3



「んぐっ······ちくしょう」


 呻き声を漏らしながら指を動かす。湿った土が付着した。触れた感触からしてどうやら地面にうつ伏せとなって倒れていたらしい。耳を澄ませば小鳥の囀りも······聞こえたるような気がしなくもない。


 起き上がろうとしたが起き上がれなかった。ピクピクと僅かに震えるだけ。


 と言うのもボクの肉体を未知の倦怠感が襲っていた。まず動く事に抵抗がある。口を開いただけでも精一杯だ。あの女への憎しみを単調な言葉として吐く事が限界だった。


 動けないのでは仕方が無い。そのままの姿勢で回復を待つ。


 それから暫く経ち、漸く身体を動かすことが出来た。しかし、ゆっくりと身を持ち上げた次の瞬間、ぐわんぐわんと頭が揺れるような、腹の奥から何かが込み上げて来るような、そんな症状が降り掛かってくる。


 それでも立ち上がる。ふらふらながらも力強く立ち上がった。左手で口を押え、右手を動かし辺りを探る。そして何かに触れた。ザラザラとした硬いもの。押してみて安定したものだと理解したので、それを支えに使った。


 これで完全に立ち上がる。


「んぷっ······」


 思わず声が漏れた。とても気持ち悪かった。食後だったら確実に出していただろう。幸い胃袋には何も無く嘔吐はしなかったものの、口内から喉の奥にかけて独特な不快感が纏わりついた。


 これは胃酸に依るものだと聞いたのだが本当だろうか。


 と言うか一体何が起きたんだ。


 ここは何処だ。


 そんな事を考えながら、恐る恐る瞼を開いた。見てみれば分かるだろう、と。


「ん······!」


 世界を覗く。本当の意味で景色を初めて見た。


 大自然だ。これが木という植物なのだろうか。聞いていた通り大きい。太い幹に沢山の枝を生やし、その先に葉っぱを付けている。そんな木が無数に存在した。見渡す限り、その木で溢れかえっている。


 ボクが支えとしていたものも木だった。押しても動かないこの木はとても頼もしく安心出来る。


「ん······」


 ボクは静かに涙を零した。この景色は、あまりに美し過ぎた。広大で雄大で、飲まれそうなほどの圧倒的自然。


 視覚から得た情報は幸福だった。脳みそが喜んでいる。


 溢れる涙を拭い拭い、それでも止めることが出来ず、遂には嗚咽を漏らし始めた。


 広く閑散とした森の中で、ボクは声を出して泣き始めた。感動が過ぎると人は泣いてしまうらしい。




 ※ ※ ※




 泣き止んだ後。ボクは木の幹を背にして景色を眺めていた。何も変わらない静かな森を、長いこと眺め続けている。ザワザワと風で揺れ動く枝葉。その隙間から射し込む陽。舞い飛ぶ葉。何度も何度も見ているが、未だ飽きずに眺めていた。


 目というのは素晴らしい。小さな囀りしか聞こえず、居るかどうかも怪しいような小鳥を視認する事が出来るのだ。木の枝に止まり、口を開けて鳴く鳥を初めて見た。本当に翼を生やして空を飛んでいることに感動した。飛翔や滑空、着地に至るまで見ていて飽きない。音を聞くだけより数倍楽しかった。


「んへへ」


 若干気持ちの悪い声を漏らし、それに気付いて両頬を叩く。緩んでいた口角を正して深呼吸を行った。


 さて、と冷静になって考える。これからどうすれば良いのだろうか、と。現代で生きる女子小学生たるボク。サバイバル知識なんざ持ち合わせていない。周りにあるのは全て見た事も無いものだ。食べれるのか、食べれないのか。それすらも分からない。


 手始めに何からすれば良いか。それを思案するも思い付かない。川を探すのが良策か、それとも果実でも探そうか。いやでも川の場所なんて分からないし、無闇矢鱈と歩くのは悪手。果実を探そうにもこれまた闇雲に歩かねばならない。


 思い付いては打ち消し、また別の案を考える。


 思考すること数分後。結局は何も思い浮かばず、森を眺めて現を抜かす。


 少し離れた右方からガサゴソと叢の揺れる音がした。其方へと意識を向け、首を回す。


「ん?······動物?」


 そこには茶色い生物が居た。彼は四足歩行の動物だ。尻尾も生え、人のそれとは違う耳も生やしている。


 それがグルルッと唸り声を上げた。喉から鳴らされた音に対して、ボクはビクリと身体を震わせる。


 猫かな、犬かな。この唸り声からして犬か。すごい凶暴そうな見た目だ。これを可愛いと思えるのだろうか。あ、でもこれは所謂野犬と言うやつか。そりゃ可愛くないわけだ。そっか野犬か······野犬って、やばくね。


