存在を主張していて、お腹が少し苦しい。口を開いたら掠れた咳が出て、下腹部に響いた。
ちょっと危なかった、と内心で冷や汗をかく。
「大丈夫ですか。ついていきましょうか」
「平気、です」
心配そうに聞いてくる夏癸に気丈に応えてみたものの、熱があるせいか廊下に足を踏み出そうとしたらふらついてしまった。
とっさに広い胸に受け止められて、後ろから肩を支えられる。転ぶことは免れたものの、ぞくぞくと背筋が震えた。
「……っ」
ぎゅっと太腿を寄せ、パジャマの裾を握って衝動に耐える。幸い下着に濡れた感触はなかったが、こんな足取りでは一階にあるトイレまで無事にたどり着ける気がしない。
「大丈夫ですか……?」
「だい、じょうぶ」
「転んだりしたら危ないですから、連れていってあげますよ」
えっ、と思った次の瞬間には、茜はひょいと横抱きにされていた。突然のことに頭がついていかないものの、熱のせいだけではなく頬が熱くなる。
「な、夏癸さん、自分で、行けます……!」
「そうは見えませんよ。すぐに着きますから、あと少し我慢してくださいね」
茜を抱えたまま、夏癸は軽い足取りで階段を下っていく。廊下の端にあるトイレまでたどり着くのに、彼の足ではすぐだった。ドアの前でそっと下ろされる。
ここまで来ればもう大丈夫だ。焦らず、けれど油断してお腹から力を抜いてしまわないように気を付けてトイレに入る。下着を下ろして腰かけるのと、我慢していたものが迸るのはほぼ同時だった。
(危なかったぁ……)
ほう、と安堵の息を吐き出す。夏癸に連れてきてもらわなければ、階段の途中で限界を迎えていたかもしれない。
たくさん我慢していたから、普段よりも少し時間がかかる。しゃああ……と、狭い個室の中で水音がやけに響く。外で待っているであろう夏癸の耳にもこの音が聞こえているのだろうかと考えると少し恥ずかしかった。
夏癸にトイレに付き添われたのはこれが初めてではないのだけれど。それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。
ぴちゃん、と最後の一滴まで出し切って茜はもう一度大きく息を吐き出した。お腹が楽になってすっきりした。
後始末をし、よろよろと立ち上がって水を流す。少し躊躇ってからドアを開けると予想に反して廊下に夏癸の姿はなかった。ほっとするとともに少しだけ不安に駆られる。どこに行ったのだろうか。重い足取りで洗面所に向かい手を洗っていると、階段を下りてくる足音が聞こえてきた。
「……?」
蛇口を閉めて、廊下にそっと顔を出す。見ると、夏癸が両手に布団を抱えて歩いていた。茜の布団だ。茜はぼんやりとした目を彼に向けた。
「夏癸さん……?」
「ああ、布団、客間に敷こうかと思いまして。そのほうがいいでしょう?」
「うん……」
そういえば、熱を出したり具合が悪かったりするときはいつも一階の客間で寝ている。二階の自室にいるよりもトイレに行きやすいし看病するのにも何かと都合がいいのだろう。
布団を運ぶ夏癸のあとをゆっくりと歩いてついていき、客間に敷いてもらった布団に潜りこむ。頭が重い。鈍い痛みから逃れるように、はあと息を吐くと寝癖のついたままの髪を優しく撫でられた。
「学校に連絡したら、病院に行きましょうか。ご飯はなにか食べれそうですか?」
「ちょっとなら……」
「わかりました。用意してきますから、少し待っててくださいね」
安心させるように夏癸はもう一度頭を撫でてくれて、茜はこくんと小さく頷いた。
***
いつの間にか深く眠っていた茜は、ふっと目を覚ました。ぼんやりと室内を見渡す。
たびたび様子を見に来てくれた夏癸の姿がいまはなかった。ほかの部屋で仕事をしているのか、何か用があって外しているのかもしれない。
「ん……」
喉の渇きを覚えて、枕元のペットボトルに手を伸ばす。飲み口にストローを挿してあるので横になったままでも飲むことができる。水分を摂って、はあと息を吐いた。
熱い。頭が重い。もしかしたら熱が上がってきているのかもしれない。
