第3話 彼女の日常②
耳元でアラーム音が鳴り響いている。
「ぅぅ……」
不快な電子音に眉を寄せながら、茜は布団の中からもぞもぞと手を伸ばした。
枕元のスマートフォンを手探りで操作してアラームを止める。そのまま再び微睡みの中に落ちそうになった意識をなんとか繋ぎ止め、のそのそと身体を起こした。
閉じたままだった瞼をぼんやりと開く。カーテンの隙間から朝日が差し込み、室内を明るく照らしている。眩しさに目を細めながら、シーツの上に指を滑らせた。今日は濡れていない。
(よかった……)
ほっと胸を撫で下ろす。昨日は久々にシーツを濡らしてしまったから眠るのが少し不安だったが、さすがに二日連続で失敗することにはならなかったようだ。
茜は布団を出ると、パジャマのままそっと廊下へ出た。おねしょは避けられたものの寝起きの身体は強い尿意を訴えている。トイレを済ませて、顔を洗ってから再び二階の自室へ戻った。
布団を畳んで制服に着替える。髪を梳かしていつもの三つ編みに。身支度を整えた茜は、机の上に視線を向けた。
「いってきます」
写真の中の両親に微笑みかけてから部屋を出ようとした茜は、襖を開ける直前に慌てて踵を返した。学習机に立てかけていた通学鞄を掴む。危うく忘れるところだった。朝には少し弱いので、顔を洗っても寝起きの頭はまだどこかぼんやりしている。
鞄をしっかりと持って、階段を下りていく。居間の襖を開けると、座卓の上にはすでに朝食の用意が整っていた。テレビには今日の天気予報が映っている。天気は晴れ時々曇り。降水確率は十パーセント。
「夏癸さん、おはようございます」
「おはようございます。よく眠れました?」
「うん」
台所から入ってきた夏癸に挨拶をして、座卓の前に腰を下ろす。今朝は何事もなく起きられたので、自然と表情が柔らかくなった。
「いただきます」
二人で手を合わせて、箸を持った。今朝はご飯と味噌汁に卵焼き、そして昨夜の残りの肉じゃがだ。夏癸は和食が好きなので、朝食はパンよりもご飯の日が多い。朝はあまり食欲がないが、夏癸の作る食事は美味しいし茜が無理なく食べられる量を用意してくれるので、残さずに食べ切れる。
今日は時間に余裕があるので、しっかり噛んでゆっくりと食べた。食器を片付けて歯磨きを済ませる。出かける前にもう一度トイレに行ってから、後片付けをしている夏癸に声をかけた。
「夏癸さん、いってきます」
「忘れ物はありませんか? 体操着持ちました?」
「あっ……」
今日は身体測定があるので体操着が必要だ。昨晩のうちにきちんと用意はしたのだが、うっかり部屋に置いてきてしまった。
「忘れてた……っ」
ぱたぱたと階段を駆け上がって、体操着を入れたトートバッグを持ってくる。鞄と一緒に肩にかけて、茜は再び居間に顔を出して「いってきます」と言い直した。
「いってらっしゃい。気を付けて」
「はぁい」
優しい笑みを向けてくれる夏癸に頷いて、茜は軽い足取りで家を出た。
***
(あんまり伸びてなかった……)
体操着姿の茜は、顔を曇らせて学校の廊下を歩いていた。
新年度恒例の身体測定。クラス毎の順番通りに視力検査を行い、身長と体重を測り終えたので残るは聴力検査のみだ。測定するときは半袖Tシャツとハーフパンツになる決まりだが、移動中や他の検査のときはジャージを着ていてもいいことになっているので、茜はTシャツの上に学年色である紺色のジャージを着ていた。半袖で平気そうに歩いている子も多いが、四月の初めなので茜にとっては少し肌寒い。
(うぅ……せめて、あと二センチ……!)
