第2話 彼女の日常

 始業式やホームルームを終え、初日は午前中で解散となった。

 なずなとは家の方向が違うので途中で別れ、柚香と並んで帰り道を歩く。誰になるか心配していた担任教師は、橘葉子たちばなようこという英語を担当している穏やかな女性教諭になった。


「担任の先生、橘先生でよかったね」

「うん、葉子先生優しいし。でも保健委員になっちゃったよー、仕事多そうでやだなぁ」


 あのときジャンケンに勝っていれば……とぼやく柚香に思わず苦笑してしまう。


「柚香ちゃん、テニス部も部長になったんだっけ? 大変そうだね」

「ほんとだよー! 茜はまた図書委員なれてよかったね」

「うん。なずなちゃんも一緒だし」

「あ、ねえ、本屋寄ってかない? 今日、『結羅ユイラ』の新刊出るんだー」

「いいよ。わたしも欲しい本あるから」


 帰り道を少しだけ外れて駅前の書店に立ち寄る。店内に足を踏み入れると、柚香は真っ先に少年漫画の新刊コーナーに向かい、茜はライトノベルの棚に足を向けた。


「えっと……あ、あった」


 並んでいる新刊の中から目当ての本を見つけて手に取る。

 少女小説の人気シリーズ『伯爵様の花嫁』最新刊だ。前巻の終わり方が衝撃的で、続きがずっと気になっていたのだ。

 レジに向かう途中で目に入った文芸のコーナーでつい足を止めてしまう。

 平台に並べられた四六判のハードカバー。ひときわ目立つ一角に置かれた一冊が目に入り、茜の頬は思わず緩んだ。著者の名前は、日向夏癸。

 先日発売されたばかりの新刊だ。売り上げは好調らしく、店内の週間売上ランキングで一位になっている。茜は発売日の少し前に夏癸本人から手渡され、夢中になって一日で読み切ってしまった。


「茜、お待たせー」


 小さなレジ袋を提げた柚香が戻ってきたので慌てて振り返る。


「ごめんなさい、わたしまだ買ってなくて」

「いいよいいよ。あ、日向さんの本。新しいの出たんだ?」

「うん、面白かったよ。柚香ちゃんも読まない?」

「んー……また今度……」

「はぁい。これ買ってくるね。ちょっと待ってて」


 苦笑を浮かべつつ、レジへ向かう。柚香は、漫画はよく読むが活字は苦手なようで、小説はほとんど読まない。もっとも、茜も漫画はあまり読まないので、柚香から勧められた作品を読むことは稀なのでお互い様だ。

 会計を済ませて書店を出る。柚香と別れて家に帰り着くと、玄関には見慣れない女物の靴が一足置いてあった。


(お客さんかな……?)


 仕事の関係だとしたら邪魔をしてはいけない。そろそろと歩いて居間の前を通り過ぎようとすると、突然目の前の襖が開いた。


「おかえりなさい、茜」

「あ、ただいま……」


 顔を出したのは夏癸だった。茜が帰宅したことに気付いて声をかけてくれたのだろう。


「茜ちゃん? おかえりなさいー」

「篠原さん……! こんにちはっ」


 続けて顔を覗かせたショートヘアの女性は知っている人だった。

 夏癸の担当編集の一人、篠原杏奈しのはらあんなだ。


「お菓子持ってきたから、遠慮しないで入って入って」

「あ、はい。ありがとうございます」


 篠原に促されるまま居間に入り、おずおずと座卓の前に腰を下ろす。差し出されたのは、有名店の焼き菓子詰め合わせだった。


「はい、好きなのどうぞ」

「ありがとうございます。えっと……じゃあ、これで」

「お茶、淹れ直してきますね」


 躊躇いがちに手を伸ばしてフィナンシェを取ると、夏癸はティーカップを持って席を立った。思わず彼に視線を向けるが、振り向かずに隣の台所へ消えてしまう。


「茜ちゃん、今日から学校? 今度三年生だっけ?」

「は、はい。今日は始業式で……」


 幼い頃から何度も会っているが、彼女と二人きりになることは慣れていないので少し緊張してしまう。


「そっかー、もう受験生だねぇ。高校とか決めた?」

「ええと、まだ、全然……」

「そんなすぐには決められないよね。私も志望校決めたの遅かったかも。勉強大変だと思うけど頑張ってね」

「は、はい」


 相槌を打ちながら、茜はひそかに顔を曇らせた。正座した膝の先をこっそりと擦り合わせる。


(どうしよう、おトイレ行きたいのに……)


 帰り道の途中から尿意を感じていて、家に帰ったらすぐにトイレに行こうと思っていたのだが、完全にタイミングを逃してしまった。この状況で席を立つのはなんだか恥ずかしい。

 もじもじと小さく足を動かしながら、篠原が話しかけてくる声になんとか応えていると夏癸が紅茶を運んできた。ティーカップを置く彼と視線がぶつかる。


「茜、手洗ってきました? 制服も着替えてきなさい」

「は、はいっ」


 夏癸に促されて、弾かれたように立ち上がる。平静を装って廊下に出た茜だが、襖を閉めた途端、ぱたぱたとトイレに駆け込んでしまった。


***


(はぁ……ギリギリセーフだった……)


 無事に用を済ませて、私服のシャツワンピースに着替えて居間に戻った。慌てて廊下を走ってしまったことを思い出して恥ずかしさを感じながら襖を開けたが、二人とも平然とした様子で迎えてくれた。

 夏癸の隣にちょこんと座り、ストレートのダージリンにそっと口をつける。温かい紅茶の味にほっと気持ちが安らぐ。篠原からもらったフィナンシェの個包装を剥がして小さく齧ると、焦がしバターとアーモンドの香りと甘さに自然と顔がほころんだ。