かかりつけ医に診てもらい薬もちゃんと飲んだが、二、三日は安静にしているようにと言われた。そんなにすぐに良くなるわけではないのはわかっているけれど。
軽く寝返りを打つ。ずっと横になっているのは寂しいしつまらないが、他に何ができるわけでもないので寝ているしかない。
もうひと眠りしてしまおう、と目を瞑ってみたが、ふいにぞくぞくと全身に震えが走って、ぱちりと目を開けた。
(おしっこ……)
急激に込み上げてきた尿意に戸惑う。いままで摂っていた水分が寝ている間に膀胱に溜まったのだろうか。トイレに行かなきゃ、と起き上がろうとするが、くらりと視界が揺れてそのまま布団に顔を伏せてしまった
「うぅ……っ」
気持ち悪い。起き上がれない。けれど張り詰めた下腹部は容赦なく彼女を内側から苦しめてくる。
ぎゅうっと太腿をきつく寄せて両手でその間を押さえるが、ほんの少し楽になっただけで尿意が差し迫っていることに変わりはなかった。
「夏癸さん……っ」
どうしてこんなときに夏癸が傍にいてくれないのだろうと、自分勝手なことを思ってしまう。彼がいてくれたらきっとすぐにトイレまで連れていってくれるのに。
じんじんと膀胱が疼くような感覚を覚えて、背中を丸めて出口を押さえる手に力を込める。手のひらにしっとりと汗が滲んだ。これは本当に汗なのだろうか。
(おしっこしたい、もれちゃう……!)
布団の中でじっと耐えていても尿意は増すばかりで、このままではシーツを汚してしまう。それだけは嫌だ。
茜は慎重に右手は離すと、畳に片手をついて布団から這い出た。立ち上がることはできそうにないが、なんとか膝立ちになり膝を擦り合わせながらそろそろと畳の上を進んでいく。くらくらと眩暈に襲われて気持ち悪くなるが止まるわけにはいかなかった。
「でちゃう……おしっこ……おしっこぉ……っ」
荒い息と泣きそうな声が唇から零れる。下腹部が苦しい。早く出したい。楽になりたい。でも畳を汚したくない。
やっとの思いで襖までたどり着き手をかけようとすると、喉の奥がひゅっとなり、けほけほと短く咳き込んでしまった。
じゅっと、濡れた感触が下着に広がった。
「……!!」
それ以上の決壊を押し止めようと、股間を握り締めるようにぎゅっと力を込めるが、抵抗も虚しくじわじわと手のひらに熱が伝わっていく。
茜は力の入らない手でなんとか襖を開き、膝立ちのまま廊下に出た。ひんやりとした廊下の空気にぶるりと肩が震える。二、三歩だけなんとか移動して、そこが限界だった。
しゃああ、と鋭い音とともに温かい水が手のひらを突き抜けて床に落ちた。内股を濡らして次から次へと奔流が溢れてくる。茜はもう動くことができず、ぺたんとその場にお尻をついてしまった。
「ぅ~~~~~~っっ」
じわっと視界がぼやけた。
出ちゃった。我慢できなかった。諦めにも似た感情が胸の内に広がる。けれど限界を迎えてしまっても、茜はパジャマの前を押さえる左手を離すことができなかった。なんとか水流を押し止めようと、無意識のうちに必死に力を込めてしまう。
「茜!?」
廊下の真ん中で俯いて震えていると、慌てたような夏癸の声が聞こえた。次いで聞こえてくるのは駆け寄ってくる足音。
「やっ……、夏癸さ、来ないで……っ」
俯いたまま呟いた声は彼には届かなかった。
汚れるのも構わずに夏癸が膝をつく。伸びてきた手は茜の背を優しく撫でた。
「大丈夫、もう我慢しなくていいですよ」
柔らかな声とともに、ズボンを押さえつけていた茜の左手に夏癸の手が重なり、そっと指を剥がされる。途端にお尻の下に広がる熱が勢いを増した。しゅうう、と微かな水音が聞こえてくる。
夏癸の視線を感じるのがたまらなく恥ずかしくて、茜はぎゅっと目を瞑った。たくさん我慢したおしっこはいつまでも出続けるのではないかと錯覚してしまう。
早く止まって、と強く祈るように思うと、小さな水音はようやく終息した。くったりと身体から力が抜ける。くずおれてしまいそうな身体を夏癸は抱き寄せるように支えてくれた。
お腹は軽くなったがなんだか気持ちが落ち着かない。はあはあと荒い息を吐く。