茜は少しばかりの悔しさを抱えながら健康診断票に書かれた数値を見つめた。今年こそ百五十センチメートルに届きたいと思っていたが、残念なことに去年と比べて一センチと少ししか身長が伸びていなかった。なんとかあと二センチは伸びてほしいところだが、果たして高校生になっても身長は伸びるのだろうか、ひそかに悩んでいる茜だ。
視聴覚室で聴力検査を終えて、着替えるために更衣室に移動する。身長はあまり伸びていなかったが、視力と聴力は問題なかった。人と比べたことはほとんどないが、体重は同級生の中でも軽い方かもしれない。
「あ、茜。終わった?」
女子更衣室に入ると、先に測定を終えていた柚香が着替えている途中だった。前開きのセーラー服を着ている途中の胸元が目に入り、一瞬たじろいでしまった。……大きい。
「あたし去年よりめっちゃ体重増えちゃったよー運動してるのになー。茜はどうだった?」
「えっと、あんまり変わってなかったかな……」
「えー! いいなぁ」
体操着を脱いで制服に着替えながら、茜はちら、と視線を落とした。下着の上に重ねて着ているキャミソールの胸元には微かな膨らみしかない。背が低いことも気になっているが、どうかこちらも成長してほしい。
「どうすれば痩せるかなー」
「柚香ちゃん、べつに太ってないと思うよ……?」
「そうかなぁ?」
「そうだよっ。ちゃんと成長してるだけだと思うよ」
小学生の頃から柚香は発育がよかったが、中学生になってからはどんどん差がついている気がする。身長だって柚香のほうが十センチ近く高いのではないだろうか。茜はというと、私服でいると時々小学生に間違われてしまうこともあるくらいだ。
早く大人っぽくなりたいなぁと心の内で考えながら、茜は胸元のスカーフをそっと結んだ。
***
時間割通りに授業が始まるのは明日からなので、今日も学校は午前中で終わりだ。
帰りのホームルームを終え、生徒たちはおしゃべりをしながら次々に席を立っていく。ざわめく教室の中で、帰り支度をしている茜のところに柚香がやってきた。
「茜、帰ろっ」
「あ、わたし、図書室寄りたくて……」
「そう? じゃあ一緒に行くー」
鞄を持って席を立つと、なずなもこちらへ向かってきた。
「茜ちゃん、図書室行く?」
「うん。なずなちゃんも?」
「ん、ちょっと寄ろうかなって。柚香も一緒に行くの? 珍しいね」
「あたしだって図書室くらい行くよ!? それに一緒に帰りたいし」
唇を尖らせる柚香に、なずなはごめんごめんと笑いながら謝る。
三人で連れ立って図書室へ行く。新学期早々の図書室の中に、他の生徒の姿はなかった。カウンター内で作業をしていた司書の
「あら、椎名さんと早坂さん。今年も図書委員なんだって? またよろしくね」
「はい」
「よろしくお願いします」
茜となずなは一年生の頃から図書委員なので菊池とはすっかり顔見知りだ。茜は先生と気さくに話をするということがなんとなく苦手でできないのだが、彼女となら少しは気軽に話せる。なずなと三人で軽く話していると、ふと、二人の後ろにいた柚香が少し不満そうに口を開いた。
「先生、あたしもいまーす」
「ああ、ごめんなさい。河野さん……だったよね? 今年はたくさん本を読んでくれたら先生嬉しいな」
「……はーい」
柚香は僅かに渋面を浮かべて頷いた。彼女が休み時間に図書室へ足を運ぶことは非常に稀なので、その言葉が実行される可能性は低いかもしれない。
柚香の様子に苦笑を浮かべてから、なずなが口を開いた。
「先生、今日ってもう本借りられますか?」
「大丈夫よ。まだ新刊はないけど」
言われて、カウンター近くの新刊コーナーを見てみると、並べられている本は春休みに入る前に見た本と同じ並びだった。気になっていた本は三月のうちに全部読んでしまったので、茜は久々に読み返したいと思っていた本を書架から取ってきた。
「来週には新しい本が届くと思うから」
「本当ですか?」
「ええ。今度の委員会もよろしくね」
「はいっ」
そんなやり取りをしながら貸し出しの手続きをしてもらい、借りた本を鞄の中へしまう。なずなも二冊本を借りていたが、ぶらぶらと書架を軽く見ていた柚香は結局何も借りなかった。
「先生、さようならー」
図書室をあとにし、あっという間にひと気のなくなった校舎の中を歩いていく。普段の放課後は教室に残っている人が何人もいるのに、こういう日はみんな帰るのが早い。