「篠原さん。あのこと、茜に教えても構いませんか?」

「もちろん! 今日正式に発表されますしね」

「……なにかあったんですか?」


 茜が首を傾げると、篠原は得意げな笑みを浮かべて口を開いた。


「なんと、日向夏癸『淡雪あわゆき彼方かなた』、直林文学賞にノミネートされました!」

「えっ、本当ですか!?」


 予想外の言葉に、思わず声を上げてしまう。

 夏癸の表情を窺うと、口元を緩めて小さく頷いた。篠原が告げた文学賞は中学生の茜でも知っているくらい有名なものだ。ノミネートされた作品は昨年末に発売されたもので、夏癸の小説がこの賞の候補に挙がるのは初めてのことのはずだ。


「え、えっと、おめでとうございます……! あ、でも、おめでとうって言うのはまだ早いですよねっ」

「いえ、ノミネートされただけでも嬉しいですからね。こういうものには興味がないと思っていましたけど、やっぱり嬉しいですね」

「喜ぶのはまだ早いですよ! 結果が出るのはまだ先なんですから!」


 篠原がたしなめるように言うと、夏癸は淡く苦笑した。


「わかっていますよ」

「これからもっと注目されますからね! 一緒に頑張りましょうね!」

「ええ、よろしくお願いします」


 二人の会話を聞きながら、茜はなんとなく居心地の悪さを覚えてしまった。この場に、ただの読者である自分がいてはいけないような気がする。

 席を外したほうがいいだろうかと迷う茜だったが、篠原が腰を上げるほうが早かった。


「じゃあ私はこれで失礼します」

「随分慌ただしいですね。よかったらお昼でもと思ったんですが」

「とっても魅力的ですけど、このあと打ち合わせがあるので。また今度、是非! またご連絡します。お疲れ様でした!」

「ええ、お疲れ様でした」

「あ……お菓子、ありがとうございました」

「どういたしまして。茜ちゃんもまたね。それじゃあ失礼します!」


 茜が呆然としているうちに、あっという間に篠原は立ち去っていった。


***


「茜、ごはんですよ」

「ひゃ……っ」


 急に聞こえた声に、飛び上がりそうなほど驚く。振り返ると、すぐ後ろに夏癸がいた。


「何度か呼んだんですけど、聞こえていないみたいだったので。勝手に部屋に入ってすみません」

「あ、いえ、ごめんなさい。全然気付かなくて」


 茜はばつが悪そうに、読んでいた本にしおりを挟んで閉じた。

 買ったばかりの『伯爵様の花嫁』を、昼食を終えたあとからずっと読んでいたのだが、すっかり時間を忘れて読みふけってしまったみたいだ。

 勉強机に本を置き、立ち上がるとお腹の奥に重さを感じた。


(あ……どうしよう、トイレ……)


 読書の途中で一度手洗いに立ったのだが、それから数時間経ったいま、再び強い尿意を覚えていた。

 部屋を出ていく夏癸のあとに続いて、階段を降りていく。

 階段を一歩一歩踏み締めるたびに膝が震えた。いますぐにでもトイレに行きたいくらいだけれど、夏癸の横を追い越していくのはなんだか気まずい。下の階に降りたらさりげなくトイレに向かおうと思い、焦りながらもゆっくりと足を進める。

 そんな彼女の心を見透かしたかのように、前を歩く彼が唇を開いた。


「……茜、トイレ大丈夫ですか?」

「い、行きたい、です」

「早く行っておいで」


 苦笑の混じった声に言われて、頬を染める。首を竦めるようにして彼と視線が合わないようにしながら、茜はやや急ぎ足で階段を降り、一階にあるトイレのドアを開いた。



 手を洗ってきて、なんとなく決まりの悪さを感じながら食卓につく。

 今夜の献立は肉じゃがにほうれん草のおひたし、冷奴、それにご飯と大根の味噌汁。普段は夕飯作りを手伝うことが多いのだが、今日はすっかり忘れてしまった。


「いただきます」


 手を合わせて、箸を手に取る。

 夜は二人とも見たい番組はないのでテレビはほとんどつけない。静かなのはいつものことだが、今日はいつも以上に静寂が気になってしまう。

 箸を進めながら、そっと夏癸の顔を窺う。ふいに、視線がぶつかった。


「茜? ……そういえば、クラス替えどうでした?」

「えっと、柚香ちゃんと、なずなちゃんとも一緒でした」

「ああ、それはよかったですね。心配していましたもんね」

「うん。あと、麻倉くんともまた一緒で……あ、あと、今年も図書委員になれて」


 普段通りに学校であったことを話し出すと、いつの間にか気まずさは払拭されていた。



「はぁ……シャーロットとハワード伯爵、どうなっちゃうんだろう……」


 あとがきの最後の行まで読み終え、ぱたんと文庫本を閉じる。

 夕飯の後片付けを手伝い、入浴も済ませてから布団に潜り込んで本を開いたが、残りのページ数は少なかったのですぐに読み終わってしまった。

 今回も面白かったが、また続きの気になる終わり方だった。早く続きが読みたいと思ってしまうが、続刊が発売されるのはどんなに早くても四ヶ月後だ。


(最初から読み返そうかなぁ……でもほかの本も読みたいなぁ。明日、図書室行こうかな)


 本を枕元に置き、部屋の明かりを落とす。真っ暗にしてしまうと怖くて眠れないので、小さい明かりをひとつだけ点けておく。

 物語の余韻に浸りながら、茜はそっと瞼を落とした。

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