「まだ出そうですか?」
問われて、とっさに首を横に振る。けれどまだ下肢がむずむずするような気がして顔を曇らせると、夏癸はそっと身体を抱き上げてくれた。
「一応、トイレに行きましょうか」
柔らかな声で彼は言い、抱き上げられたままトイレへ連れて行かれる。廊下の距離は短くて、この程度の距離を我慢できなかったのだと思うと、ぼろぼろと涙が溢れた。夏癸を困らせてしまうとわかっていながらもぐすぐすと泣きじゃくってしまう。
夏癸は茜を抱き上げたまま、器用にパジャマと下着を膝まで引き下ろし便座に座らせた。
そのままトイレから出て行こうとする彼の袖を思わず掴んでしまう。困惑している夏癸の気配を感じたけれど、いまはなぜか一人にしてほしくなかった。
微かな尿意を感じてもじもじと脚を揺する。やっぱり全部出し切れてなかったみたいだ。
出してしまいたい、と思うが、トイレの中で夏癸が傍にいるという稀有な状況に身体が緊張しているのか、力を抜くことができない。
夏癸に出ていってもらったほうがいいのかと思ったが、彼の袖を掴む指にはむしろぎゅっと力が入ってしまう。どうしよう、どうしたらいいんだろう。
茜自身も戸惑ってしまい、顔を俯けてしまう。泣きながら小さく震えていると、夏癸の手が伸びてきて背中をぽんぽんと軽く叩かれた。
茜を落ち着かせるように、低く優しい声が耳元で囁く。
「大丈夫、大丈夫。すっきりしましょうね」
抱き締められるように背中をさすられ、緊張していた身体から力が抜けていく。
夏癸の視線は下肢から外れていて、一番恥ずかしいところを見られることはない。そう気付いた途端、しょろっと雫が零れ落ちた。
ちょろちょろと水面を叩く水音は十数秒ほど続いて止まった。さっきあんなに出してしまったのにまだこんなに出るなんて思わなかった。ようやく膀胱の中身が空っぽになって、茜は胸を撫で下ろした。耳までが真っ赤に染まっている。
「……夏癸さん、あの、外に出ててもらっていいですか……?」
袖を掴んでいた手を離して、おずおずと頼む。今更恥ずかしいも何もないだろうとは思うのだが、さすがに後始末をするところまで見られていたくはないというのが複雑な乙女心だ。
夏癸は何も言わず、すぐに身体を離してトイレから出ていってくれた。
からからとトイレットペーパーを巻き取っておしっこを拭き取り、濡れたままの下着とパジャマを履き直す。濡れた布が肌に張り付いて気持ち悪い。
なんとなく下を向くと、裾から滴り落ちた水滴がトイレの床も汚していた。恥ずかしさと情けなさに胸が締め付けられそうになる。
ざあと水を流してドアを開けると、足がふらついた。すぐ外で待っていた夏癸に抱き留められる。
「大丈夫ですか? 少しは落ち着きました?」
「うん……ごめんなさい……」
ぐすっと洟をすすって謝ると、夏癸は優しく苦笑しながら頭を撫でてくれた。
「具合が悪いんですから、仕方ありませんよ。早く着替えましょうか」
夏癸は再び茜を抱き上げて、洗面所へと向かった。温かいタオルで身体を拭いて着替えさせられる。重い身体には力が入らないので、茜はされるがままになるしかなかった。恥ずかしいところを見られているのに、不思議と嫌な気持ちにはならない。
汚れ物を簡単に片付けて手を洗ってきた夏癸は、茜の正面にしゃがむとそっと額に手を当てた。冷たい手がひんやりとして気持ちいい。
「熱、上がってきてしまいましたね。すみません、ちゃんと傍にいてあげればよかったですね」
茜はふるふると首を振った。
「わたしの、せいだから。ごめ、」
「茜は悪くないですよ。……部屋に戻りましょうか」
彼女の言葉を遮り、夏癸は穏やかに微笑んだ。
そっとお姫様抱っこで抱き上げられる。彼にくたりと体重を預けて、客間へと戻る。その途中、部屋のすぐ目の前の廊下に広がった水溜まりが目に入り、茜は再び涙を滲ませてしまった。
「……っ」
「こらこら、そんなに泣かない」
泣き出しそうになる茜を夏癸は優しい声でたしなめた。