「ねっ、そういえば日向さん、直林文学賞にノミネートされたんでしょ?」
昇降口を過ぎてから、なずながふと思い出したように口を開いた。その口ぶりはどこか興奮している。彼女も夏癸の小説の読者ではあるが、まさか昨日の今日で知っているとは思わなかった。
「あ、うん。なずなちゃん、もう知ってるんだね?」
「昨日ネットのニュースで見たの!」
「なにそれ、すごいの?」
「すごいよー! だってあの直林文学賞だよー!?」
「あの、って言われてもよくわかんないし……」
誰々が受賞したことがある、と著名な作家の名前をなずなが上げるが、柚香はいまいち理解していない顔をしている。知名度の高い文学賞ではあるが小説に興味がない中学生からするとこの程度の認識なのだろう。
「まだノミネートされただけだから、受賞するかどうかはわからないけど……」
「受賞するよ! ていうかしてほしい! 私あの本めっちゃ好きだもん!」
「……うん。わたしも、してほしいなぁ」
今回ノミネートされた作品を書いていたときの夏癸の様子を思い返す。いままでに書いたことのない題材に挑戦するからと、たくさんの調べ物や取材をして、執筆中も何度も難しそうな顔をしていた。中学生の茜に手伝えることはほとんどなかったけれど、彼が少しでも執筆に集中できるようにとできる限り家事は手伝うようにしていた。それがどの程度役に立ったのかはわからないが、苦戦していただけに原稿を書き上げたときの夏癸はとても満足げに見えた。
茜が実際に小説を読んだのは、本が完成してからだ。書いている途中の原稿が気にならないと言ったら嘘になるが、読みたいとねだったことは一度もない。いつも必ず本になるまで待つことにしている。発売日の少し前、「淡雪の彼方」と銀色の箔押しでタイトルが印字された美しい装丁の分厚い本を渡してもらって、夢中になって読みふけった。
いままでの夏癸の作品とは少し雰囲気が異なっていたが、文章が胸に深く突き刺さって、読みながら何度も泣いてしまった。賞を受賞したら、きっともっとたくさんの人が夏癸の作品を読むようになるだろう。それはとても嬉しいことだと思う。
「……あっ、私がこういうこと言ってたって、日向さんに言わないでね? お願いねっ」
「うん。言ったりしないよ、大丈夫」
念押しするようになずなから言われ、茜ははっきりと頷いた。
なずながファンだということは夏癸には黙っていてほしいと頼まれているので茜から言ったことはない。何でも本人に知られるのは恥ずかしいらしく、茜とはただの友達だということにしている。
もう何年も一緒に暮らしているので作家の日向夏癸が同じ家に住んでいるということは茜にとっては当たり前のことだが、確かに、友達の家族が好きな作家だという状況は想像がつかない。
「結果出るのって来月なんだよね?」
「うん。五月十四日だって」
「えっ、修学旅行中じゃない?」
柚香に指摘されて、そういえばと気が付く。見事に修学旅行の日程と日が被っている。
「……茜、修学旅行休んだりしないよね?」
「そんなことしないよ! 大丈夫大丈夫っ」
心配そうに訊ねられて、茜は慌てて首を振った。確かに夏癸にとっては大切な日であるが、茜が直接関係しているわけではない。修学旅行に行くこと自体は何も問題ないだろう。少しだけ心配事はあるけれど、中学校で唯一の行事なのだから、ちゃんと行きたいと思っている。
「よかったぁ! そろそろ班決めたりするよね? 一緒だといいなー」
「どうやって決めるんだろうね? くじ引きとかじゃなきゃいいけど……」
「うん。柚香ちゃんとなずなちゃんと一緒に回りたいな」
いつの間にか話題の中心は修学旅行のことになり、それからは三人で他愛のない話をしながら帰路についた。
「ただいまぁ」
自分で鍵を開けて玄関の引き戸を開く。返答の声はなかったが、居間の襖をそっと開けてみると夏癸の姿があった。座卓の上にノートパソコンを開いて真剣な表情で手を動かしている。集中しているみたいなので余計な声はかけないでおこうと思った瞬間、ふいに彼が顔を上げた。
「ああ、茜。おかえりなさい。……もうこんな時間だったんですね」
彼は少し驚いた様子で時計を見上げた。それほどまでに集中していたのだろう。そういえば、短編の締め切りがそろそろだと話していた。
「お昼、わたし作りましょうか……?」
「大丈夫ですよ。食べたいものありますか?」
