7/19(日) 葛西詩織⑤
「昔は傷ついたのかもしれないけど、なにもしていない今は、全然傷ついてないんじゃないの?」
「なんですか、それ……っ!」
そんなわけないのはわかってる。全身が自分の言葉を拒絶して粟立つ。
それを気取られないように、精一杯悪い顔を携えるよう意識を集中させる。
「傷つきたくないんでしょ。結局は自分がかわいいんだよ。現状維持は楽じゃん?」
「違います、やめてください!!」
懸命に首を振っているけど構わず、あえてきつい言葉を選んで投げかける。
「たしかに人間はぶつかることで、傷つけたり傷つくこともあるよ。それでも人は壊れない。繋がっていられるんだよ、絆があるから」
怯えたように暗く陰る先輩の瞳を、逃がさないとばかりにじっと見つめた。
「でも虎蛇を見ててもわかるでしょ。絆は最初からあるわけじゃない。少しずつ、お互いの核心に触れて、さまざまな感情を共有して。きつく結ばれていくものなんだ」
「もうそれ以上は……」
「先輩はいくら頭が良くたって、そんなこと知らないんだ。だって絆作りをずっと放棄していたんだから。親も友だちも肝心なときにそばにいない。唯一哀れんでくれたのは、お金で雇われたおじさんだ」
「やめて……っ!」
目の前の人は大きく手を振り上げた。ぶるぶると唇をふるわせ、俺を強くにらみつけて。
「誰も言わないから俺が教えてあげるけど、先輩も先輩ん家も、異常だよ」
わざと見せつけるように嘲笑を浮かべた。
先輩の目が、信じられないというように一瞬大きく見開かれた。じっと二人、見つめ合う。きれいなまぶたがわずかに痙攣し、振り上げた手はたえず震えている。打たれやすいよう、俺はそのまま動かなかった。もちろん視線も逸らさずに。
ついに手が動きを見せた。しかしそれが俺に届くことはなかった。生気を失ったかのように引力に任せて落ちたのだ。先輩が先に目を逸らし、悔しそうに唇を噛んだ。
叩かれた方が何倍もよかった。
先輩、俺はうれしかったんだよ。
どんどん自然な笑顔を見せてくれるようになって。
冗談を言うようになって。
虎蛇会を“大切な居場所”って言ってくれて。
最初のころと別人のように身近に思えて。
でも、やっぱり先輩はダメだった。もうこれ以上は変われない。
自分の気持ちよりも、“男に触れてはいけない”という家族のルールを、守ったのだから。
「……ふっ、ううっ」
そのうち、すすり泣く声が聞こえてきた。
どうしようかと考えあぐねていると、顔を手で覆ったまま先輩は俺に背を向けて離れて行った。
慌てて、その背中に向かって問いかける。
「もし俺が、この崖から落ちかけたら……先輩は手を差し伸べて、助けてくれるんだよね?」
我ながらしつこいし、卑怯だと思う。でも、嘘でも「そんなの当たり前です」って答えて欲しかった。
しかし先輩は振り返ることなく、足早にテラスをおりて行ってしまった。
「ああ〜〜〜。何やってんだあ……」
その場に座り込んで拳を床に叩きつけた。さっきから胸の底で悲鳴が上がってたまらない。別宅から顔を背けると、眠り支度をはじめた太陽が赤くにじみ、海の上に柔らかく浮かんでいるのが見えた。夜が訪れていた。
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