客間に入り、敷きっぱなしの布団に茜を寝かせる。掛け布団をしっかりと肩まで上げた夏癸は、茜の眦に浮かぶ涙をそっと指で拭ってくれた。
「今日の茜はいつもより泣き虫さんですね」
夏癸は目を細めて、よしよしと頭を撫でてくれる。その手の優しさに再び涙腺が緩みそうになったが、ぐっと堪えた。
(また、迷惑かけちゃった……)
泣くのは耐えたけれど、夏癸の手を煩わせてしまう申し訳なさにしゅんと眉を下げてしまう。
「ごめんなさい……廊下とか、汚しちゃって……」
「気にしなくていいんですよ。それより、疲れてしまったでしょう?」
ゆっくり休みなさい、と優しい声に言い聞かせられ、とろんと瞼が落ちてくる。しばらくしてから、茜の意識は再び眠りへ誘われた。
***
床に広がった大きな水溜まりを乾いた雑巾で拭き取る。水拭きもして、除菌スプレーを吹きかけて、ものの数分で茜の粗相の跡は片付いた。
――すっかり手慣れてしまった。そんなことを口にしたら、あの恥ずかしがり屋の少女は顔を真っ赤にして落ち込んでしまうだろうから、心の中で思うだけに留めておく。
手がかかる子だとは思うけれど、そんなところが愛おしくて仕方ない。
雑巾を片付けて手を洗っていると、ふいに玄関のインターホンが鳴るのが聞こえた。ほんの少し足早に直接玄関に向かうと、擦りガラスの向こうに人影がふたつ見えた。
「どちら様……ああ、柚香ちゃん、と」
引き戸を開けると、立っていたのは茜の友人である柚香と、あまり見覚えのない男子生徒だった。学校で見かけたことはある気がするがすぐに名前が出てこない。
「ええと……」
「麻倉椋といいます。椎名さんと同じクラスです。プリントを持ってきました!」
「茜、大丈夫ですか?」
緊張したような面持ちの椋と、心配そうな柚香が口々に言う。プリントを受け取った夏癸は、にこやかな笑みを二人に向けた。
「わざわざありがとうございます。せっかく来てくれたのにすみません。茜、いまは寝ているので。二人が来たこと、あとで伝えておきますね」
それだけ口にして、あっさりと追い返してしまう。
――我ながら大人げないとは思ったが、男子生徒が家を訪れたという事実を穏やかな気持ちで受け止めることはできなかった。
***
夜半過ぎ、呻き声のような小さな音を耳に捉え、夏癸は飛び起きた。
眼鏡をかけて部屋の電気を点ける。はっきりとした視界で隣の布団で眠る茜の様子を窺うと、彼女は赤い顔をして苦しそうに眉を寄せていた。そっと額に触れてみると、夕方に熱を測ったときよりも少し熱い気がする。
「茜、茜。大丈夫ですか?」
そっと声をかけてみるが、目を覚ます気配はない。うなされているのだろうか、茜は苦しそうに小さく身じろいだ。何かを言いたそうに、もごもごと唇を動かす。
「んんっ……なつきさん、おしっこ……」
聞こえてきた小さな寝言に、夏癸の動きが一瞬止まる。思わず布団を捲ってみると、茜のパジャマのズボン、その中心が僅かに湿っているのが目に入る。
慌てて起こそうとして、思い留まった。
このまま起こしたところで、トイレに連れて行くまで我慢できないのは明らかだろう。もしかしたら漏らしている最中に目を覚ましてしまうかもしれない。そうなったら可哀想だ。
夏癸は、苦しそうに眉を寄せている茜の腹部をそっと撫でた。
「我慢しないで、おしっこしましょうね」
耳元で囁くと、茜は小さく身震いして身体から力を抜いた。くぐもった水音が微かに耳に入ってくる。
「そう、いい子ですね」
下腹部から手を離して、髪の毛をそっと撫でる。
しばらくすると水音は止み、苦しそうだった茜の表情は安堵に変わっていた。
無防備な表情が可愛らしいと、つい考えてしまう。ちらりと布団に視線を遣ると、大きな染みが広がっていた。
水分を摂らせすぎてしまっただろうかと思い返しつつ、さてこれからどうしたものかと思考を巡らす。着替えさせてシーツを替えてしまえば茜は気付かないかもしれないが、寝ている少女を勝手に脱がせるのはさすがに良心が咎める。
悩んでいると、茜は寒そうに身体を震わせた。これ以上体調を悪化させてはいけないと、起こすことに決める。