思わず口を開いたが、夏癸は柔らかく微笑むとパソコンを閉じて立ち上がった。
「えっと……じゃあ、オムライス」
「わかりました。すぐ作りますから、着替えておいで」
「はぁい。あ、じゃあ、手伝いますねっ」
茜はすぐさま身を翻すと、手洗いうがいを済ませて私服に着替えてきた。黒いエプロンをつけて台所に立っている夏癸の横に並んで立ち、小学生のときに家庭科の授業で作った淡いピンク色のエプロンをつける。
夏癸は冷蔵庫の中身を確認して、いくつかの野菜と卵、ウインナーを取り出した。
「オムライスと……サラダとスープも作りましょうか。じゃあ、茜は野菜を切ってもらえますか?」
「はぁい」
茜は返事をすると、包丁とまな板を用意して調理台に向かった。サラダはコールスローサラダにするというので、キャベツとにんじんを千切りにする。コンソメスープとオムライスに使うために玉ねぎも切り、ケチャップライスに使う分はみじん切りにした。続けてウインナーも薄切りにしておく。
オムライスを作るのは夏癸に任せて、茜はスープ作りに取りかかった。サラダに使う野菜は取り分けておき、片手鍋にキャベツとにんじん、玉ねぎ、ウインナーを入れて水を注ぐ。あとはコンソメを入れて煮込むだけだ。火加減に気を付けて、味が足りなければ塩を足せばいい。
隣のコンロでは、夏癸が手際よくケチャップライスを作っている。美味しそうな匂いが漂ってきたところで、茜はふと膝を擦り合わせた。台所は少し肌寒いので、スカートの足元はどうしても冷えてしまう。けれど、それだけではないことには薄々気付いていた。
(おトイレ行きたい……)
そわそわしてしまうのは尿意のせいだった。そういえば、帰ってきてからトイレに行かないまま台所に来てしまった。
鍋の様子を確認するが、もう少し煮込む必要がありそうだ。先に行っておけばよかったと後悔するものの今更遅い。
調理の途中でトイレに立つのは気が引ける。作り終わるまで我慢しようと思ったが、一度尿意に気付くと意識を逸らすのは難しくて、どうしてももじもじと身体を揺すってしまう。
「茜?」
「ひゃ、はいっ」
ひとつ目のオムライスを作り終え、皿に移していた夏癸に突然声をかけられたため、茜は思わず飛び上がりそうになった。彼は苦笑交じりに言った。
「火は見ておきますから、行っておいで」
「あ……はい」
彼の言葉の意図することをすぐに察して顔が赤くなる。そんなにわかりやすい動きをしていたのだろうかと恥ずかしく思いながらも、茜はすぐにエプロンを外してトイレへ歩いていった。
***
「いただきます」
手を合わせて、コンソメスープに口をつける。野菜は柔らかく煮えていて、塩加減もちょうどいい。
トイレを済ませて丁寧に手を洗った茜が戻ってくると、夏癸はすでにオムライスを作り終えて、スープもできあがっていた。サラダの仕上げもそのまま彼がしたので、茜は食器を運んだだけだ。
手伝いを中断してしまったことに少しだけ落ち込みつつ、スプーンでオムライスを一口分すくった。ふわふわとろとろの半熟卵とほんのり甘いケチャップライスの味が口の中に広がる。幼い頃から食べ慣れたオムライスの味だ。休日のお昼に、父がよく作ってくれるオムライスが大好きだったことを、なんとなく覚えている。
食べ進めていると、夏癸がふと思い出したように口を開いた。
「そうだ、明日からお弁当いりますよね?」
「うん。お願いします」
茜が通う藤代第一中学校は給食がないので、昼食は弁当を持っていっている。一応パンの販売もあるが、茜はほとんど使ったことがない。本当は自分で用意できれば一番いいのだが、そんなに早起きすることができないので夏癸に任せきりになっている。
「入れてほしいおかずありますか?」
「ええと……夏癸さんのごはんならなんでも美味しいから、作りやすいものでいいですよ」
学校がある日は毎日弁当を作ってくれるだけでも有難いのに、夏癸はほとんど市販の冷凍食品は使わずに美味しいおかずを用意してくれる。それでも、高校生になるまでには、彼に頼りきりにならずに自分で用意できるように頑張りたいと思っている茜だ。実行できる自信は、まだあまりないけれど。
ちゃんと早起きできるようになりたいなと考えながら、オムライスを口へ運んだ。
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