「ん!?」


 慌てて起き上がり、野犬さんと向かい合う。唸る野犬さんは涎を口から垂らしていた。お腹が空いているのかと予想する。食事をしたいのだとすると、餌はなんだろうか。犬って何を食べるんだっけ。ドッグフード······あとは肉かな。······肉か。


「ん······そっか、ボクが餌か······」


 なるほど、と心の中で呟いた。彼の行動が読めてしまった。彼はボクを襲って食らおうというのだ。


 胸がバクバクと鳴っている。緊張しているのがよく分かった。


 ボクはガリガリだ。食べても美味しくないぞ。骨ばっかだぞ。そういや犬って骨を噛むのが好きなんだっけ。あ、じゃあ、ボクの骨は脆いからね。噛んでも楽しくないよ。木の枝を食む方がまだマシだよ。


 胸中で叫びながら後ろに下がる。1歩2歩と下がって何かに躓いた。どうやら木の根っこらしい。咄嗟に手を着いて後頭部の強打を防いだのが良かった。2度目の死とはならなかったから。


「んっ······や、やめて······来ないで······!」


 尻もちを着いたボクに野犬がのっそりと近寄ってくる。ボクも離れようとするが、腰が抜けてしまい動けない。


 獣臭がツーンとボクの鼻腔を刺した。それが見ているものは現実なんだと認識させる。夢じゃない。紛れもない現実。


 犬が飛び掛った。ボクは思わず目を瞑り、顔を腕で庇う。


 漏らさなかったことは褒めて欲しい。漏らす尿が無かったから、とも言えなくはないけどさ。


「キュゥゥンッッ!?」


 そして次の瞬間、風を切るような音が聞こえたかと思えば犬の叫び声が響いた。次いでドサッと落ちる音、暴れる音、犬の断末魔と順に聞こえる。


 腕を下ろし、恐る恐る目を開いた。そして犬に視線を向ける。


 何か、半透明な棒状のものが犬の頭を貫いていた。頭を貫き、地面に縫い付けている。その箇所からは煙が立ち、焼けているような臭いもした。血がダラダラと流れ出ており、小さな血溜まりを作っている。


 口を押えた。胸から込み上げるものを感じたのだ。


 グロへの耐性が無いせいか、血を見るだけで気持ち悪い。口を半開きにして舌をだらりと垂らす犬。それらから絶命したのだと理解した。これが死骸。今度こそ吐いてしまう。


「おや?見た事ない髪色だね。何処出身の子かな」


 その時、後方から声がした。女声だ。その声がするまで周囲に人の気配を感じていなかった。それ故に慌ててしまう。


 振り向けば髪を後ろで一つ縛りにした女性が居た。髪色は自身の髪よりも明るい。そう、その色はボクの瞳に似ていた。そして、あの女の髪にも似ていた。


 格好は非常にラフなもの。豊潤な胸を強調し、扇情するような格好だ。己の胸と見比べて、なんてハレンチな······と思ってしまう。


 その女性は手に何かを持っていた。棒のようにも見える。ただ弧を描くように湾曲している。良く見れば枝の両端に細い糸が結ばれ、ピンッと張られているのがわかった。


 弓矢。


 その武器の名が頭に浮かんだ。湾曲した棒に糸を張ったものが弓。その弓でもって放つものが矢。その知識しかないが、彼女の持つ武器が弓だと直感で理解した。


 あの凶暴そうな犬を1発で仕留める腕だ。ボクも簡単に殺されるだろう。そう考えると身体が震える。目の前に立つ女性は犬より怖かった。


「あぁ、そう警戒しないで欲しいなぁ。一応、私が貴女を助けたんだよ?感謝してくれてもいいんだけどね」

「ん、あ、うん······ありがとう、ございます······」

「おお。素直に感謝出来る良い子じゃない。大丈夫?立てるかな?」


 女性は満足そうに頷き、手をボクへと差し伸ばした。少し躊躇ったが、彼女の言動から意図を汲み取りその手を借りて立ち上がる。それからまた深々とお辞儀した。

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