「茜、茜。起きられますか?」
優しく肩を揺する。何度か呼びかけると、茜はふるりと瞼を震わせた。ゆっくりと向けられた眠たそうな眼差しが、彼の姿を捉える。
「……な、つきさん……?」
「ええ。身体が辛いでしょうが、着替えましょう。そのままでは冷えてしまいますから」
「きがえ……? ……え、ぁ、うそ……」
とろん、としていた目が、自分の状況に気付きみるみる潤んでいく。
こわごわといった様子で身体を起こした茜は、ぐっしょりと濡れたシーツを確認するとついに泣き出してしまった。
「大丈夫、大丈夫。泣かなくていいんですよ」
ひっくひっくと泣きじゃくる茜を抱き寄せて、背中をさする。いつもと同じように防水シーツを敷いているので、新しいシーツに交換さえしてしまえばなんの問題もない。
「ご、ごめんなさい、わたし、変な、夢、見ちゃって」
腕の中で嗚咽していた茜は、震える声でぽつりと呟いた。
「夢?」
「……トイレ行きたくて、でも全然見つからなくって、そしたら、夏癸さんに、お、おしっこしましょうね、って抱っこされて……っ」
そこで恥ずかしそうに言葉を詰まらせたが、夢の中の茜が自分に何をされたのかは想像に難くない。耳まで真っ赤になっている茜を見て、夏癸は若干ばつの悪い思いをした。彼女がこんなに恥ずかしがる夢を見てしまったのは、間違いなく現実の夏癸の言葉の影響であろう。
「すみません、嫌な思いをさせちゃいましたね」
「夏癸さんのせいじゃないです……!」
慌てたように茜は顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃになった顔で言われたものの、彼女をこんなに泣かせてしまったのはやはり自分のせいだと申し訳なく思う。
「……着替えましょうか。タオル持ってきますから、少しだけ待っていてくださいね?」
頷く茜を見て、夏癸は静かにその場を立ち去った。
タオルとお湯を準備して客間へ戻る。身体を拭いて着替えさせ、防水シーツもその上に敷く普通のシーツも新しいものに交換し、念のためにともう一度茜をトイレに連れて行ってから布団に戻ったが、茜は眠るのを嫌がった。
「だ、だって、昼間おもらししちゃって、さっきもおねしょしちゃって、また、もらしちゃうかも……っ」
着替える際に顔も拭いてあげたのだが、茜は再びぐすぐすと泣き出してしまった。
熱のせいで精神的に不安定になっているのだろう。そんな彼女を落ち着かせようと、夏癸はなんとか言葉を尽くす。
「大丈夫ですよ。ちゃんとトイレにも行ったし、きっともうしませんよ。しっかり眠ってゆっくり休みましょうね」
けれど茜はいやいやと首を振った。その途端に、けほけほと軽く咳き込む。
早く横になって休ませてあげたいと思いながら、夏癸は彼女の髪を優しく撫でた。
「もしまたしちゃっても、着替えて、片付ければいいだけですから大丈夫ですよ」
「……怒らない?」
不安そうに見上げてくる潤んだ瞳に、ほんの少しだけ苦笑する。
「私が今日一度でも怒りましたか? 心配しなくても、茜のことを嫌いになったりしませんから。ね、だから安心しておやすみなさい」
努めて優しい声になるように意識して言うと、茜はようやく安心したようだった。ほっと表情が緩むと同時に、重たそうな瞼が落ちてくる。泣き疲れたのもあるのだろう。
布団に横たえてやり、部屋の電気を消す。茜が怖がらないように、小さな明かりをひとつだけ点けておいて。薄い暗がりの中で布団をしっかりとかけ直してやると、伸びてきた指が手探りで夏癸の手を掴んだ。
「手、握ってて……眠るまででいいから……」
うとうとしながら微かな声に頼まれる。ええ、と頷いて、力を込めすぎないように自分のものより小さな手をぎゅっと握った。
「おやすみなさい」
空気に溶け込むような声でそうっと囁く。微かな寝息が聞こえてくるまで、夏癸はずっと茜の手を握っていた。
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